10.深い眠り

 むくり、と哭士が起き上がる。いつの間にか眠ってしまっていた。

 哭士は心中で舌打ちする。

 疲弊していたとはいえ、自身の無防備な状態を晒してしまった。

 目が覚めて未だにはっきりとしない頭。かなりの時間眠っていたらしい。身体の方は睡眠を取った事で、回復は進み傷は塞がりかけている、万全な状態には程遠いが随分と楽になった。

(……深い、眠りだった)

 周囲の気配に気を張り巡らせずに眠るのは、何年ぶりだろうか、本当に久しぶりの事であった。

 色把と向かい合っていたときから、部屋の中に甘い芳香が漂ったように思えた。その甘い芳香は、自身の緊張を解きほぐし、そして柔らかい眠りを誘うものだった。警戒心など持つことすらも忘れ、気がついたときには眠りに落ちていた。このような心地よい眠りは何年も味わっていなかった。



 色把は、自分の部屋に戻ったのだろうか。

 自身の寝姿を見られてしまったのはこれで二度目。しかも今回は寝入る所に立ち会われてしまった。

(……とんだ失態だ)

 色把は、他人に対して敵意を持たない為か、近くに居ても哭士は警戒心をさほど抱かない。自宅で昏倒してしまった時もそうである。近くで手当てをしている色把に気づかず、のうのうと眠っていた。

 結局、色把には見られたくない部分ばかり晒してしまっている。



 水を飲もうとベッドから降りようとしたその時だった。視界に飛び込んできたモノに、哭士は思わず固まってしまった。


 自分が眠っていたすぐ隣で、今も色把が寝息を立てていたのだ。

(……いつから、だ?)

 まとまらない頭で、哭士はしばらく色把を見つめていた。




 小さく色把が身じろぎ、肩をすくめる。僅かな衣擦れの音が哭士の耳に届く。

 部屋を訪れた時の青ざめた顔色とは打って変わり、今では頬に薄桃色がさし、安らいだ表情で眠りについている。その様子、そして甘い芳香に、哭士のささくれ立った心中にも、僅かではあるが静穏せいおんが訪れる。



 自身に安閑とした時間を与える少女。

 この存在を失うまいと心に決め、本家から奪い取ってきた。だが。

(……結局、俺は何がしたかったというのだ)


 自分には、この少女を『守る』と誓うことは出来ないのだ。

――狗鬼の役目は籠女を影鬼から護る事。

 狗鬼は籠女を守ると誓い、契約を結ぶ。だが、その契約すら、自分は結ぶ事が出来ない。





 哭士は心中に渦巻く靄を、深く息とともに吐き出した。

 外の空気を吸い、この身に渦巻くしこりを振り払ってしまいたかった。


 目を覚ます気配のない色把を起こさぬように、哭士はするりとベッドの脇を抜け、部屋を出ようと扉の取っ手に手をかけた。

 扉の外に人の気配を感じる。わずかな物音でその人物を特定した哭士は、静かに扉を開いた。







「わぁ、びっくりしたなぁ」

 本当に驚いているのか、のんびりした声の主が振り返った。見知った顔、桐生だった。

 桐生は、大きな鞄を手に、哭士に向き直った。

「色把さんの部屋、ノックしたんだけど居ないみたいなの。怪我をしたらしいから、様子を見に来たんだけれど」

 そう言いながら、もう一度哭士に背中を向け、色把の部屋の扉を拳の甲の部分で叩いている。

「……中で、寝ている」

 哭士は顎で自身の部屋の中を示す。

「あれま、僕、お邪魔だったかな?」

 屈託なくにこりと笑う桐生に、哭士は何も返答しない。桐生に自身の部屋の鍵を渡し、そのまま廊下を歩き出す。

「あれ、哭士君、どこに行くの?」

「すぐに戻る」

 行き先は告げず、哭士は長い廊下をずんずんと歩き続ける。





 一度も足を止めることなく、ホテルを出た。すでに時刻は昼を回っている。

 今までに無かった感情、沸きあがってくる胸のざわめきをごまかすかのように、すれ違う人々の間を、哭士はすり抜けて歩き続ける。哭士に気を留めるものは誰もいない。

 沢山の言葉が哭士の心中を回る。




――契約を結べない不良品なんかと一緒に居てはいけないんだよ


――安らぎを求める事は、決して悪い事ではありません


――身分違いな考えはすぐに捨て、彼女のことは諦めるんだね




 哭士は揺れ動いていた。

 今まで契約を試みた籠女に対し、色把に抱くような感情を持ち合わせたことは無い。

 雑踏の中で、歩を進めながら狗石を握り締める。自分が、只の人ならざるもの、狗鬼である証。


 契約を結ばなければあと数ヶ月で命を失うこの狗鬼に、壊したくない、守りたい。そう心から思ってしまう者が現れてしまった。

 数週間前の自分であれば、このように揺れ動くことは無かったであろう。残りの数ヶ月の期限に目を背け、一人「死」というものを受け入れないままであったに違いない。




 だが、色把が自分の人生に飛び込んできた事により、大きく人生観が変わり始めていた。恐ろしかった祖父の、本当の心情。出会うはずの無かった兄との対話。そして、色把に対する大きな感情を自分の中で認めつつある。



 そして、寿命があと僅かしかない、という事も、漠然とではあるが、受け入れ始めていた。

 色把を護りたい。【神】になど明け渡したくは無い。

(だが、色把を本家から連れ出したからといって、何も状況は変わってなどいない)

 自分に残された時間は、このままではもうすぐ無くなってしまうのだ。





 だからこそ、哭士は一つの答えを出した。



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