39.氷解

 色把が閉じ込められている箱の前で立ち止まる。

 立ち去るレキを見逃してしまったが、哭士はそれどころではなかった。

 目の前の箱に意識を向ける。感じる色把の反応が徐々に薄くなってきていることに焦りを覚える。


 箱には隙間なく、狗鬼の皮膚を焼きつかせる布が巻きついている。哭士は布を引き千切ろうと手をかける。肉の焼ける嫌な音と煙が、布に触れた瞬間に立ち上がった。 だが今、哭士を動かしているのは、本能的な衝動だった。構わず布を引き剥がしにかかる。

 爪が剥げ、手が焼け付いても、箱に手をかける事を止めようとはしなかった。指先の皮膚は布が触れるたび痛々しく焼け爛れていく。

 箱に巻かれていた布の一部分を剥がし終えた。現れた木の板を、何も考えずに突き破ろうとするが、思っていた以上に頑丈な造りの箱は、傷ついた身体に力が入らず、なかなか壊れない。

 それでも残された力を振り絞り、ありったけの力で拳を叩きつける。箱に伝わる振動は床を伝い、大破した建物全体を揺らす。剥がれずに僅かに残った爪も割れ、激しく出血している。だが、哭士の手は休まらない。



 何度も何度も叩き付けられた拳が、重い音を立てて突き入れられた。

 なんとか開いた穴に手を差し入れ、思い切り引き剥がす。箱の中に光が差し込むと、投げ出されたままの白く細い腕が哭士の目に映った。

「色把!」

 強い口調で名を呼ぶ。だが白い腕はピクリとも動かない。隙間から腕を伸ばすが、肩幅が邪魔をして色把に届かない。箱を破壊する手に、更に力がこもる。

 はがれた布の破片が、哭士の身体にまとわりつく。布が張り付いた部分は、哭士の皮膚を容赦なく焼く。それでも哭士は構うことなく、箱の破壊を続けた。



 ようやく哭士が身体を滑り込ませる事が出来るだけの穴が開いた。哭士の体は、先の戦闘の負傷も合わせ満身創痍だ。だがわき目もふらず、倒れている色把を抱き上げ、箱の外へと連れ出した。



 色把の体は僅かに熱を持っているのみ。引き寄せた色把の身体に力は無く、細く白い腕はだらりと垂れ下がった。

 今まで湧き上がったことの無い感情が哭士を支配していく。この人物を救いたい、と。

「色把……」

 ぐったりとし、体温がほとんど感じられない。

「目を開けろ」

 体温を上げようと身体を抱え、包み込む。以前触れた時のほんのりと温かい体温が今は感じられない。触れた身体の温度は低く、呼吸は哭士の聴力を持ってしてでも漸く聞き取れるほど浅い。

 哭士の心中に焦燥が広がる。色把を抱き上げる哭士の腕に、更に力がこもる。



「……俺は、お前が疎ましかった。俺の残り少ない時間に……介入してきたお前が。勝手な行動をして、俺の全てを分かったような口を利く」

 哭士の口から小さく息が吐き出された。

 十八歳までのあと僅かな時間、出来る事なら思いを残さず、露のように消えてしまいたい、そう思っていた。



 だが、言葉の話せぬ一人の少女と僅かに時間を共にするうち、哭士の中の感情は変わりつつあった。

 常に苛立ちばかり覚えていた哭士は、日が経つにつれ、少女の行動に心中が凪いでいくようになる。

 一度はそれを突き放そうとした。出来損ないのこの狗には、あと僅かで消えてしまう自分には、この感情は必要無いもの、と。

 だが、抑えていた渇望は、兄の言葉を切欠に、こうして衝動となって現れてしまった。





――この感情が、籠女を護る狗鬼の本能だとしても、俺は構わない





 言葉には出さず、哭士は色把の顔を覗き込む。騙されていたとはいえ、自分の為に本家の巫女になる事を決めた色把に、哭士は大きく揺さぶられていた。

 その時であった。

 色把が小さく息を吐き出し僅かに身じろいだ。





        ※





 色把は、全身が力強い何かに包まれていることに気づく、沈んでいた意識が、ようやく戻ってくる。

 体が温かい。

(懐かしい、香り……)

 まだ薄ぼんやりとしているが、さっきの箱の中ではないらしいことは分かる。

 自分を包み込んでいた存在に気づいた。瞼を押し上げ、最初に見えたのは、切れ長の目、真っ直ぐに結ばれた口。

『哭士……?』

 自分は腕の中に居る事に気づく。名を呼ばれた狗鬼は、双眸を細めた。

 意識が半濁している色把は、彼の心中を察する事はできなかった。だが、彼の頬に無数の火傷のような痕があるのを見つける。

『……傷が』

 無意識的に右手を哭士の頬に差し出す。自らの手の平の血と、哭士の傷が触れた瞬間、信じられないような速さで、哭士の傷が埋まっていく。

 ほんの僅かに、驚いた表情をした哭士だったが、奥歯を噛みしめ、苦しいような、哀しいような表情で色把を見つめた。




――【神】と一つになどさせるものか




 一瞬、色把の心中に哭士の強い思考が流れ込んできた。思わず色把は哭士の顔を見上げる。

 哭士の唇が動いた。

「帰るぞ、色把」




 確かに聞こえた。叶う訳がないと思いながらも、心の奥底で願っていた言葉だった。

 哭士の輪郭が、周囲の風景が潤んで、歪む。色把は一度、だが力強く、頷いた。



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