「光一郎!」

 隣のクラスの授業が終わったのを見計らって七瀬は後ろの扉から声をかける。同じ広さ、同じ机、同じ椅子。それなのに自分のものではないと認識しているだけでその教室は異世界だ。特別変わったものは何もないはずなのに雰囲気がガラリと違う。事前に許可を得ないと一歩も入ってはいけないような気分になる。光一郎は教室の窓際で数人に囲まれて談笑していた。


「なんや、七瀬! 入ってこいよ」

 他の生徒に教えられて七瀬に気づいた光一郎が大きく両手を振る。周囲の生徒も光一郎に同調するように「七瀬〜」と手を振り返してくる。こういうのが光一郎の凄さだ。五月頭に転校してきたばかりだというのにすっかり馴染んでいる。


「いや、ちょっと」

 いわゆる『仕事』の話はさすがに教室ではしづらい。七瀬が躊躇すると光一郎が察して立ち上がる。彼を囲っていた生徒たちが不思議そうに七瀬と光一郎に交互に目をやる。微妙に人目を引いてしまった。七瀬がわずかに顔をしかめると、それを受けた光一郎がにんまりと笑って、


「あー、あの話ね! 年上女子に振られた七瀬君を僕がなぐさめてあげますよ」

 と、クラス全体に、いや廊下まで確実に聞こえる大声で言い放った。

「お前! 何言ってんだよ……」

 七瀬が反論する前に素早く光一郎が七瀬の腕をつかんで教室から引っ張り出す。最後に教室を振り返って、

「僕が戻ってこなかったらなぐさめんのに時間足りんかったと思って、うまく先生に言っといてねぇ」

 笑い声と嬌声と悲鳴。その他なんだかわからない励ましの言葉を背に七瀬は光一郎と廊下を走り抜けた。



「お前なぁ」

 休み時間中の生徒の声すらほとんど届かない旧校舎の理科室前の渡り廊下。去年の日付の吹奏楽部の部員勧誘ポスターがいまだに壁に貼られたままで、誰にも顧みられることなく色あせている。七瀬はまずは光一郎に文句を言おうと切り出した。


「なにが? ええやん。あれで七瀬ファンの女子も少しは減るはずだし、僕たちが戻らなくても素敵な友人たちがかばってくださいますって。僕、賢いやん?」


 光一郎は涼しい顔でのたまう。

「お前のあやしい関西弁で言われると詐欺師にみえてくる……」

「ひどいやーん」

 七瀬は、顔に両手を当ててのけぞるように泣き真似をする光一郎をみて、大きくため息をつく。


 一瞬の間。


 光一郎の纏う空気が瞬時に変化する。


「で、仕事なんやろ? 昨日の夜、店主から連絡あった」

 誰もいない廊下に光一郎の落ち着いた声が響く。光一郎は店主の友人の息子という触れ込みで半年前に東京に来た。初めて会った時はなんて無口なやつだと思った。ただ、彼を包む空気に残る痛みのようなものは七瀬にも感じられ、七瀬の横に立っていた祖父がなんとも言えない表情で顔をしかめたのを覚えている。今思えば、あれは泣き顔だったのだろう。


 たった数ヶ月でまるで別人のようなキャラクターを構築し、中学三年の五月というとんでもなく中途半端な時期から七瀬と同じ学校に転校してきた。七瀬は光一郎の笑顔を見るたびに、「お前は本当は誰なんだ」と聞きたい衝動にかられるけど、それは尋ねてはいけないことなのだと、あの日の祖父のしかめ面が釘をさす。


 そして今、光一郎の仮面の奥がわずかに透けて見える。七瀬は自分の顔の一部が緊張するのを感じながら、店主が七瀬に伝えた言葉をそのまま口にする。

「お前に渡せって」

 昨夜、店主から紙切れを預かった。それは本からこぼれ落ちた一枚の紙。本としての人生を終えたものの、訳あって一部だけが世界に取り残されてしまった古紙が表店の古箪笥の中に丁寧に収められていた。好事家が定期的に買い取っていくのだという。


 光一郎は受け取った紙を窓から差し込むやわらかな光にかざすようにして薄く微笑んだ。教室の真ん中で友人たちに囲まれていた時の笑顔とは真逆の色をしていた。


「あの人が僕に頼みごとをするなんてねぇ〜」

 わざとらしく語尾を上げた口調からは奥に潜む歪みが仄暗い隙間の向こうから顔を出したように見えた。

「頼みごと?」

 七瀬の問いに光一郎が振り向く。目の奥を射抜くようにひんやりとした眼球をひからせ光一郎が七瀬を見つめている。

「お前の仕事やないの?」

 七瀬は光一郎の視線を避けるように窓の向こうに目をやる。初夏の空が広がっているはずなのに視線を持ち上げられずぼんやりと日差しを跳ね返すアスファルトを眺めながら七瀬はこたえる。

「俺の仕事はただ回収するだけだって釘を刺された」

 自分でも言い訳めいた響きを持っていると思った。

「ふーん」


 光一郎の声にあった過去の色が消え、学校で普段用いる軽い感じの声音に変わった。

「ええやん。つまり、少なくとも逆らってみせる素振りは見せたわけだ。いいねぇ、俄然、七瀬くんを応援してあげたくなってきたわぁ」

 話してみなよ、そう続けた光一郎の言葉は柔和な響きを持って七瀬の耳からゆっくりと体の中に染み込んだ。七瀬は開け放たれた窓から吹き込む初夏の風を感じた。遠くで始業のチャイムが聞こえ始めた。渡り廊下の向こう側の階段を、誰かが小走りで降りていく。どこかの教室で扉がしまる音が響く。広い廊下がしん、と静まりかえる頃、七瀬はようやく窓の外に向かってつぶやくように話し出した。

 祖父の仕事を引き継ぐ形での初仕事。蟲本が寄生している本の持ち主のこと。

「彼女の手にすっかり馴染んでいるように見えた。俺に見える限りの物語もだいぶ進んでて、もう直ぐで現実世界で彼女への影響も始まるはずだ。そうなったら……」

「直ぐに向こう側に持ってかれるだろうなぁ、」

 のんびりとした口調で光一郎はつぶやきながら右手の親指の爪を日差しに透かすようにして、ほんの小さなささくれをとろうとする。うまく取れずにわずかに顔をしかめる。

「僕みたいに」

 そう言って、うすく口元だけに笑いを浮かべた光一郎から目をそらし、七瀬は顎に入った力を一度抜くように小さく息を吐いてから渡り廊下の反対側に目をやったまま、

「それを防ぎたい」とつぶやいた。

「はいはい」

 と、ひらひらと手を振りながら光一郎が七瀬の言葉を遮って、「とりあえず、一回その子に会わせてよ」と言って、店主が光一郎にと言って渡した紙切れを指で弾くようにしながらニヤリと笑った。

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