沙希の家の最寄駅はそれほど大きくはない。それでもこの時間は家路に急ぐ人たちが次々と駅からあふれでて、まるで定められた流れのようにみんな黙々と歩いている。これなら家に着くまで周囲に誰もいなくなることはないだろう。そう安心する自分が自意識過剰に思えて沙希は苦笑する。どちらというとあの綺麗な顔をした少年のほうが沙希よりも身の危険があるんじゃないかと。

 さっきの男の子は一体何だったんだろうか。歩きながら沙希は彼が本に手を伸ばしてきた瞬間のことを思い出していた。別に荒々しい素振りは少しも見せなかったのにとても怖かった。怖い、というよりも。嫌。彼がホームで電車を見送っているのを見て心底ほっとした。

 喋り方は落ち着いていたけれど顔立ちは少し幼かった。中学生くらいだろうか。中学生。妹の、佳奈の顔が頭をよぎる。もう家にいる時間だろう。母親が「あの子は繊細なんだから」と沙希に諭すようにこの2年間言い続けている妹とあの男の子を比べるととても同じくらいの歳とは思えない。それとも、佳奈と同じくあの男の子も『内と外』の顔を持つのだろうか。ひんやりとした風が吹き付け周囲の人の足が心持ち早くなる。沙希もその波に合わせるようにスピードをあげた途端、鞄の中でスマフォが震えた。もう少しで家。初めは無視するつもりだった。でも、一度鳴り止んだ振動が改めて鳴り出した時に仕方なくスマフォを取り出す。あの男の子と妹を比べたことの報復だろうか。佳奈の番号が表示されていた。彼女が電話してくることはほとんどない。何かを頼むときを除いては。

「もしもし、佳奈?」

「何でメール返してくれないの?」

 出たとたんヒステリックな声が聞こえてきた。

「メール?」

 そういえば電車に乗っている時にメッセージを受信した気配はあった。

「ごめん、電車に乗ってたから」

「宿題が終わらなかったらお姉ちゃんのせいだからね!」

 沙希は歩くのをやめて歩道の脇で止まる。すぐ後ろを歩いていた人たちが邪魔そうに振り向いたけれどすぐに誰も気にしなくなる。まるで自分が透き通るような夜の暗さに溶けてしまったのかとわけもなく不安になり、沙希は自分の掌を空にかざしてみた。その拳に収まるように自宅のマンションが道の向こうに小さく見える。近くて遠いなと沙希はぼんやりと考える。

「ねえ、聞いてる?!」

 沙希は心の中でため息をつきながら、一方で、できるだけ柔らかな声を出すように勤めて佳奈に話しかける。

「大丈夫。聞いてるよ。どうしたの?」

 佳奈がほとんどわめくように話す。学校帰りに寄ったファーストフード店に体操服を忘れてしまったこと。明日の授業に必要なため、見つからないと困る。見つからないのではないかと不安で宿題も手につかない。

「早く探しに行ってきてよ」

 彼女が電話してくることはほとんどない。何かを頼むのではない。それはほとんど命令に近い。

「お姉ちゃん、もう家の近くまで来てるから。じゃあ、一緒に行こうよ」

 そう提案してみた。

「じゃあ、私が宿題できなくてもいいっていうの? 先生に怒られたらお姉ちゃんのせいだからね! わかってるの? ねぇ、自覚あるの?」

 何かをえぐるように続く甲高い声から身を守るように沙希は少しだけ目を閉じる。呼吸を整える。

「わかった。探してきてあげるから。お母さんは家?」

「知らない」

 今日も遅いのかもしれない。今朝見た限り、母親が帰っていないのであれば夕食の買い出しもしたほうがいいだろう。元々マンションのすぐ脇にあるスーパーで買い物をして帰るつもりだった。

「じゃあ、夕ご飯の買い物したほうがいいからお願いできる?」

 返事がない。

「佳奈? 隣のスーパーでお肉かお魚買ってきてくれればいいから」

 電話の向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。「どうしたの?」と呼び掛ける前に絶叫に変わる。

「なんでいつもいつもいつもいつも! 私にばっかりそんなことさせるの! 私、宿題やらなくちゃいけないのに、全然できないじゃん! ひどいよ!」

 謝ってなだめて電話を切った後に沙希は佳奈が買い物や掃除といった家事をやったことがあったか振り返ってみた。記憶の範囲では思い出せなかった。

 歩いて来た道を駅に向かってたどり直す。さっきまで駅から一群のように歩いて来た人たちはもう家に着いた頃だろう。夕食を始めている人たちもいるかもしれない。足早に歩きながら、沙希は鞄の中に入れた本をそっとなでる。ひんやりとした感触が心地よい。少しだけ心が落ち着いた。


 沙希が駅前のファーストフード店で忘れ物を問い合わせ、店中のテーブルの下を探らせてもらい見つけた鞄を手にし、スーパーに寄って夕食用の食材を買って戻るとそれだけで1時間半が経過していた。

 リビングに入ると佳奈はソファーに寝転んでテレビを見ていた。あたりにはスナック菓子と炭酸ジュースを飲んだ後のボトルが転がっている。

「ただいま〜。宿題終わった?」

 返事がない。

「佳奈、ご飯の準備するからそのあたり片付けてくれる」

 ばん、と壁にクッションが投げつけられた。

「宿題なんてできるわけないじゃん! こんな時間まで誰も帰ってこないでご飯も作ってくれない家なんて聞いたことないよ!」

 この2年間、佳奈に何かをさせようとして成功した試しがない。もう少し前まではこちらも同じようなテンションで怒ったり、なだめたり、説得したりして佳奈にやらせようとしてみたが、結局は沙希の時間が多大に奪われた挙句に全て自分でやる羽目になる。今日はこれ以上、佳奈のために時間を割く余裕はなかった。

 夕食の準備をし始めるとスマフォが鳴った。母親からだった。

「ごめんねー! ちょっと今日遅くなりそうなの。夕食の準備お願いできる?」

 ガヤガヤとした周囲の声から笑いながら母親の名前を呼ぶ声がする。楽しげな笑い声。

「わかった。でも、」

「大丈夫! 明日は大丈夫だから」

 沙希の返事を待たずに電話が切れる。

 流しの中に放り込まれたままの朝ごはんのお皿に目をやる。ゴミ箱には昨夜母親が買ってきたケンタッキーの箱が無造作に捨ててある。母親が食事を作ったのは一体いつだったか思い出そうとしたけれど、とても難しかった。


 沙希が寝支度を整え、部屋に戻ろうとした時に母親が帰ってきた。

「ただいま〜」

 楽しげな夜の匂いを漂わせたままリビングに入ってくる。

「佳奈は? 寝たの?」

「部屋にいるよ」

 多分まだ寝ていないだろう。ネットで見ている動画の音楽が時折漏れてくる。

「あー疲れた。ねえお茶入れてくれない?」

 沙希はちらりと時計を見る。もう直ぐ十一時になる。

「いいけど。お茶碗はちゃんと自分で片付けてね」

「つめた〜い! こんな遅くまで頑張ってるお母さんをちょっとはねぎらってくれたっていいじゃない」

 冗談めかした口調だったけれど、本音だろう。沙希は黙ってキッチンに向かいお湯を沸かす。カモミールをセットしてダイニングテーブルに置く。

「じゃあ、私寝るからね。あと、明日は私、本当に部活で忙しいから……」

「うーん、わかってるわよ。 あんたもしつこいわねぇ……」

 ソファーの上に倒れ込むように座った母親はほとんど眠りかけている。ダイニングテーブルの上でゆっくりと冷めていくカモミールに目をやってから沙希は自室に戻る。

 小さいけれど誰にも邪魔されない自分の部屋に入ると沙希はホッとした。ゆっくりと本を開く。話の筋は知っているのになんでこんなに読みたくて仕方がなくなるのだろうか。

「あれ?」

 開いた本がほんの少しだけ厚みが増しているような気がした。気のせいかと思いながらパラパラと最後までページをめくってみる。指を止める。

「こんな続篇あった?」

 思わず独り言を言ってしまう。そこには沙希が読んだことのない物語が加わっていた。銀河鉄道を降りた後、大人になったジョバンニの物語だった。

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