オーウェル子爵領との交渉 4
執務室で待っていると、どこか困った顔のクリス姉さんがやって来た。
「……その表情は、交渉が決裂したのか?」
「いいえ、オーウェル子爵領に被害をもたらしたこととアレンは無関係だってことは分かってもらえたわ。それに取引を再開させるための交換条件を引き出すことも出来たわ」
「……そうなのか?」
そこまでこぎ着けたのなら上々なはずなのに、どうして元気がないんだ?
首を傾げつつ、ひとまず話を聞いてみようとソファに座るように勧める。でもって俺は、その向かいの席に座った。
「それで? もしかして無理難題を押しつけられたとかか?」
「あたしは……条件を呑むことは可能よ。ただ、あたしじゃ決められない。アレンが直接話し合いの場に赴く必要があるわ」
「……ふむ、それは構わないが、その条件というのは?」
「それは……本人から聞いてもらえると助かるわ」
「……どういうことだ?」
「この条件は、あたしの口から伝えるべきじゃないと思うの。だから……お願い」
取引条件を事前に聞いて対策を立てるのは初歩中の初歩。本人に会ってから聞くなんて場当たり的な対応はあり得ない。
だけど……お願いと口にしたクリス姉さんの弱った顔を見たらそんなことは言えない。
「分かった、本人から聞くよ」
「……ごめんなさい。この交渉が上手くいかなければ不味いのにこんなこと言って」
クリス姉さんの瞳が不安からか揺れている。
……誤解させちゃったみたいだな。
「説明不足だったな。リディアには先手を打たれたが、負けるつもりは全くないんだ。最悪でもそこまでの被害は受けない。その程度の攻撃でしかないんだ」
おそらくは小手調べ。こちらの対応を見て、第二、第三の策を仕掛けてくるつもりだろう。
でも小手調べだからこそ、こちらは可能な限り被害を抑えなくちゃいけない。小さなダメージを無視していれば、俺の評価を下げることになる。
だから、遠くからの輸入は避けなくてはいけない。仮に遠くから輸入したとしても、ジェニスの町が潰れたり、俺が一瞬で当主候補から外されるわけじゃない。
そのことがクリス姉さんには伝わっていなかったようだ。
「じゃあ……遠くから輸入しても最悪の事態には至らないのね?」
「至るはずないだろ。ただ、リディアへの反撃が難しくなるだけだ」
俺があれこれ対策に追われているのは追い詰められているからじゃない。リディアの罠を食い破った上で、俺の方が格上だと父上に対して証明するためだ。
それを丁寧に説明すると、クリス姉さんはなんともいえない顔をした
「……アレンがずっと難しい顔をしてるから、凄く追い詰められてるんだと思ってたわ」
「ごめんごめん」
クリス姉さんを心配させないように軽い口調で謝罪する。
ただ……いま言ったことは嘘じゃないが、実際のところは楽観も出来ない。今回の一件は本当に小手調べだろう。父上と同じくらいの威圧を放ってくるリディアがただ者なはずはない。
このまま受けに回っていたら、ずるずると防戦一方になる。
それを防ぐには、リディアの策略を食い破ると同時に反撃を仕掛ける必要があるのだが、半端な攻撃ではリディアを警戒させるだけだ。
ゆえに一撃。
リディアが警戒する前に、ただの一撃で決着をつける必要がある。
「……ホントに、大丈夫なのよね? あたしを安心させようと思って無理してない?」
「違う、ホントに言ってる。だから心配するな」
クリス姉さんが安心できるように笑って見せた。それに対してクリス姉さんは少し思い悩むような素振りで、きゅっと握った小さな手を胸に押しつけた。
普通なら可愛い仕草だと思うんだけど、豊か過ぎる胸が押し潰されて、なんというか……非常に扇情的な感じになっている。姉さん、警戒。もうちょっと人目を警戒してくれ。
「コホン。その……どうかしたのか?」
「え? うぅん……なんでもないわ。少し安心しただけ」
クリス姉さんはそう言って笑った。
……ふむ。少し気になるが、その笑顔に嘘はなさそうだな。
「なら、オーウェル子爵について教えてくれるか? どんな人なんだ?」
「オーウェル子爵は先代が亡くなって不在よ。いまオーウェル子爵領を治めているのは長男で、当主代行という地位に就いているわ」
「あれ、そうだったんだ」
次期当主を目指してからオーウェル子爵領についても最低限の知識を押さえていたのだが、子爵が亡くなったという情報は知らなかった。
「つい最近のことね。当主代行の地位に就いているけど、彼が当主になるかどうかは後見人が決めるそうよ。本人は野心家で、なんとしても当主になるつもりのようだから、リディアにはその野心を利用されたのかもしれないわ」
「なるほど、後ろ盾か」
リディアが当主になれば、彼女に協力したオーウェル子爵代行は強力な後ろ盾を得ることとなる。俺がフィオナ嬢と政略結婚しようとした理由と同じだ。
それならば交渉の余地はある。クリス姉さんに持ちかけた条件もおそらくはその辺りだろうから、友好な関係を築く方向で説得してみよう。
俺は先触れを出し、明日の朝一番に出発することにした。それらの手配を終えて、クリス姉さんをねぎらうためにメイドに合図を送る。
扉が開き、メイドがバームクーヘンを載せたカートを運んできた。
「あら……これは?」
「バームクーヘンの新作だ。よかったら食べてみてくれ」
「へぇ……って、なんだか癖のあるニオイね」
ゆるふわプラチナブロンドが零れ落ちないように指で受け止めて、バームクーヘンに顔を寄せる。クリス姉さんはすんすんと鼻を鳴らした。
「腐った牛乳が入ってるからな」
「――えっ!?」
エメラルドグリーンの瞳が零れ落ちそうなくらい目を見開く。だが、俺が笑っているのに気付いたのか、少し怒ったように笑う。
「もう、お姉ちゃんをからかうなんていけない子ね。お仕置きしちゃうわよ?」
「ごめんごめん。でも、完全な嘘って訳じゃないんだ。そのバームクーヘンにはチーズっていって、発酵させた牛乳が入ってるんだ」
「……発酵させた、牛乳?」
チーズのような発酵食品を知らないらしい。だから、発酵させた牛乳と言われても、腐った牛乳としか思えないんだろう。クリス姉さんは瞳に戸惑いの色を滲ませる。
「まあ、騙されたと思って食べてみてくれ」
「……アレンがそういうのなら。でも、あたしがお腹を壊したら、体調がよくなるまでずっと枕元で看病させるからね?」
「はいはい。そのときは看病してやるから、ほら」
なんやかんや理由をつけて食べようとしないので、自分の皿のバームクーヘンを一口サイズに切り取って、フォークに刺して姉さんの前に差し出した。
「……え? え?」
「ほら、あーん」
「えぇ、それはちょっと恥ずかしいって言うか……はむっ」
口の前に近づけると、クリス姉さんは照れつつもパクッとバームクーヘンに食いついた。フォークを引っ込めると、クリス姉さんはゆっくりと咀嚼を始める。
指先で口元を隠し、もぐもぐと口を動かす。
「~~~っ」
クリス姉さんは涙目になって、なにか言いたげに俺を見る。だけど視線を彷徨わせた後、困った顔でもごもごと口を動かすと、しばらくしてコクンと喉を鳴らした。
「……アレン、騙したわね?」
「お気に召さなかったか?」
「凄く、臭かったわ」
涙目で睨まれてしまった。
「たしかに癖のあるニオイだもんな。でも、無理して飲み込むことなかったんだぞ?」
「一度口に入れたのに、吐き出せるわけないじゃない、ばかぁ」
「あぁ……それは悪かった。ご褒美のつもりだったんだが……すまん」
チーズを食べたことのない人にはキツかったかもしれない。
イジワルで出したわけじゃない示すために自分の口に放り込む。バームクーヘンの食感にチーズの濃厚な風味が加わって、いままでとはまったく違う味わいが楽しめた。
「……ん、やっぱり俺は好きだな」
「アレンはこんなに臭いのが好きなの?」
「そう言われると頷き辛いものがあるんだが……慣れると美味しいぞ?」
二切れ、三切れと食べていると、クリス姉さんは「む~」と唇を尖らせて、バームクーヘンに視線を落とした。躊躇いがちに切り分けると、その一切れを口に放り込む。
そして、やっぱり涙目で咀嚼した。
「やっぱり臭いわね」
「……無理に食べなくても良いんだぞ?」
「ダメよ。せっかくアレンがあたしのために用意してくれたものだもの。それに……お腹を壊しても、アレンが責任取って看病してくれるんだし……良いかなって」
……そんな、お腹を壊す覚悟で食べなくてもいいと思う。
護衛の兵士と使用人を若干名連れて馬車で数日、俺はオーウェル子爵領入りを果たした。
途中で塩湖を目の当たりにしたが、対岸が霞んで見えるほどの規模だ。
あれだけの塩があれば、この先何十年、何百年と塩に困ることはないだろう。ウィスタリア伯爵領には特筆するレベルの資源はないので羨ましい話である。
ともあれ、オーウェル子爵家のお屋敷で面会の許可を取り付ける。先触れは送ってあったのだが、予定が埋まっているとのことで三日も街で待たされることとなった。
三日後、再び屋敷を訪れた俺は、案内された応接間で再び待たされた。そうしてしばらく待っていると、ようやくオーウェル子爵の当主代行が姿を現した。
ジェイン・オーウェル。
前オーウェル子爵の長男で、かなり若い――と、もっと若い俺が言うのもなんだが、ロイド兄上と年はさほど変わらないように見える。
「本日は話し合いの機会を設けてくださってありがとうございます」
「ふんっ。クリスがどうしてもと頼み込んできたからな」
あぁん? 誰に断ってクリス姉さんのことを呼び捨てにしてるんだ?
――って、落ち着け。こいつが俺を下に見ていることは、散々待たされた時点で分かっていたことだ。というか実際、次期伯爵候補と子爵代行なら、子爵代行の方が上だろう。
それにしたってこんな扱いを受ける謂われはないと思うが、ロイド兄上が迷惑を掛けた件もある。塩を押さえているから、自分の方が上だと主張しているんだろうな。
この程度でいちいち苛立っていたら貴族なんてやっていられない。せっかくクリス姉さんが作ってくれた交渉の機会だ。
怒りを飲み込んで、冷静に話し合いをしよう。
「それで、俺が出した条件を呑む気になったのか? 決定権はおまえにあると聞いているが」
「実は条件は本人から直接聞いて欲しいと言われて聞いていないんです。お手数ですが、どのような条件を出したのか教えていただけますでしょうか?」
「そうか、なら教えてやる。俺が出した条件はクリスを嫁に寄越すことだ」
………………………………は?
「それは政略結婚、ですか?」
「そうだ。悪い話ではないだろう? 俺はウィスタリア伯爵家の後ろ盾を得ることになるし、おまえは塩の流通を元に戻すことが出来る」
呆れてなにも言えない。
相手が一方的に得をするだけで、こちらはマイナスが消えるだけ。極論でいえば、この先ずっと、塩の流通を止められるたびになんらかの条件を呑まされることになる。
その時点であり得ない。
そもそも、俺は父上にクリス姉さんが二十歳までは政略結婚をしなくて良いように交渉しただけで、嫁ぎ先を決められるわけじゃない。
俺が決められるとしても、クリス姉さんは魔導具を開発できるほどの魔術師だ。塩の流通程度と引き換えに渡せる人材じゃない。
政治的には一考の価値もないが、クリス姉さんが俺に話さなかった理由は分かった。わざわざ『あたしは条件を呑むことは可能』だと言ったのもそれが理由。
俺にそんな政略結婚は嫌だとか言えば、困らせることになると思ったんだろう。まったく、色々と余計な気を回しすぎだ。
「念のために聞いておきますが、姉のことが好きだとか?」
「は? 政略結婚だぞ? ウィスタリア伯爵家との繋がりは欲しいが、あんな風に気の強い女は好みじゃない。あぁ……だが、あの身体はなかなかだったな」
「そうですか、ではお断りします」
話し合いはどうしたというなかれ、思いっきり自重した結果だ。クリス姉さんのことを良く知りもしないでふざけんな、ぶっ殺すぞと言わなかった俺を褒めて欲しい。
こいつがクリス姉さんを好きだとかなら一考くらいはするし、万が一両想いなら政治度外視で父上に交渉することも考えたが、そうじゃないのなら考える余地は欠片もない。
それが理解できなかったのだろう。ジェインはぽかんと口を開けた。
「……なんだと?」
「ですから、姉を嫁に出すつもりはないと言ったんです」
あらためて拒絶する。
それでようやく理解したのだろう。その顔が真っ赤に染まった。
「……おまえは馬鹿か? こっちは塩の輸出をいくらでも制限できるんだぞ。それを理解した上で、俺の申し出を断るつもりなのか?」
「愚かなのはおまえの方だ」
「なんだとっ!?」
沸点が低すぎる。
ロイド兄上ですら、俺の挑発には乗ってこなかったぞ。
「塩を押さえて優位に立ってるつもりのようだが、たかだか塩ごときで一流の魔導具の制作者でもある姉を渡せるはずがないだろう。塩程度、他所から輸入すれば良いだけだ」
リディアの嫌がらせは巧妙だった。
遠くから塩を輸入すればコストがかさみ、その分だけ俺の評価が下がる。それが分かっているため、安易に遠くから塩を輸入するという選択が出来なかった。
だが、言い換えれば嫌がらせ程度でしかない。
少しの輸送費や父の評価のために、腹を見せて全面降伏するはずがない。オーウェル子爵代行はそれすらも理解していないように思える。
もし彼がウィスタリア伯爵家に生まれていれば、確実に後継者争いから外されていただろう。そんな彼が子爵代行の地位にいる……世襲制の欠点が出たんだろうな。
「俺にそのような態度を……後悔するぞ?」
「ならどうする? ウィスタリア伯爵領へ輸出する塩を全て止めてみせるか?」
たしかにオーウェル子爵は塩を握っているが、輸出を制限するということは自分の収入を減らすことになる。ジェニスの町程度なら輸出を制限しても影響は微々たるものだろうが、ウィスタリア伯爵領へ輸出する塩全てを止めるなんて出来るはずがない。
それでもやるというのなら、俺ではなく父上が叩き潰してくれるだろう。そうしてくれた方が楽なので、ぜひウィスタリア伯爵に喧嘩を売っていただきたい。
「――っ。いや、輸出を止めるのはおまえが治める町だけで許してやる」
残念、さすがにそこまで愚かではなかったらしい。だが、ジェニスの町への塩を止めるのが精一杯なのに、許してやるとはお笑いだ。
――と、そんな内心を隠すことなく笑うとジェインの表情が引き攣った。
「……おまえ、アレンとか言ったな。必ず後悔させてやるぞ」
「後悔するのはどっちか、すぐに思い知るだろう」
こんな劣化ロイド兄上が隣の領地の当主になるなんて想像しただけでぞっとする。こいつが正式な当主になる前に、リディアと二人纏めて叩き落としてやる。
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