1
沙希の目の前をいくつもの電車が通り過ぎていく。
平日の夜7時。いつもよりも遅い時間の駅がこんなに混雑しているとは思っていなかった。沙希はため息をついてまた一本の電車を見送った。立ち尽くしたまま電車に乗ろうとしない彼女のことを心配そうに、というよりも不審そうに見ていく人たちはいたけれど、そんな彼らも次々と来ては去っていくぎゅうぎゅうの箱に吸い込まれてあっという間に消えていく。
ただ本を読みながら家に帰りたいだけなのに、そんな小さな願いも叶えることができない場所なのかと沙希はため息をつく。中学まで住んでいた別の町では考えられない。どうしてみんなこの街に来てここで暮らしたがるのだろう。そう思っている間にも駅の喧騒は益々増していき、耳が痛いくらいだった。
高校に入学して三ヶ月。
特にここ最近は耐えられない気分だった。
せっかく部活でリフレッシュしたのになぁ、沙希はそう思いながら体の奥から盛大なため息をつく。
気分を変えようと本を取り出して、ゆっくりとその表紙をなでる。手になじむしっとりとした紙がひんやりと心地よい。古本屋で見つけた時から何度も繰り返し読んでいる。ずっとこの本の中の世界に入れたら良いのに、と空を見上げる。
五月の終わりが近い空には曖昧な色味の夜が広がっている。本当はもっと暗い闇の中なんだろうな、と沙希は思った。手に持った本の表紙の絵柄を眺める。群青色の空の中を輝く汽車が走り抜けていく。
静謐な青い世界からはじき出されたジョバンニはどんな気分だったんだろう。
「ねぇ、何読んでるの?」
突然そう話しかけられた。
同じ学校の子か、と慌てて「顔」を作って振り返る。少年と目があった。沙希の知らない顔だった。一度会ったら絶対に覚えていそうな綺麗な顔をした男の子。話しかけられたと思ったのは気のせいだろうか。
「それ」
その少年はそう言って、沙希が手に持っている本を指差した。間違いなく沙希に話しかけていた。
「これ?」
少年にまっすぐに見つめられて少し動揺して声がかすれる。もし同じ学校にいたら気軽に声なんて掛けられないタイプだ。少年が黙って頷く。
「……銀河鉄道の夜」
「ふーん」
本をじっと興味深げに眺めながら、少年が「貸してくれませんか?」とつぶやいた。え? なにこの子、と身構えたけど、その瞬間はそんなに悪い気はしなかった。少年の長い睫毛が綺麗だなと思う余裕すらあった。
少年がそっと本に手を伸ばす。
思わず差しだしそうになった途端、本から震えのようなものが伝わった気がした。ぞくりとして思わず手を引く。その瞬間、少年と目があった。綺麗な目が少し悲しそうに沙希を見ていた。じっと心の中を覗き見るような視線だった。
突然、胸の奥から突き上がる『嫌な感じ』がした。
「ダメ!」
思った以上に強い拒否の音色を伴って声が出た。周囲の人がちらりと沙希と少年の様子を伺うのがわかる。同じ学校の子に見られたら嫌だ。そんな焦りが頭の奥に湧いてきた瞬間、少年がすっと沙希から一歩離れる。さっき感じたどうしようもない嫌悪感が安らぐのがわかった。沙希も彼から一歩離れ、目を伏せるように言い訳をする。
「あの……、ごめん。その、まだ読み途中だし」
無視すればいいのに、と自分の奥から呆れ声が聞こえたけれど、それができる性格なら苦労はしない。
少年がうなずいて、何かつぶやいた。彼の視線が離れたその瞬間、沙希は彼を振り返らないようにして、ちょうど来た電車に駆け込んだ。少年は電車に乗る気はないようで追いかけてくる気配はない。電車が動き出し、新橋駅のホームが見えなくなるとホッとした。
気づくと手が震えている。何故そんなに怖かったのだろうか。
あの少年が本に手を伸ばした瞬間にものすごく嫌なものを感じた。
なんだか大事なものを壊されるような。
ゆっくりと息を吐き、ようやく体が温まってきたのを感じる。一秒でも早く家に帰って誰も邪魔されないところで本を読もうと思った。
電車の窓に映るぼんやりとした自分の顔の向こうを見つめながら、さっきの少年の声が耳によみがえる。「まだ間に合う」。そんなつぶやきが耳に届いた気がしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます