端末感染

十森克彦

第1話

 駅前の広場はタクシーとバスのターミナルにもなっていて、幾何学的なデザインのブロンズ彫像が設置されているあたりは、待ち合わせのスポットでもある。一昔前のアナウンス専用のものとは違って高性能になったスピーカーからは、流行のアイドルグループの曲が流れている。何の変哲もない、どこにでもある風景だった。

 

 その風景に溶け込むようにたたずんでいたひとりの少女が、何の前触れもなく、隣に立っていた中年のサラリーマンにいきなり抱きついたかと思うと、大きな口を開けて、その首の付け根のあたりにかみついた。かみつかれた方は一瞬、何が起こったのかわからず、呆然としていたが、すぐに襲ってきたするどい痛みに、悲鳴を上げた。

 周囲にいた人々もやはり何が起こっているのかを理解できずに呆気に取られてみていたが、男性が悲鳴を上げながら少女を引き離そうともがくのを見て、ようやくこわごわと少女の体を引き離しにかかった。しかし、その状態は長くは続かず、二人を引き離しにかかった手がその肩に触れるより先に、少女はその場にくずおれた。それでも、よほど本気でかみついていたのだろう、男性の首元は血だらけになっていて、その血は少女の口もとにもついており、真っ赤な口を半開きにして倒れているその姿を見た人々は、共通してホラー映画に出てくるゾンビを連想したのだった。


 立川伸也が精神科医として勤務している栄中央病院は、市内では唯一の精神科病床を有する総合病院だった。駅前で突然通行人に噛みついた少女は傷害の現行犯で勾留されたが、その行為のあまりに特異なことと、身柄を確保された時には失神状態で、目が覚めてからもその当時のことを全く記憶していなかったということもあり、傷害事件として立件するか否かの判断の前に、栄中央病院に精神鑑定の依頼が入ったのだった。

 精神保健福祉法ではこうした患者の診断を、二名の精神保健指定医がそれぞれ実施することになっている。栄中央病院の伸也のところに来たのは二次鑑定、つまりすでに一度診断されており、二人目の医師として診断を下すというものだった。

 面接をした結果の感想は、「ごく普通の少女」だった。少なくとも幻聴や妄想と言った病的体験はなかったし、精神的にも極めて落ち着いていて、特に興奮したり、錯乱したりしている様子も見られなかった。ただ、事件の前後の記憶だけがすっぽりと抜け落ちている。いわゆる「自傷他害」の恐れのある状態ではないため、法的な強制力のある措置入院の必要は認められなかった。かといって全く健康な状態かというと、その記憶が欠落しているという部分と、その間の行動についてだけはやはり正常とは言えないため、「非該当要通院」、つまり、措置入院には該当しないが、治療のため通院は必要という判断を下した。最初に診察を行った医師もやはり同様の判断をしていた。検察の方でも不起訴という判断をしたらしく、しばらく伸也の外来診察に通って経過をみることになったということ以外は少女の身辺に大きな変化はなく、事件は一旦収束したものと思われた。


 少女の名前は山村かおりと言った。どこにでもいる、ごく普通の高校三年生である。伸也は念のため、臨床心理士にいくつかの心理検査も依頼したが、どれもやはりなんら病的傾向は見られないというものばかりだった。このあどけなさを残す少女が、あんな事件を起こした当事者であるとはとても考えられなかったし、これまでに聞いたこともない症例だった。一応便宜上の診断名として何らかのストレスによる心因反応としたが、意識障害を起こすほどのストレスとなった内容については本人にもまったく思い当たることがなく、あいまいなままに日が過ぎていった。


 事件から一か月ほどしたころ、県警の若林という男が伸也を訪ねてきた。あの事件を担当した刑事だという。年齢は五十台半ばごろだろうか。伸也より一回り以上は年上だと思われたが、無精ひげがあるからか、見るからに生活が荒れていそうな頬のこけた様子からか、さらに年齢が上のように思えた。

 事件の原因について詳しく聞きたいということで、医局の入り口にある応接室に案内すると、夏はとっくに終わっている季節なのに、半そでの開襟シャツの、一番上のボタンをさらに一つ開けて、汗を拭きながら入ってきた。

「いやあ、いつまでも暑いですなあ。年々暑さがひどくなってきているように思えてならんのですけどね。あ、お忙しいところ恐縮です。その後いかがですか、山村かおりは。いやいや、もちろん不起訴になったんで、今更事件をどうのこうのということはないんですがね。ただやっぱり、気になりましてね。なんと言っても特殊な事件でしたからね。何か、分かりましたか、原因めいたものは」

 椅子を勧めても座ろうとはせず、室内をゆっくり歩きながら話している。首の周りやわきの下など汗だらけでずぶ濡れになっている。空調の効いた病院の中で主に仕事をしている伸也にとって、年中外を歩き回る刑事という仕事には、想像のつかない苦労があるのだろう。

「何かストレスになるようなことがあっての一時的な反応じゃないかと思うんですが、彼女については、因果関係のあるエピソードは見当たらないんですよ。かといって統合失調症のような疾患とも考えられないし、もちろん薬物の反応もありませんでした。今現在は何の異常も見られませんのでね。正直なところ、さっぱり分からない状態ですね」

 と伸也が答えると、

「それじゃあ、何らかのウイルスとか、催眠暗示とか、そんなことは考えられませんか」と若林は重ねて尋ねた。

「まさか。映画じゃあるまいし、そんなことはまず考えられませんね」

 なんでも疑ってみるのが商売なのだろうけれども、いくら何でも荒唐無稽に過ぎる。少々あきれながら、伸也は答えた。

「まあ、そりゃそうですな。しかし、今は何の異常も見られないし、当時の記憶もない。元からそんな行動をする子でもなかった。いや、これは彼女の親御さんや担任の先生なんかにも裏を取ってみた情報なんですがね。じゃあ、あれはいったい何だったんでしょうかねえ。近頃、ゲームや映画の見過ぎで現実と空想の境目が怪しくなって人を殺してみました、なんて物騒な事件も起こっていますが、少なくともそういう連中は自分のやったことを覚えている」

 若林は、額を二本の指で軽く突きながら、独り言を言っているかのような言い方で話した。両親や担任から聞いた、ということは、伸也たちに精神鑑定を依頼しながら、一方で聞き込みなどの捜査は一通りしていたということなのだろうか。しかし、だからと言って、今更起訴するなどということはありえないだろう。何を考えてここに来たのだろうか、と伸也は少し警戒した。

「どういう事情で来られたのかは分かりませんが、事件の当時の記憶は彼女にはありませんし、現在の彼女には再び同じことをしてしまうような衝動性等も見られません。確かに原因は特定しかねますが、あえて言うなら恐らく思春期の不安定さによる、一過性の混乱だったのだと思われます」

 余計な言質を取られないように警戒しながら伸也が答えると、若林は苦笑しながら言った。

「申し上げたように、今更事件として取り上げたりするつもりではないんですよ、そう警戒なさらないでください。思春期ですか、なるほどねえ。何が起こるか、分からない時期ですからなあ。……ところで」

 若林がポケットから一枚の写真を取り出した。

「捜査上の機密なので詳しくは言えませんがね、これは別の事件の被害者の右上腕部の写真です。真ん中に傷があるのが分かります」

 わざわざ解説されなくても、人の腕の写真である。そして、誰が見ても明らかなほど、その腕の中ほどには大きな傷がある。大体直径にして五センチくらいだろうか。真っ赤に開いたその傷口は、刃物で切ったようなまっすぐなものではなく、楕円形に引きちぎられたように開いていた。いや、正確に言えば、噛みちぎられた、ということか。そして、その傷の大きさからして、犬やその他の動物ではなく、恐らくは人間の歯型の痕がぴったり合うと思われた。

「これは……」

 伸也は絶句した。医師として、血を見て動揺することなど当然ない。しかし、それが刺傷や事故による傷ではなく、恐らく人間によって噛みちぎられたものであるという想像は、それまでの伸也の経験と医師としての矜持を吹き飛ばしてしまうに足るものだった。しかも、噛みちぎるというところまではいかなくとも、同じように人に噛みついて流血させた当人を診療してきた者として、冷静ではいられない画像だった。

「お察しの通り、山村かおりとほぼ同様の事件の被害者です。関西の方なんですがね。もし共通の原因があるとしたら、と思ってしまうのは、ある意味で自然なことでしょう。たまたま偶然に似たような結果になったというだけなのかもしれませんがね。なんせその事件の加害者は、五十代の男性、つまり思春期とはとても言えない世代ですからね。まあ、何か分かったことがあったら、是非、ご連絡を。また来ますよ。お邪魔しましたね」

 名刺を机の上にそっと置いて、若林は退出していった。

「そんな馬鹿な。ありえないですよ」

 閉ざされたドアに向かって、伸也はひとり呟くように言う自分の声を聞いた。


 若林隼人警部補は、立川医師と話した医局の応接室を出て、どこかで一服しようと思った。ロビーのあたりをうろうろしてみたが、どうもそれらしい場所が見当たらない。仕方なく中庭に出て煙草をくわえたら、すぐに警備員が飛んできて、

「敷地内禁煙ですので、申し訳ありませんがお煙草は……」

 と注意された。敷地内禁煙、か。道理で灰皿が見当たらないわけだ。肩をすくめて見せ、玄関を出た。やれやれ、住みにくい世の中になったもんだ。立川って言ったけ。あの先生たちも、一日煙草も喫えない環境で仕事してるんだな。年中外を歩き回る自分にとって、医師という仕事には、想像のつかない苦労があるんだろう。まあ、その分給料は段違いにいいんだろうけど。

 日頃は、通勤含め、車での移動がほとんどだった。今日は立川医師に逢うために栄中央病院に来たが、別件で動いている同僚の刑事の車でついでに送ってもらったので、署への帰りは電車ということになる。まあ、せっかくだからたまにはJRの乗客になるのもいいか、と若林は思った。それに、電車に乗るということは、山村かおりの事件の現場を通ることになる。今更現場検証ということもないが、煮詰まった時には現場に立ってみるのも大事なことだ。

 どういうことを表現しているモニュメントなのかは分からないが、駅前広場の象徴的なものには違いなかった。若林は事件が起こった場所に立った。山村かおりはこのモニュメントを背にして、バスロータリーの方を向いていたはずだ。大通りの向かい側は駅前商店街のアーケードがあるが、大きなビルはなく、のどかな風景である。大き過ぎない適度な音量で、音楽が流れている。送ってくれた同僚の車で聞いたのと同じような曲だった。確か、三人のグループで、歌っているのは一人のメンバーの妹だとかなんだとか言っていた。屋外だが、かなりきれいに音楽が聞こえている。そう言えば、この駅前広場は何年か前に改装をしていて、その時にスピーカーなどはかなりいいものを取り付けたと聞いたことがある。事件当時のここにはどんな音楽が流れていたのだろう。それは何か影響がなかったのだろうか。そんなことを言えば、あの精神科医はきっとむきになって否定するに違いなかった。


 それにしても。ちょっと見ない間に、ずいぶん雰囲気が変わったもんだ、と若林は思った。駅前広場にしばらく立っていて、特に何も新しいことはつかめず、あきらめて改札口をくぐった。ホームで電車を待っている人間の、ほとんどが俯いて、手元の画面に見入っている。中には歩きながら、何やら操作をしている者もいる。よくぶつからないものだと、あきれながら半ば感心した。

 いつだったか、若い婦警に、まだガラケーを持ってるんですね、と言われ、ガラクタじゃねえ、と言い返して大笑いされたことがあった。「ガラクタ携帯」じゃなくて、「ガラパゴス携帯」を略しているのだということをその時に初めて知った。勝手に言葉作って、勝手に省略しやがって。一人鼻息を荒くしたが、単に時代に乗り遅れているだけだという自覚はある。ここまで来たらかえって意地だ。スマホなんか、持つもんか。頑固にそう言い続けている中年は、きっと他にもいるはずだ。

それにしても、客観的に見るとちょっと異様な風景だ。携帯端末というが、道具として利用しているというよりは、依存しているみたいだ。むしろスマホに支配されているとさえ思う。これじゃどっちが端末なんだかわからない。

「間もなく電車がホームに入りまあす」

 という鼻の詰まったようなアナウンスが流れた。そう言えば、電車のアナウンスはどうしてこう、特徴的なんだろう。どうでもいいことをぼんやりと考えていた時だった。

 ほんの十メートルばかり離れたところに立って、並んで電車を待っていた乗客の一人が、その前に立っていた別の乗客にいきなり飛びかかった。飛びかかられた方は驚いて振り返り、振り払おうとしたが、単に手を伸ばしてきただけでなく、まさに全身で飛びかかって体重ごとぶつかっているようで、容易に離れない。もみ合っているうちに、バランスを崩した二人の体は、そのままホームを飛び出して、線路の上へと躍り出た。同時に、けたたましい警笛を響かせながら、電車がホームに滑り込んできた。

 あまりにも突然のことで、その場にいた誰もが動けなかった。ただ若林は、飛びかかった方の男が迫って来る電車の前に舞いながら、大きく口を開けて相手の首に噛みつこうとしているのを、はっきりと目撃した。

 急ブレーキをかけて緊急停車した車輪の軋む音と、そこにいた全員の悲鳴が響いた時には、二人の男はもはやこの世にとどまってはいなかった。


「先生、私やっぱり保育士の仕事はできないのかなあ。小さいころからあこがれてたんだけど、こんな事件起こしちゃったから、無理なのかなあ」

 十二月に入った頃、診察室でかおりはふと、寂しそうに漏らした。それまでは診察場面で事件前後のことから始めて、日常生活の話ばかりを聴いていたので、それ以外の話題はほとんど出てこなかった。けれども、卒業後の進路希望をそろそろ固めなければいけないという時期が来て、これからのことに向き合わざるを得なくなったのだろう。かおりは、短大の保育科を目指していたのだと言った。確かに、噛みついた相手がもし子どもたちだったら大変な事件になっていただろう。けれども、今のところ、そんな可能性はまず考えられなかった。

「それは大丈夫だと思うよ。まだ原因がはっきり分かったわけじゃないけれど、君が心配しているようなことはもう起こらない。事実、あの後も、同じことだけじゃなくて、危ないと思うようなことも含めて、何も起こっていないじゃないか」

 伸也は、もう少しきちんと根拠を示して説明してやりたいと思ったが、残念ながら他に言い様がなかった。荒唐無稽な話だが、秋口に来たあの刑事が言っていた、ウイルスや催眠暗示なんかのせいだったら、もっとはっきり大丈夫だと断言してやれるのに、などと思ってしまう。医師として、そんな非科学的な態度は間違えているとは心得ているが、目の前の少女を安心させてやりたい、という思いには抗いがたいものがある。いっそ携帯電話の電磁波の影響だ、くらいのことだったら、分かりやすいのだが。ただ、心理検査などいくつかの検査の結果、特別な異常は何も見当たらないということだけははっきりしているので、実際にはそのことを持って説明する他なかった。


 若林が再び伸也を訪ねたのは年末も近づき、街中にクリスマスソングとイルミネーションがあふれる頃だった。相変わらず座ろうともせずにウロウロと歩き回りながら、話し出した。

「実は前回こちらにお邪魔した帰りに、事件がありましてね。駅のホームで人が死んだんですよ」

 その事件なら伸也も知っていた。ホームに入ってきた電車に轢かれて人が死んだが、大の大人二名が一緒に落ちたというので、原因を巡って色々な憶測がとんでいた。

「あの時、私もそのホームにいましてね。男が突然、近くにいた乗客に飛びかかったところをまともに見たんですよ。二人の間には何の会話もなかった。何かトラブルがあって、という訳ではなかったようです。手前にいた男の方が突然飛びかかり、もみあいになって一緒に線路に転落したところに、電車が来ました。二人とも即死だったそうです。」

 何の脈絡もなく、たまたま近くにいた人間に、突然飛びかかった。それでは、まるで。伸也はかおりの事件を思い出さざるを得なかった。それを見透かしたかのように、若林は身を乗り出し、声を潜めて言った。

「その通り。例の事件と同じなんですよ。いや実はね、前に来た時に先生にはお伝えしなかったんだが、同じような事件は他にもたくさん報告されてるんです。だから若い警察官の間では、ゾンビ化現象、なんていう言葉も流行ってるくらいでね。ただそのほとんどが起訴にまで至らなかったんで、我々としても動きようがなかったというだけなんですよ」

「そこへ、人が死ぬ、という事件が起こった」

 伸也にも、なんとなく分かってきた。

「そうです。それに、なんといっても現職の警察官が目の前で目撃したんだ。あれは事故なんかじゃない。死亡事故なのか、殺人事件なのか。扱いは全く変わりますからね。本格的に捜査を始めることになった。しかし、何があったのか、この目で見ていても、理解できないんです。それで徹底的に情報を洗い直しているところなんですよ。これまでの他の事件の関係者も含めてね。もちろん立川先生、例の彼女にも協力願いました」

 山村かおりは、そんなことは一言も言っていなかった。しかし、進路のことで悩んでいた時に、事件のことを気にしていた。もしかすると、捜査の影響があったのかもしれない。伸也は胃のあたりから不快な塊が上がって来るのを感じたが、何とか堪えた。

「気を悪くせんで下さい、先生。何度も言いますが、私は彼女を犯人扱いしようとしているわけじゃない。ただ、原因を突き止めたいだけなんです。それで次に起こるかもしれない事件を防ぐためにね。それで、分かってきたことがいくつかある。事件には共通点がいくつかあったんですよ」

「共通点、ですか」

「そうです。まず何の前兆もなく、突然起こったということ、本人がそれについての記憶がないこと。これはすでに分かっていたことですがね。それから、前兆はないんですが、事件が起きる直前は全員、スマホを触っていたらしいということ。もう一つは、全員のスマホに共通のアプリがダウンロードされてたってことです。まあ正確に言うと、共通の会社が提供している複数のアプリってことですが。それもSNSのようなほとんど誰もが持っているようなものとは別に、です。他愛もないゲームなんですが、いわゆるゾンビものでね。単純な内容なんだが、かなり長時間続けていたというところも共通点のようです」

 そこまで言うと、若林は一旦言葉を止めた。伸也が咀嚼するのを待っているようだ。警察は携帯電話に何らかの問題があったと考えているのか。伸也にはしかし、依然荒唐無稽な発想だとしか思えなかった。

「ゲームと言えど、結構な情報量ですからな。無意識の世界に影響するプログラムがあったって不思議じゃない。しかもスマートフォンは微量ながら電磁波も発している。今の携帯端末は、出始めの頃と違ってそれだけではほとんど影響を残すことのないレベルの電磁波なんだそうですが、それでも膨大な時間、使っている訳ですからね。そもそも、脳に電気を流して感情をコントロールする、なんて実験も昔はあったそうですな」

 伸也は、若林がそれなりに知識を持っていることに驚いた。そう言えば、「アプリ」や「SNS」など、およそスマホを使いこなしているとは思えないこの刑事の口から自然に出てくるとは思えない単語がいくつも出てくる。どうやら本気で携帯電話の影響のことを捜査の中で調べてきたようだ。それに、病理が山村かおりの中に潜んでいるのではないと分かれば、それはそれでありがたい。信憑性というより気持ちの上で、彼らの荒唐無稽と思える捜査方針に、惹かれた。しかし、伸也の持つ精神医学からは、そんな可能性は想像もできない。医師として、まともに取り合える話ではない。

「それにしても、どうして僕にそんな話をなさるんですか。山村さんの主治医としても、今仰ったような可能性は考えられないとしか申し上げられませんが」

「実はこれから、そのアプリを配信している会社に踏み込むことになってるんですよ。大きな声じゃあ言えないですがね。どうもその資金の流れなんかをたどると、某国につながっているらしくてね。もしかして、サイバーテロの一種なんじゃないか、なんていう推測もあるんですよ。勿論、まだ何も分かっちゃいません。今は事実を積み上げているだけです。ただ、先生にもご協力願う時が来るかもしれませんしね。だから今わかっている範囲のことをお伝えしておこうと思いましてね。それに、もし一連の原因が本人の頭の中じゃなくて、何らかの外的なものだったとしたら、先生にとっても安心材料にはなるんじゃあないですか」

 若林は、伸也の本音の部分を正確に見抜いているようだった。


 しかし、若林からの音沙汰はないまま、そのまま年が明け、三月になっていた。事件に関する報道には注意を払っていたが、特に大きな動きは見られなかった。

 伸也は診療の終わった外来診察室で、溜まった書類の処理をしていた。電子カルテが導入されて、診療録は殆どがパソコン入力になったが、意見書だの診断書だの、医師に記載を求められる書類は結構多い。本来の診療行為の他に、このような事務作業にとられる時間は意外に多く、その傾向は年々ひどくなってきていた。ぼやく気にもならずに黙々と積み上げられた書類に向き合っていると、診察室のドアがノックされた。

 見せたい物がある、と山村かおりが連絡をしてきたので、外来診察室に来る様に、と伝えたのだ。かおりは結局、志望校だった短大の保育科を受験することにした、と言っていた。彼女自身のために、伸也はその決断を喜んだ。大丈夫。君ならきっとやれる。心の中でエールを送った。医師をしていて、患者がそのように夢の実現に向かって挑戦していく姿は、喜ばしいと思う。もちろん、挑戦するということにはリスクが伴う。しかし、伸也自身は、リスクを背負ってでも挑戦していく、という姿こそが健康であり、患者がその姿を取り戻すためにこそ医療はあるのだと信じていた。

 診察室のドアがノックされた。マスクをしていて、気のせいか目が、赤い。

「こんにちは、先生」

 言いながら入室してきたかおりは、伸也が笑顔で椅子を勧めたので、少し硬くなりながらも腰掛け、カバンから赤い背表紙の冊子を取り出した。

「先生、今日私、卒業式だったんですよ。お世話になったから、卒業証書見せようと思って」

かおりがその冊子を開くとそこには確かに卒業証書と書かれた紙がはさんであった。なるほど、それで少し目が赤いのか、と納得しながら、わざわざそれを見せに病院に足を運んできてくれたことに少々感動した。

「おめでとう、山村さん。わざわざそのために来てくれたんだ。光栄だな。それはそうと、風邪でも引いたのかな」

 白いマスクを見て、伸也は尋ねた。せっかくきたのだから、風邪薬ぐらい処方してあげようかと思ったのだ。

「いえ、これは花粉症で。今年からなっちゃったみたいなんですよ。もう、鼻水止まらないし、目もかゆくて」

 なるほど、目の赤いのはそっちのせいか。アレルギーとなるとデリケートな部分もあるので、中途半端な処方もできないと思い、その話題は一旦打ち切って、診療のことを持ち出した。半年以上様子を見てきた。やはり特に変化は見られず、処方すべき薬もないので、そろそろ診療を終わりにしようかと思っていた。高校を卒業したというのだから、いいきっかけかもしれない。次回の診察で通院は終了にしてみよう、と伝えるとゆかりは嬉しそうだった。伸也は若干の寂しさを感じながらも、この少女が健やかに過ごせることを祈る気持ちになった。


 かおりを送り出してから書類を片づけていると、また別のノックが聞こえた。ぬっと入って来たのは若林だった。

「お邪魔します。受付で居場所を聞いたらここだと言われたんでね。まあそう、あからさまにがっかりするもんじゃないですよ」

 がっかりしたつもりはなかったが、少なからず驚いたのは事実だ。非礼を詫びたが、全く気にする様子はなく、

「いや、慣れてますがね。むしろ私らが歓迎されることはあんまりありませんからね。それはそうと、その節は失礼しました。その後の顛末が気になっているだろう、と思いましてね」

 と言いながら、ずかずかと入ってきて、今度は椅子に腰かけた。伸也としては確かに、気にしていなかったと言えば嘘になるが、わざわざ伝えるために来てもらうほどでもないのだが、と少々当惑気味に思った。

「手短に言いますがね、例の会社なんですが、配信していたアプリは全て違法コピーのまがい物でしたよ。念のためにオリジナルの開発者にも協力願って調べたんですが、大した工夫もない粗悪な代物で、怪しげなプログラムは見当たらなかったってことです。単に金が目当ての詐欺集団だったようですな。某国との金の流れは確かにあるんですが、それも資金源として、という感じですな。お粗末なもんです」

 淡々と、確かに手短な説明だった。ただ、捜査上の話をこんなところでもらしてしまっていいのだろうか、と少し心配になった。そう尋ねると若林は少々すごみのある顔で笑い、

「もちろん、しゃべっていい内容じゃあないですよ。ただ、先生方にも守秘義務ってやつがあるでしょう。信用してますから」

「それは診療上の話でしょう。あなたは僕の患者じゃあない」

「じゃあ、患者になりましょうか。保険証、持ってますよ」

 若林は笑ったまま眉を吊り上げて見せた。話がそれてしまっている。

「それにしても、見当たらなかったって言うのは、これまで使われてきたプログラムが、でしょう。これまでになかったような、通常では気づかないようなプログラムってことはないんですか」

 あり得ないと思いながら、そうであってくれれば、という願いが伸也を食い下がらせた。

「否定しとられたのは先生の方だったと思うんですがね。残念ながら、我々の思い違いだったってことですよ」

「でも、それじゃあ一連の事件との関連は説明できないじゃないですか」

「そこなんですよ。一からやり直しですな」

 若林が二本の指でしかめた額をたたきながら言った。伸也は腕を組んで考え込んでしまった。そしてふと、何故か今しがた診察室を出て行った、山村かおりの顔を思い出した。赤い目をして、マスクをかけていた。赤い目は泣いていたわけではなく、花粉症だった。ぼんやり考えながら、なにか、伸也の中にひっかかるものがあった。なんだろう。花粉症。鼻水。アレルギー……。アレルギーか。突然、ひらめいた。伸也は思わず立ち上がり、若林に向かってやや興奮気味に言った。

「刑事さん、アレルギーですよ。アレルギー反応だ」

 若林はきょとんとしている。

「アレルギーの確かな原因はいまだに不明なんですが、アレルギーの対象になるもの、アレルゲンを一定以上摂取した時に過剰に起こるんですよ。抗原抗体反応って言いましてね。事件の関係者はみんな携帯電話を使っていた。それもかなり長い時間。特別なプログラムじゃないけど、単純なものが長時間繰り返されている。意識をコントロールして行動化させる、なんてのはナンセンスですが、ゲームを続けると脳が催眠状態になってしまうということはずいぶん前から指摘されている。そこへ、大して影響がないと言われていた電磁波か何かが、積もり積もってアレルギー反応を起こした。そう考えられませんか」

 言いながら伸也の中で仮説が確信に育っていくのを感じた。

「なるほど。仮説としちゃ面白い。けど、それがなんであんな行動になるんだ。普通アレルギーって言えば、くしゃみが出たり蕁麻疹が出たりするものじゃないですか」

「インストールされていたアプリはほとんどゾンビもののゲームだと仰っていましたよね。携帯電話の情報そのものがアレルゲンだとしたら、それに対して過剰に反応して、つまり一時的に自分自身がゾンビになって……ああ、何言っているんだろう。でも整理してみる価値はあるんじゃないでしょうか」

 話すだけ話して少し冷静になった伸也が若林に言った。

「まあ、ウチの連中の耳に入れときますよ。色んな可能性を片っ端からつぶしていくのが我々の仕事ですからね。それにしても、もしそうだったとしたら、どんなことが考えられるんです。前にも申しあげた様に、我々は再犯を防ぐために調べてるんですがね」

 問われて伸也は、自分の顔色が失われていくのを感じた。

「テロなら、犯人がいて意図もあるので、ある程度予想もできるところがあります。でも、アレルギーなんだとしたら、犯人はいない。意図がない分予想がつかないですね。どこで何が、どんな規模で起こっていくのか、予想もつかない。原因である携帯電話の使用を差し止める訳にいかないですしね」

 そんなことは、できるわけがない。スマホ依存などという言葉が出現して、久しい。片時もスマホを手放せなくなっているのは子供たちだけではない。使い続けて一定のキャパシティを越えた時に、それが精神にアレルギーを引き起こすのだとしたら。たまたまゾンビ物が反応に現れているだけで、どんな内容が反映されるのか、法則性はないだろう。すでに表れているけれども気づかれていないだけかもしれない。どこで、何が起こるのか分からない、制御不能な世界。そこまできて、伸也は考えるのを止めた。一介の医師が考えてどうなることでもない。便利なツールであったはずの物は、今や人間を支配する者となり変わらんとしている。それも、意思も目的もない者に。我々はそういう支配者のことを暴君、と呼んできた。この暴君は、もしかすると、史上で最も強力でかつ凶悪な者になるのかもしれない。


 ふいに若林の、携帯電話が鳴った。若林はポケットから取り出しはしたものの、通話ボタンを押すことをためらっている。にぎやかな着信音に混じって、二人は互いの生唾を呑み込む音を聞いたように感じた。

 馬鹿馬鹿しい。何を怯えているのだろうか。疲れているに違いない、と伸也は思おうとした。そんな伸也たちをあざ笑うように、着信音だけが、診察室に響き続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

端末感染 十森克彦 @o-kirom

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ