蟲本

ふじの

始まり

「無理をいって来てもらってすまなかったね」


 肌寒そうに着物の袖をこすり合わせ肩をすぼめた店主が七瀬をふりむく。店主の持つランタンのぼんやりとした灯りに照らされた室内を興味深そうにキョロキョロと見渡していた七瀬が小さく首を振る。


「構いません。俺も見てみたかったんで」

 眼鏡の奥の細い目を更に細めて店主が笑ったように見えた。

「君の家はだいぶ落ち着いたかい? 代が変わるといろいろと大変だろう」


 七瀬がその言葉にどうこたえようかとためらっているうちに、店主は手近な台にランタンを置き本棚によく灯りが届くようにすると、ゆっくりと七瀬の方を振り向いて尋ねた。


「君はまだ蟲を捕まえたことはないんだっけ?」

「はい」


 店主が七瀬を促すようにして、白い手ですっと本棚を指す。豪奢な装丁の美しい本が並んでいる。


「一つ手にとってみなさい」


 店主の柔らかい声は薄暗い室内に融けこむように静かに響く。決して厳しくはないのに逆らえないような強さを持っていた。七瀬が黙って本棚に近づく。その後ろで店主がゆっくりと囁くように話す。


「なんでもいい。君の目を最初に惹きつけたものがいい」


 七瀬は少しだけ困ったように眉根を寄せていたが、何かに呼ばれたようにふと本棚の一番下にあった本に目をやった。深い青色の表紙の本だった。海のようで夜のような不思議な青味の中に影絵のような汽車が描かれている。


「これにします」

「なるほど」

 店主がゆっくりと微笑んで七瀬を見つめる。


「君の最初の仕事は『銀河鉄道の夜』に決まりだ」


 店主の目の奥に、無限に広がる青い闇を見た。七瀬はそう感じた。そして同時に、蟲を捕らえるということは蟲に囚われて生きると変わらないのだろうと思った。いのちの骨までゆっくりと食われていく。


 祖父のように。


 七瀬が蟲を観察することができるとわかった時、祖父は何を思ったのだろうか。尋ねようと思いながら機会を逃してきてしまい、その機会はもう永遠に訪れない。その代わりというように、七瀬は祖父に教わった知識を頭の中に蘇らせる。


 蟲。


 古書に巣食い人の想像力や夢を食し、代わりに芳醇な物語を運ぶ。多くの場合は人との共存が可能であり、問題になることはない。しかし、一部の蟲は、読み手の心を養分として読み手のためだけの魅惑的な語りだす。


 対価は命。

 人の命を奪うほど強い蟲が巣食った本は蟲本と呼ばれ、多くの人が恐れつつ同時に魅了されてきた。蟲本を収集し、貪るように読みあさる好事家がいる。その好事家のために商売をする特殊な古本屋がいる。七瀬は細い目を糸のようにして薄い笑顔を浮かべている店主を見つめ返す。彼は蟲本を収集し、特別な客にそれらの本をおろしている。


 蟲本屋。

 祖父は彼をそう呼んでいた。


「さぁて、君の初仕事はどんな味わいのある本になるのかなぁ」

 再びランタンを手にし、店主は歩き出す。ぼんやりとした灯りに浮かび上がった顔は闇に透けそうなくらい青白いのに目だけは妙に輝いていた。彼も蟲を貪らずには生きていけないのだろう。

 黙って店主の後を歩きながら七瀬は自嘲する。

 まぁ、俺も同じだ。

 今春に亡くなった祖父の後を継ぐように、七瀬は蟲本屋での「採集」に携わることになった。断っても構わないと店主も祖父も七瀬に言った。やると選んだのは七瀬自身だった。


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