9.芳香
与えられた部屋は二部屋。哭士と色把の部屋はそれぞれ廊下を挟んで対面していた。
「……何をしに来た」
お互いの部屋に入ってから五分後、部屋をノックしてきた色把に哭士は言い放つ。色把は、先ほどまでの和装から、白いワンピースに着替えていた。
『籠女の血で、狗鬼は回復するのでしょう? 少しでも治療した方が……』
哭士が車内でよろめいたのを見たからだろう。色把は自分の血を哭士に使いたいと申し出た。
「もうじき桐生が来る。わざわざお前の血を使わなくても……」
ふと色把の手が視界に入り、哭士の言葉が止まった。
『そう……ですよね、ゴメンなさい……』
哭士の様子が僅かに変わった事に気づかず、色把は肩を落とす。その色把の手が、小刻みに震えている事に哭士は気づいた。
菊塵の部下と別れ、ようやく緊張が解れたのだろう。それと同時に、本家での出来事が色把の中で蘇ってきたらしい。哭士に言葉を伝えようとする唇も、僅かに戦慄(わなな)いていた。
色把の両目が哭士を捉え、その両目の光に哭士は僅かに硬直する。
(この目、また、だ。)
石を持っていた祖父への畏怖とはまた違う。自分の中で抑えつけている庇護欲が掻きたてられる。色把の視線から目を外し、哭士は一言、言い放つ。
「……落ち着いたら自分の部屋に戻れ。治療は必要ない」
部屋番号の書かれた扉を左手で押し開き、色把を促す。
「座れ」
哭士の言葉に、色把は驚いていたものの、同時に安堵の表情を浮かべる。哭士の腕の下を潜り、部屋のベッドの端に、ふわりと腰掛けた。
その様子を見、続いて哭士も備え付けの一人用のソファから使ったバスタオルをどかし、腰掛けた。哭士は少し逡巡したが、色把の顔を見、言葉を切り出した。
「……屋敷で、兄に会った。比良野家でお前を救った、あの男だった」
哭士の言葉に、色把が顔を上げた。複雑な表情が入り乱れている。
『生きて……おられたんですね』
漸く一言、色把はそれだけを口にした。哭士は頷く。
「なぜ、今になって現れたのかは分からん。だが兄……、友禅はお前を救うようにと。そして本家が祀る【神】の事を話し、去った。……それだけだ。【神】とは何か、お前は知っているのか?」
哭士の問いに、色把はゆるゆると首を振った。
『カナエさんとお話をして、初めて……知りました。サキガハマ村……そこに【神】がいると、カナエさん……そして箱の前に来た狗鬼の二人はお話していました』
聞いた事のない村の名。だが、――サキガハマ村――哭士の心中がざわめく。
「お前、村名に覚えは?」
『……ありません。ただ……その名前を聞くと、何だか少し苦しい……』
そう言い、自身の胸に手を当てる色把。色把も、哭士と同じものを感じたらしい。
言葉は止まり、二人の間に沈黙が流れる。
ふと、哭士の鼻腔を、柔らかい香りがくすぐる。
その香りに、哭士の緊張した身体は弛緩し、心地よさに包み込まれる。
押し込めていた疲労が一気に押し寄せ、やがて頭を支えている事すら、困難になってきた。
※
哭士は黙って立ち上がり、色把がかけているベッドに、そのまま倒れこむように横になった。
哭士らしからぬ行動に驚いている色把に対し、哭士は色把に背中を向けたまま静かに言い放つ。
「……お前も妙な箱に入れられて大分消耗しているんだろう。部屋に戻って少し、休め」
色把の位置からは、哭士の表情を見ることは出来なかった。声がいつもよりも柔らかい、と感じたのは、色把の気のせいだったのだろうか。
『……はい』
哭士の言葉に、色把は頷く。哭士と同じ空間に居た為だろうか、いつの間にか、身体の震えはおさまっていた。
『さっきまで、震えが止まらなかったんです。貴方がもしも、来てくれなかったら、私は今頃……』
自分の唇が見えない位置に移動してしまった哭士には伝わっていないかもしれない。だが色把は口に出しておきたかった。
『怖かった、本当に恐ろしかった。でも、貴方が来てくれて……私……』
ここで、色把は言葉を止めた。振り返ってみても、案の定、哭士は何も反応を示さない。
『ありがとう、ございました』
聞こえないとは分かっている。だが、哭士の背中に一言、色把は言葉をかけた。
色把の心中は、数分前では考えられないほど落ち着きを取り戻していた。
色把は小さく息を吐き出すと、自身の部屋に戻ろうとベッドから腰を上げた。
だが、立ち上がろうと上げた身体は、後ろに強く引かれ、すとん、とベッドにまたもや座り込んでしまった。
後ろを振り返る。哭士はこちらに背を向けてベッドに横たわったままだ。
ふと自分の腰の辺りを覗いてみると、哭士の体が、色把の服の裾の上に横たわっており、色把は身動きが取れない状態になってしまっていた。裾を引っ張り、哭士の体から引き抜こうとするが、思いのほか深く哭士の身体に巻き取られているらしく、一人の力ではどうにもならなかった。
『……哭士』
腰を揺すってみるが哭士に動く気配は見られない。それどころか、深い寝息が色把の耳に入ってきた。
等間隔の呼気と吸気。完全に寝入ってしまっている。
あれほど、周囲の異変に敏感だった狗鬼とは思えない。あまりの哭士の無防備さに、色把は背中を凝視してしまった。
何度か揺すってみたものの、哭士は一向に目覚める気配は無い。身動きも取れない状態で、如何するべきか色把が迷っていると、小さく哭士が唸るような寝息を上げ、寝返りを打った。
『……!』
哭士が動くと同時に、色把の裾が引っ張られ、色把はベッドの上に倒れこんでしまった。
両手で口元を隠すようにして、暫く息を潜めた。だが、部屋内には、空調の静かな音と、仰向けで眠っている哭士の深い寝息のみ。色把が倒れこんだ事で、ベッドは一度大きく揺れたが、それでも哭士が目覚める気配は無かった。胸の前で腕を揃え、口の前で両手を握っている色把には、自分の鼓動の音ばかりが聞こえていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。やがて色把の動悸も治まり、静寂が訪れた。
哭士は相変わらず深い寝息を立てている。色把の背中には、哭士の体温が伝わってくる。熱は色把を優しく包み、安堵を与えるものであった。
(こんなに、強く熱を持っているのに、数ヵ月後にはこのまま儚く消滅してしまうなんて……。きっと、何か方法があるはず……)
背中に伝わる熱の安堵感に
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