沙希は目の前の光景を見て、何か重たいものが体の中に落ちていく気がした。華やかな光に満ちたファーストフート店で、佳奈とその友人の女の子がバーガセットを食べ終わり、山盛りのポテトセットを頼もうとしていた。

「お姉ちゃん、ゴメェン」

 佳奈が語尾をのばす甘ったるい口調で店に入ってきた沙希に手を振る。家の中では決して聞くことのない可愛らしい声音は、社会生活での佳奈の必需品で、家族以外の誰かがいるときは常に語尾を伸ばしたこの話し方をする。

「どういうこと?」

 ひんやりとした声が沙希からもれる。佳奈の友人が心配そうに首をすくめて姉妹の顔を交互に見る。友人の視線が離れた瞬間だけ、佳奈は今にも舌打ちをしたそうに顔をしかめ、沙希をにらんだが、瞬時に表情を元に戻して、可愛らしく謝って見せた。

「だからごめんねぇ。お姉ちゃん、お夕飯も買い物してきてくれたの? うわぁ、ごめんなさい。お金、全部つかちゃったんダァ」

 夕飯代は佳奈に渡したと母親が言っていたから、佳奈に連絡し夕食の買い物に付き合ってほしいというと、友人との約束があるのとあっさりと断ってきた。ならばと、とりあえず自分の手持ちのお金で買い、後でお金は佳奈から受け取ろうとスーパーで買い物をして帰る途中、佳奈からメッセージがあった。嫌な予感しかしなかった。

「だからぁ。お腹すいちゃったの。でも、お買い物とかにお金使っちゃったから、ポテト買えないの。お姉ちゃん、代わりにお金払ってくれない? お願い! ポテトだけだよ? あとは全部自分で払ったんだよ?」

 物分りの悪い沙希を諭すような口調。お母さんにそっくり、と沙希は言葉に出さずにつぶやく。

「お金、全部使ったの? 夕ご飯は?」

 沙希は責めるような口調になるのを止められなかった。手に持った買い物袋がずしりと重さを増す。なんとか持ち上げてみせると、佳奈は嘲るような微笑をたたえてにっこりと微笑んだ。

「いらなぁい」

「いらないって……」

 じゃあ、私はなんのために友達との約束を破って、大事な部活をサボって、ここにいるの? 全てを問いかけたい衝動に駆られた。けれど、沙希が言葉を自分の中から見つけ出すよりも早く、佳奈は眉をひそめて言った。

「それ、お姉ちゃんが自分で食べたいものを勝手に買っただけでしょ?」

 何よそれ。

 そう思った瞬間、夜が突然近づいてきたような気がした。煌々と真昼のように明るいファーストフード店の中に、夜中の世界が溢れ出す。真夜中よりさらに深い。店の中の音もどこかに消え、長い長い暗闇の向こうにだけなんとも言えない安らげるような光が見えた。

 銀河の向こうから囁くような声が聞こえる。こっちへおいでよ。

 行かなきゃ。

 ゆっくりとどこかに落ち続けるような妙に心地よい浮遊感を感じた、と思った時に誰かが沙希の腕を掴んだ。世界が、見慣れたファーストフード店が、薄っぺらな光とともに戻ってくる。

 佳奈とその友人が沙希を見ている。いや、正確に言うと、沙希の斜め上。掴まれた腕をたどっていくと、見覚えのある顔があった。あの時の少年だ。

「アレェ、沙希ちゃんの妹さん?」

 妙に軽い声が彼の後ろから聞こえる。にっこりと人懐っこい微笑みを浮かべた見たことのない少年も一緒だった。沙希はぼんやりとした頭で、なんでこんなに完璧な均等がとれた笑顔をこの人は浮かべられるんだろうと彼の口元を見つめ、それから、彼が自分の名前を呼んだことに気づいた。

「かわいいじゃん」

 関西風の訛りがある言葉は軽やかに響き、彼の人懐っこそうな笑顔をさらに魅惑的にしている。佳奈とその友人もまんざらじゃなさそうな顔で、この男の子にほほえみ返している。

「気をつけて」

 腕を掴んでいた少年が低い声で沙希に囁く。何に? 沙希がそんな疑問を抱く前に、少年は手を離すとくるりと踵を返しスタスタと出口に向かって歩き出した。もう一人の少年は、「置いてかないで〜」と歩き出しながら、佳奈を振り向いた。佳奈は毛先を指で梳くようにして微笑みながら、彼の言葉を待っている。

「あんたもそこそこ可愛いけど、正直、俺らには沙希ちゃんが一番だから」

 その瞬間の佳奈の顔には、言われたことが分からないというような白い笑顔が平べったく乗っていたけれど、みるみるうちに見たこともないくらいふてぶてしい表情が広がり、去っていく少年を睨む。一緒にいた友人があっけにとられた顔で佳奈を見ている。

 沙希は我慢しきれず少しだけ微笑んだ。心の中の風の通り道がほんの一ミリくらいだけ広がった気がした。

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