少年、七瀬は沙希が乗った電車を見送ると小さくため息をついた。絶対に周囲の人に痴漢か何かと誤解されたな、と。先ほどの少女の住所は店主から情報を得ている。


 タクシーを使えば先回りできるはずだ。タクシー乗り場に向かおうと階段を降りている途中で足を止めた。さっきの少女の怯えたような目を思い出す。七瀬はもう一度ため息をつき、虎ノ門側に歩き出した。このままもう一度会っても彼女を怯えさせるだけだとわかっていた。店主にあって蟲の状況を報告することにした。


 七瀬は駅を出てすぐの広場で空を見上げる。夜空と呼ぶには明るすぎるけれど、煌びやかな街の明かりの中を歩く人たちはすでに夜を求めてはしゃいでいる。夏が徐々に近づいてくるこの時期は、みんなこれから訪れる季節に期待を寄せて無理やりにでも笑顔を振りまこうとしているよう見える。七瀬はそんな人々の流れに逆らうように駅の裏側へと歩き出した。


 あふれんばかりの光を避けるよう表通りの裏側にひっそりと伸びる一本の道。

 そこの四辻に店はある。


「やぁ、いらっしゃい」


 古書店のドアを七瀬が開けると、店主はいつもの着物姿で客の女性に愛想よく接客していた。店表に置かれた一般の古本棚には海外ミステリーや国内ベストセラー本も置かれ、閉店の19時を過ぎたこの時間でも何人かの客が本を手にとって眺めていた。表通りの煌びやかな笑顔の人たちとは異なり、この店の人たちは一様に落ち着いた無に近い表情をしているけれど、店の片隅で出会った本の一つを手に取る時、柔和な微笑みをこぼす。そんな客の顔を眺めながら、心地良い場所だなと七瀬は思う。好きなものを集めて店を持つ。それはとても幸せなことなのではないだろうか。七瀬は祖父がやっていた古書店を思い出す。表側はやはりここと同じようにゆったりとした空気が流れていた。洋書を専門に扱っていた祖父の本棚の独特の色あざやかさが懐かしい。

 何かを読み取ろうとするように棚に置かれた本にゆっくりと七瀬は手を伸ばす。本に手が触れる直前、店主の朗らかな声が七瀬に届いた。

「七瀬、奥で待っていてくれるかい」

 目を細めて微笑む店主に七瀬は黙って頷くと、この前に案内してもらった「本棚」のある部屋に進む。

 途中の廊下に置いてあるランタンを手にしてゆっくりと歩んでいくと、次第にぼんやりとした闇を抜けるような時間と距離を失うような感覚がしてきた。そして、闇の中にうっすらと青い光が見えてきた。銀河の欠片のようなその輝きに七瀬は吸い寄せられるような気分で足を向けた。一つにも無数にも見える光がチラチラと、七瀬を呼ぶ。何かはわからない心地よさがその光の中に待っているような気がした。彼方に思えた場所にあと一歩でたどり着く、七瀬の中にそんな興奮が生まれた瞬間。

 ぐい、と強い力が七瀬の方をつかんだ。あっという間に青い光は拡散して、ランタンに照らされた薄闇の中に影そのもののような店主が七瀬の肩に手をかけたまま立っていた。

 しまった。七瀬は自分が蟲に引き寄せられそうになっていたことに気づき、暗闇の中でも自分の顔が赤らむのがわかった。

 店主は穏やかな笑みは口元に湛えたまま、すっと目を細める。

「で、蟲の様子はどうだった? 見えた?」

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