ジェニスの町の有り様 4
翌日、俺とフィオナ嬢はラッセルさんを連れて森に踏み込んでいた。彼の調査対象の一つが森のかなり深い場所にあったからだ。
浅い部分にもブラックボアが現れる森に、森に不慣れなエルフと、最近ようやく様になってきたばかりの兵士だけで行かせるわけにはいかない。
例によってカエデやレナードには止められたんだけどな。
エルフに話を通すのと引き換えなら、俺も大人しく引き下がっていた。だが、彼のハーブの研究は、石鹸の匂いを変えることに大きく貢献する可能性があった。
だから必要なことだと仲間達を説得した。
せめて兵士を同行させろとも言われたが、彼らはようやくブラックボアと集団で渡り合えるようになったばかり。俺達にとっては護る対象が増えるだけだ。
そんな風に説得したのだが、彼らは譲ってくれなかった。そんな膠着状態を動かしたのは、意外にもクリス姉さんの一言だった。
「当主を目指すのなら、自分で動かなきゃいけないときもあるわ」
そんな風に味方してくれたのだ。
まあその後「死んだらあの世まで叱りに行くからね」と謎な脅され方をしたけどな。心配してもなお、信じて背中を押してくれる彼女は、俺には過ぎた姉さんだと思う。
そんなこんなで、俺達三人は森の中を歩いていた。
ラッセルさんはローブを纏った姿で、俺とフィオナ嬢は冒険者が着る丈夫な服を身に着けている。こんなこともあるかと思って、密かに準備させていた装備だ。
フィオナ嬢の足取りが軽いのは、冒険者時代のことを思い出しているからだろう。
「アレン様、あっちに魔物の反応――おそらくはブラックボアがいます」
「回避は……無理そうだな。仕方ない、フィオナ嬢はラッセルさんの護衛を頼む」
フィオナ嬢に護りを任せた俺はあえてブラックボアの前に姿を晒し、襲いかかってくるブラックボアをすれ違いざまに斬り捨てた。
素早くブラックボアが精製した魔石を取り出し、持ち運ぶのに支障のない程度のキバやお肉、とくに価値が高い部分だけを素早く切り取る。
「フィオナ嬢」
「ええ、お任せください」
フィオナ嬢が魔術で肉を凍らせ、捨て置く部分は地面に穴を開けてそこに埋めた。
ちなみに肉の血抜きはしていない。一般的には血抜きをしなければ臭くなると言われているが、それはある意味では間違いだ。
血抜きをすれば臭くならないのは事実だが、血抜きをしなければ臭くなるというわけじゃない。素早く冷やすことで、臭くなるのを防ぐことが可能なのだ。
血の臭いがあらたな魔物を呼び寄せる可能性のある野外においてはかなり有効な手段で重宝しているのだが、血抜きをした肉よりも薫り高くなったりもする。もっとも、肉を冷やすためだけに魔術を使うのはかなりの無駄遣いだが……フィオナ嬢は魔術師として優秀だからな。
「アレン様、ブラックボアの処理は終わりましたわ。ですが……魔物がずいぶんと増えてきましたわね。まさかここまで多いとは思いませんでしたわ」
「そうだな……」
やり過ごした分も併せると結構な数の魔物と遭遇している。ダンジョンでもない普通の野外にこれほど多くの魔物がいるのは珍しい。
「魔物は無事に倒せたのかい……?」
「ああ、安心してくれ」
「そうか、はは……やっぱりキミ達に頼んで正解だったよ」
安堵する素振りを見せるが、ずいぶんと疲労がたまっているようだ。慣れない森の中を歩くことに加えて、続けざまに魔物と接触して精神的にもつかれたんだろう。
俺とフィオナ嬢は顔を見合わせて、少し休憩を取ることにした。
「……はぁ、助かるよ。と言うか、二人ともどうしてそんなに体力があるんだい?」
倒木に腰を下ろしたラッセルさんが溜息交じりに呟いた。俺はともかく深窓の令嬢な見た目をしているフィオナ嬢が元気なことに納得がいかないのだろう。
実際、フィオナ嬢はトレーニングというより美容体操みたいなことをしている程度だし、俺だって以前ほど鍛えているわけじゃない。
だが、身体の効率的な動かし方は会得しているのでその差が大きいのだろう。
――とお茶を濁しておいた。
フィオナ嬢の場合は魔術で身体能力を強化しているのだが、それに関しては彼女の奥の手みたいなものだから秘密なのだ。
「それより、俺達が目指してるのはどんな遺跡なんだ?」
「古代の魔術に関する遺跡だね。文献が正しければ学校みたいなところだそうだよ。そこなら、もしかしたらボクの求めている魔導具が見つかるかも知れないと思ってね」
ラッセルさんの目当ては魔導具で、その魔導具を使えば、俺達が普段使っている羊皮紙とは違う、薄くて綺麗な紙が作れるらしい。
魅力的な話だが、存在が知られてる遺跡に魔導具が残ってるとは思えない。そう言ったんだけど、未発見の隠し部屋なんかがあれば良いかなくらいの感覚だそうだ。
「……あれば良いなで、危険な場所へ行くのか?」
「遺跡をこの目で見たいって言うのもあるんだよ。古代遺跡は魔導具を多く使っていたというからね。魔導具がなくとも、建物の有り様から色々と想像できるだろう?」
「なるほどねぇ……」
研究大好きっ子であるクリス姉さんとちょっと似てるかも知れない。なにはともあれ、現物が見つからなくても研究になると言うのなら問題はない。
彼を遺跡まで連れて行くだけだ。
――という訳でやってきた古代遺跡は、物の見事になにも残っていなかった。
「はは……調度品一つ残っていないね。だけど、ほら、ここに配管があるよ。あっちから続いているようだけど、なんの配管だったんだろうね?」
「……井戸かなにかから、魔導具で水を引いてたんじゃないか?」
「あ、あぁそっか。ここから水が出るようにしてあったのか。凄いね、良く分かったね!」
ラッセルさんが興奮するが、俺は苦笑いを浮かべた。古代遺跡はわりと前世に近い様式をしていたから、あれこれ見るだけでなんとなく分かったのだ。
そう考えると、この世界は古代の方が魔術は発展していたみたいだ。そんなことを考えながら、ラッセルさんがあちこちを見て回るのを追い掛ける。
一通り回ると、ラッセルさんは満足気に頷いた。
「うん。目的の物は見つからなかったけど、色々とためになったよ。ここまで連れてきてくれてありがとう!」
「役に立てたのなら良かったよ。目的の魔導具が見つからなかったのは残念だけど……そういや、どんな魔導具を探してたんだ?」
「あぁ……原理はボクも良く分からないんだけど、木の繊維をほぐす薬品を作り出す魔導具で、塩水に雷の魔術を使って抽出するそうなんだよ」
「それって……」
「電気分解のことですわね」
思わずフィオナ嬢と顔を見合わせた。
ラッセルさんが探していたのは電気分解をするための魔導具で、求めているのは石鹸に使うのと同じ苛性ソーダの可能性が高い。それがあれば薄くて綺麗な紙が作れるそうだ。
それを知った俺は、情報の秘匿を条件に魔導具があることを打ち明けた。
結果――
「――早く、早く見せておくれよ!」
町へ戻ってきたのだが、屋敷へ向かう道中、ラッセルさんはさっきからこの調子だ。
森で一泊していて、さすがの俺達も二日目は疲れ気味なんだが、ラッセルさんはむしろいまの方が元気である。さすがレナードに研究馬鹿と評されるだけのことはある。
「落ち着いてくれ。苛性ソーダは劇薬だから、落ち着くまで見せないぞ?」
そう口にした瞬間、ラッセルさんはピタリと大人しくなった。
「劇薬ってどういうことだい?」
「文字通りの意味だ。肌に触れたら爛れる可能性があるし、目に入ったら失明しかねない。それくらい取り扱いの危険な薬品なんだ」
どれくらい危険かをコンコンと言い聞かせながら、ラッセルさんを連れて屋敷に戻る。
「さて、これから電気分解をする魔導具を見せるわけだが、その前に守秘義務の書類にサインをしてくれ。それに、雇用についても契約しよう」
その辺りは詳しいレナードに任せ、帰還の報告はフィオナ嬢に任せる。でもって俺はクリス姉さんに話を通すために工房へと向かう。
作業をしていたクリス姉さんは、俺を見るなり駆け寄ってきた。
「アレン、お帰りなさい」
「ああ、ただいま、ちゃんと帰ってきただろ?」
「あら、あたしは心配なんてしてなかったわよ?」
ツンと顔を逸らす。死んだらあの世まで叱りに行くとか言ってたくせに素直じゃない。けど、そういうところもクリス姉さんらしい。
「ところでクリス姉さん、実は頼みがあるんだ」
「あら、またなにか新しい魔導具の制作でもして欲しいの?」
「いや、今日は別件だ。ラッセルさん、例のエルフだけど――」
ラッセルさんが紙を作るのに魔導具を見たがっていることを伝える。ついでに、色々と研究しているそうで、石鹸類の改良に役立ちそうなことも伝える。
「へぇ……エルフの研究者ね。見せるのは良いけど、情報の漏洩的な意味で大丈夫なの?」
「そこは大丈夫だ。レナードも間諜などではないってお墨付きをくれたし、いまちょうど雇い入れて、守秘義務の契約もしてもらってるから」
「ふふっ、さすがアレンね。それじゃ準備しておきましょうか」
クリス姉さんが書類を束ねて引き出しにしまっていく。
プラチナブロンドが後ろで纏められている。それを揺らしながら戸棚に手を伸ばす。クリス姉さんの横顔は仕事が出来る女性のようであり、家庭的な女の子らしさも醸し出している。
「なぁに? そんなにあたしのことをじっと見たりして」
「あぁいや、なんか良いなぁって思って」
「……もぅ、ばか。あたしをからかってないで、片付けるのを手伝いなさい」
クリス姉さんは少し顔を赤らめて、俺に片付けの指示を飛ばしてきた。その指示に従って、片付けを手伝う。それからほどなく、ラッセルさんがやって来た。
「思ったより早かったな」
「ええ、それはもう。魔導具を見たかったので、ぱぱぱっとサインしてきたよ」
「……ぱぱぱって、大丈夫なのか?」
「守秘義務は理解したので大丈夫だよっ」
「……いやまぁ、ラッセルさんが良いなら良いんだけどさ」
俺が心配したのはどっちかというと雇用契約の方である。
レナードには、彼が優秀だから囲い込みたいと伝えてあるので、好条件が出されているはずだが、この調子なら騙されていても気付いてなさそうで怖い。
……まあ、研究の環境さえ整えておけば裏切られないという意味では扱いやすい。しっかり彼が望む環境を整えて働いてもらうとしよう。
「それで、キミがクリスさんだね。電気分解をおこなう魔導具を持っていると聞いたが、一体どこにあるんだい!?」
「あぁ、それなら……ちょっと待ってね」
クリス姉さんは苦笑いを浮かべつつ、鍵の掛かった戸棚を開けた。そこには、様々な魔導具が綺麗に並べられていて――
「うおおおおおおおおおおっ!? なんだこれなんだこれ、なんだこれ!? どうして魔導具がこんなにあるんだい!?」
「ふえぇぇえぇ……」
あのクリス姉さんが気圧されて、子供のように戸惑っている。ちょっと可愛い……と思っていたら、ちょっぴり咎めるような目で睨まれた。
助けなさいよ馬鹿という心の声が聞こえてきた。
「ラッセルさん、落ち着け。クリス姉さんは魔術師で、魔導具を作るのが専門なんだ」
「おぉ、そうなのか。なら、これは彼女が作ったのかい?」
「ああ、そうだ。姉さんは優秀だからな」
「ちょっと、アレン。恥ずかしいわ」
クリス姉さんが恥ずかしそうに袖を引っ張ってくる。優秀なクリス姉さんが褒められ慣れてないとは意外だ。もう少し褒め殺しにして恥ずかしがらせて――いたたっ。
腕を抓られた。
「こほん。弟の言うことは話半分に聞いてね。それで……見せて欲しいのは電気分解の魔導具だったかしら?」
「目的はそれだったけど、全て見せてもらいたいというのがいまの本音だね」
「ふふっ。なら、まずは電気分解の魔導具から順番に見せてあげるわ」
クリス姉さんが壁のスイッチを押すと、魔導具が起動して壁にあるダクトに設置された羽根が回り始めた。前世の世界では見たことがあるが、この世界では初めて見る換気扇だ。
――ちなみに、空気の入れ換えなんて隙間が多い建物ではほぼする必要がない。ゆえにこの世界では見かけなかったのだが……ふぅむ。
なんて思っているあいだに、クリス姉さんは魔導具を起動して、ラッセルさんの質問にあれこれ答えている。……正直、何語で話してるのか分からない。
俺、居なくて良かったんじゃ……とか思ったけど、個室で若い令嬢と男が二人っきりというのは外聞が悪い。俺は少し離れた席に座って待つことにした。
クリス姉さんは苛性ソーダと一緒に発生する物質がどうのという説明をして、ラッセルさんがその物質についての見解や質問を繰り広げている。
さっぱり分からぬ。
俺は仕方なく、部屋の隅っこで自主トレをすることにした。取り敢えず邪魔にならないように部屋の隅へいき、二人の議論を聞きながら腹筋をこなしていく。
――九十七、九十八……九十九…………百っ。
腹筋を終えて顔を上げると、苛性ソーダの使い道とその可能性について語っていた。なんでも、絡み合う木の繊維をほぐす効果があるらしく、植物紙を作るのに使えるらしい。
なにを言ってるのか良く分からないが、ラッセルさんの用途はそれのようだ。
しかし、話はまだまだ終わりそうにない。
俺は続いて腕立て伏せをする。
――七十七、七十八、七十九……
ひたすら腕立て伏せをしていると、二人の楽しげな会話が聞こえてくる。なぜか、萌える空気がどうのとか言っている。
萌える空気……ピンク色な感じだろうか? なぜそんな話になったんだ? 研究の話は終わって、二人でおしゃべりしてるのか?
――うぐっ!?
不意にずしりと背中になにかが乗っかってくる。
「どうしてアレン様はこんなところで筋トレをしているんですか?」
「……フィオナ嬢、か。重いぞ、おまえ……っ」
「あら、乙女に重いだなんて失礼ですわよ?」
「ふざ、けんな……っ。背中に乗られて重くないはずがないだろうがっ」
腕立て伏せをしている俺の背中を椅子代わりにしているのだ。重くないはずがないし、そもそも貴族令嬢のすることじゃない。
しかし、ここで潰れるのも悔しいので、俺は気合いで腕立て伏せを続ける。八十三、八十四、八十五……
「――ところでアレン兄さん、さっきなんか変な顔をしてたけど?」
フィオナ嬢が俺の肩に手を置いて耳打ちしてくる――のは良いんだが、背中に座ってるのに上部に体重を掛けたらこっちの腕に負担が掛かるだろうがっ。
俺は負けるかぁと腕立て伏せを続けながら答えを返す。
「ぐぬぬ……はぁはあ……っ。あの二人が楽しげに、萌える空気とか言ってたから……っ。なんの話かなと、思ったん、だっ」
「……燃える空気? あぁ……電気分解で出来る奴ね」
「……はあ? 電気分解で、萌える空気が出来る? 研究大好きっ子同士だから、実験で萌えたりする、って……こと、か?」
って言うか、もう何回目か分からなくなった。だが過負荷的には百回分は軽く超えているはずだと腕立て伏せを終え、膝をついて四つん這いになる。
すると、俺の背中から降りたフィオナ嬢がクスクスと笑った。
「萌える空気じゃなくて、燃焼するほうの燃えるだよ」
「……あ? あぁ……そっちか」
ちなみに、そんなどうでも良い会話をしているあいだに、石鹸やシャンプーとリンスに合いそうなハーブの選出がおこなわれていたらしい。
リディアやオーウェル子爵代行への逆転の一手は、フィオナ嬢を背中に乗せて腕立て伏せをしているあいだに劇的進歩を見せた。
……しまらねぇな。
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