プロローグ
前世の記憶を取り戻した俺は、このままでは前世同様に兄に追放され、ゆくゆくは暗殺されてしまうかもしれないと危惧し、当主の座を得ようと立ち上がった。
ロイド兄上に立ち向かうべく、ライバル関係にあったクリス姉さんを味方につけ、侯爵家の令嬢に生まれ変わっていた前世の妹、フィオナ嬢と手を組んだ。
ロイド兄上は様々な謀略を仕掛けてきたけれど、俺達は力を合わせてそれら全てをはね除けた。そうして父上を通じて、二度と俺達に手を出さないように約束させるに至った。
俺達は平和な環境を手に入れた――はずだった。
ロイド兄上に思い知らせてから数ヶ月経ったある日、俺は再び父上に呼び出された。年に一度の報告会はまだまだ先なのだが、なにやら連絡があるらしい。
内容は聞かされていないが、欠席という選択はあり得ない。ジェニスの町の管理を仲間達に任せた俺は、久しぶりの実家へと顔を出した。
玄関ホールに入ると、以前にはなかった一枚の絵画が目に飛び込んできた。
おそらくは著名な画家が手がけたのだろう。高い技術を持ってその絵に描かれているのは、広大な大地に広がる農場、見渡す限りの麦畑には垂れた穂。
領地の繁栄ぶりを誇る芸術品。
――ここを訪れた大半の貴族はそう思うことだろう。この貴族社会において、その感想が間違っているわけではない。けれど、俺が抱いた感想は違う。
そして、おそらくは父上も違うと、俺は直感的にそう思った。父上はこの絵を通じて、自分と同じ感想を抱く者を探している――と、考えすぎかも知れないけどな。
と、そこへタイミングを見計らったように父上の執事が近付いてきた。
「お帰りなさいませ、アレン様。絵をご覧になっていたのですか? その絵は、旦那様がとある画家に描かせたものなんですよ」
「たしかに素晴らしい――風刺画だな。父上にはそう伝えてくれ」
「かしこまりました。アレン様には風刺画に見えていたようだとお伝えしましょう」
執事の表情はピクリとも動かない。さすがは父上の執事と言ったところだろう。その反応からは、俺の答えが父上にとっての正解だったのかどうかは分からない。
「ところで、父上に呼ばれてきたのだが、どこへ行けば良い?」
「旦那様は会議室で待つようにとおおせです」
「そうか、では会議室へ向かうとしよう」
さすがに、この絵画を見せるためだけに呼び出したわけではないだろう。一体どんな話をされるのか、俺は気を引き締めて会議室へと顔を出した。
会議室の片隅で調度品を眺めながら父上の到着を待つ。
調度品はどれも一級品で、ウィスタリア伯爵家の力の強さを示している。おそらくはどれか一つでも、平民が数年は遊んで暮らせるだろう。
だが、無意味に贅沢をしているわけではない。
貴族社会においては力の強さを見せつけることも必要だ。そうしなければ舐められ、不要な争いを生むことにもなりかねない。
言うなれば、うちはこれだけの調度品を揃える力があるから仲良くした方が得だぞ。敵対すれば痛い目を見るぞと主張しているわけだ。
そういう意味でも、バームクーヘンはかなりの力の象徴となったはずだ。俺が開発している石鹸、シャンプーやリンスも同じように政治的な価値がある。
ロイド兄上を押さえ込んだいま、次期当主の座を得る日は近いかも知れない。
そんな風に考えていると扉が開き、ロイド兄上が会議室に入ってきた。父上かと思って気を引き締めていた俺は、ふっと身体の力を抜く。
けれど、ロイド兄上は逆に身をこわばらせた。
「……ふ、ふん、相変わらず生意気な顔だ」
ロイド兄上は悪態をつく――が、そう口にするより早く、相談役兼お目付役のウォルトの背中に隠れてしまった。生意気な顔もなにも、そこからでは俺の顔が見えないと思う。と思ったら見えた。ウォルトが横に退いたからだ。
俺から丸見えになったロイド兄上が再びウォルトの背後へと移動する。だが、ウォルトは再び退いて、ロイド兄上が再び背後に――行く前に壁を背中にしてしまった。
「お、おい、何故動くんだ!」
「……何故と言われましても、主人の会話を遮るわけにはいきませんので」
「ぐぬぬ……」
いや、ぐぬぬじゃないだろ。一体いつの間に、そんな面白キャラになったんだよ。
「ロイド様、さきほどお伝えしたことをお忘れですか?」
「……そ、そうだったな! アレン、いいか、よく聞け! 前回は稽古の上でのことであるがゆえに許されたが、そうでなければおまえのしたことは暴行だ!」
「……はあ、まぁ……そうですね」
たしかにその通りだが、なにが言いたいのか分からない。
乗り気じゃない俺に稽古を持ちかけたのも、中断したがった俺に、どちらかが土下座しながら泣いて謝るまで稽古は終わらないと言い出したのもロイド兄上である。
「分かってないようだな。いいか、俺はもう絶対におまえと稽古なんぞしない! つまり、俺に手を出したらおまえは暴行の罪で当主候補脱落ということだ!」
……あぁ、前回ボコボコにされたのがトラウマになってるのか。ロイド兄上じゃあるまいし、いきなり襲いかかったりすると思われるのは心外だ。
「ご安心ください。ロイド兄上が俺の身内に手を出さない限り、俺もロイド兄上に手を出すようなマネはしませんから」
「そ、そうか、だったら良い! おまえも身の程を自覚して大人しくすることだな!」
それはこっちのセリフである。相変わらず面倒くさいな――なんて思っていたら、父上が使用人達を伴って部屋に入ってきた。
「ご無沙汰しております、父上」
すぐさま頭を下げて父上を迎える。顔を上げた俺は、父上の斜め後ろに明らかに使用人ではない姿の、けれど見覚えのない少女がいることに気がついた。
ブロンドの髪に、理知的な緑の瞳。左右の耳元に刺繍入りの布の髪飾りをつけた彼女は、どう見てもどこかのお嬢様だ。
俺と同じくらいか、下手をしたら年下くらいだが……
「その少女は父上の新しい妾ですか?」
「――馬鹿なことを言うなっ!」
「し、失礼しました」
父上に叱責されて謝罪したのは俺じゃなくロイド兄上だ。
俺も同じことを考えていたが、さすがに面と向かって訊く勇気はなかった。それを迷わず尋ねて叱責されるとはさすがロイド兄上、ちょっとだけ尊敬する。
ともあれ、俺達は席に着く。俺とロイド兄上が父上の向かいである下座で、少女は父上の隣の席に座った。……父上と同列に扱われている?
いや、一時的な処置として、自分の隣に座らせたのか?
だとしたら――
「父上、俺達を呼んだのは、その少女を紹介するためですか?」
「そうだ。彼女の名は……リディア。リディア・ウィスタリアだ」
「ウィスタリア? それは、もしや……」
俺は嫌な予感――いや、確信を抱いた。
彼女はおそらく、クリス姉さんに続く二人目の――
「なるほど、ただの妾ではなく愛妾でしたか。そのように幼くも美しい少女を見つけてくるとは、さすが父上――」
「――馬鹿を言うなといっているだろう! いいからおまえは黙っていろ!」
「申し訳ありません!」
ロイド兄上はなにをやっているのやらである。
だが……ロイド兄上の軽口はいまに始まったことじゃない。いままでそういった軽口が見逃されてきたからこそ、ロイド兄上はいまこの瞬間もいつものように軽口を叩いた。
なのに、今日はそれが許されない……父上の反応も妙だな。
実は、本当に愛人なんて可能性も――
「彼女は今日より養女として扱う。よって、ウィスタリア伯爵家の次期当主候補となる」
――なかったかぁ。
寵姫だった場合、生まれたばかりの子供を次期当主になんて言い出して、お家騒動勃発なんて可能性もあるし、それよりはマシかもしれないが……ここに来て新しい候補とはなぁ。
「ど、どういうことですか! 当主候補は既に俺がいるではありませんか!」
泡を食ったロイド兄上が父上に詰め寄った。
「本来はクリスを含めた三人で競わすつもりだった。だが、予想に反してクリスは早々に脱落した。よって、リディアはその代わりと言うことだ」
「ですがっ!」
「わしの決めたことだ。それに、当主になりたければおまえが実力で勝ち取ればいいだけではないか。それとも……負けると思っているのか?」
ノーと答えればリディアを次期当主候補として認めることになるが、イエスと言えば次期当主の資格なしと判断される。ロイド兄上に反論の余地は残されていなかった。
その言葉を予想していた俺も頷く。
「納得できたようだな。リディアにはクリスに任せる予定だった町を統治させる。わしは席を外すゆえ、後は当主候補同士で交流を深めるがよい」
父上はそう言って席を立つと、使用人達を引き連れて退出していった。
「おい、おまえ! リディアとか言ったな?」
「ええ、わたくしはリディアですわ」
「いますぐ、父上に当主候補の座を手放すと言え! 俺はアレンを潰す計画を練るのに忙しくて、おまえのような女に構っている暇はないからな!」
酷い言い様である。
というか、もう俺にちょっかい掛ける準備をしてるのかよ。怯えていたくせに……いや、直接攻撃する危険性を理解したからこそ、急いで搦め手に移ろうとしているのか。
直接危害を加える手は封じたとはいえ、あのまま終わるとも思ってない。政治的に謀略を仕掛けてくることは予想通りだが、ここまで早く動くのは予想外だ。
……そういう意味では、リディアが緩衝材になってくれれば嬉しいな。どういった人間か見極めて、可能なら味方に引き入れることも視野に入れよう。
「申し訳ありませんが。辞退は出来ませんわ」
「何故だ!」
「だって、ヴィクター……いえ、お父様の決定ですもの。それに異論を唱えるなんて私には無理ですわ。どうしてもとおっしゃるのなら、ロイドお兄様が直訴してください」
「――くっ」
リディアのセリフは控えめだが、言っていることはどこまでも正論だ。反論を封じられたロイド兄上はギリッと奥歯を噛んでその身を震わせる。
「良いだろう。ならば、アレンの前におまえを叩き潰してやる!」
そう宣言すると、ロイド兄上は会議室から退出し、ウォルトが会釈をしてその後に続く。残されたのは俺とレナード、それにリディアの三人だけになる。
「あなたがアレンお兄様ですわね」
「ああ、そうだ。よろしくな、リディア」
俺の言葉に、リディアは微笑みを返してきた。けれど言葉は返してこない。俺の中でリディアに対しての違和感が少しずつ大きくなってくる。
「一つ質問しても良いか?」
「ええ、わたくしに答えられることなら」
「……ホールに飾ってある絵画を見たか?」
「あぁ、あの素晴らしい絵画ですわね」
リディアは悠然と微笑んだ。
「……いや、なんでもない」
自分から質問をしておきながら、あっさりと話を打ち切る。にもかかわらず、リディアは「そうですか」とだけ言って立ち上がった。
「それでは、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
スカートの裾を摘まんで頭を下げると、優雅な足取りで退出していった。会議室に残されたのは俺とレナードの二人だけになる。
「レナード、あの少女のことを急いで調べてくれないか?」
「味方に引き入れるつもりなのか?」
「敵に回そうとは思わないが……いや、とにかく調べてくれ」
結論を出すのは情報が出そろってからだと、俺はレナードに調査を頼んだ。
新しい当主候補が現れてもやることに変わりはない。ジェニスの町へ戻った俺は引き続き町の発展のために働いた。
そして数週間経ったある日も、俺はフィオナ嬢とクリス姉さん、それに町の代表であるカエデを会議室に集め、様々な計画の進捗について話し合っていた。
この町に来てからもう一年以上経つ。
新しい輪作はようやく一年目で、効果を実感するまでにはあと四年程度は掛かる。だがシャンプーとリンスの工房は完成し、量産体制が整うところまで漕ぎ着けた。
「そろそろ次の段階へと移る時期だと思うんだが……リディアの動向が分からない限りは迂闊に動けないな。どうしたものか……」
レナードに調査に行かせてから数週間。そろそろ戻ってきても良い頃なのだが、レナードがいまだに調査から帰ってこない。
「リディアって言うと、あたしの代わりに選ばれた当主候補なのよね?」
クリス姉さんがゆるふわなプラチナブロンドを揺らして小首を傾けた。
「そうだな。父上は、そう言っていた」
「なんだか含みのある言い方ね。なにか気になることでもあるの?」
「気になる、といえば気になるな」
「――アレン様?」
婚約者であるフィオナ嬢がなぜか咎めるような視線を向けてくる。いつもの砕けた口調じゃないのは、クリス姉さんやカエデが側にいるからだろう。
青みがかった黒髪に紫色の瞳。黙っていればリディアと同じく深窓の令嬢といって差し支えのない容姿をしているが、その内面は自由奔放な前世の妹である。
どうしたんだろうと首を傾げていると、クリス姉さんが助け船を出してくれた。
「アレン? 当主ともなれば複数の女性を囲うのは普通だけど、婚約者を前に別の女性が気になるなんて言うのは、さすがに感心しないわよ?」
「あぁ……違う違う、そういう意味じゃない。……うぅん、どう説明したら分かってくれるかな。見た目は深窓の令嬢って雰囲気なんだけど……なんかおかしいんだよ」
「……ギャップがあるってことですか?」
俺がギャップ萌えなことを知っているフィオナ嬢が半眼で尋ねてくる。
「たしかにギャップだが、そうじゃなくて……リディアは貧乳だ」
「なるほど、政治的な意味合いでしたか」
「……くっ。納得されて喜ばしいはずなのに、何故か俺が納得できない」
たしかに豊かな胸は好きだが、別に貧乳が嫌いなわけじゃない。いままで惚れた女性の中にも、貧乳だった女性は何人か……とにかく話を戻そう。
「ぱっと見た感じは儚げで大人しそうなんだ。なのに、ロイド兄上に詰め寄られても、その雰囲気を一度たりとも崩さなかった。そのうえで、ロイド兄上を言い負かしたんだ」
「たまたまじゃないの?」
「父上がわざわざ当主候補として連れてきた相手だぞ?」
「……あぁ、そうよね」
クリス姉さんにも俺の抱いた違和感が伝わったようだ。
大人しいだけの少女なら、父上がわざわざ養女にするはずがない。だとしたら、ロイド兄上を退けたのは偶然とは考えにくい。
それに――と、俺は屋敷で見た絵画の話をする。その絵の内容を聞いたフィオナ嬢とカエデが揃って風刺画という感想を口にした。
「……風刺画? あぁ、そっか。豊かな穂が一面に描かれた――だけの農場なのね?」
「なるほど、そこに人が描かれていない訳か」
クリス姉さんも続いて思い至ったようだ。フィオナ嬢達には後れを取ったが、もし絵を見ていれば、この二人も即座に気付いただろう。
穂が垂れ下がっている収穫の時期にも関わらず、働いている人々が描かれていなかった。貴族にとって重要なのは人々ではなく、彼らが引き起こした結果だけという風刺。
もっとも、領主としては一人一人に目を向けては居られないのもまた事実だ。
個々に目を向けるのではなく、彼ら全体が引き起こした結果だけを描くあの絵が、必ずしも風刺画とは言えない。どう思うかは、絵を見た者次第というわけだ。
「その絵を見て、リディアは素晴らしい絵画だと答えた。それ自体は問題じゃない。結果的に領地を豊かにするために奮闘する貴族は多く居る。だけど……」
あのときのリディアは全てを見透かしていたようにすら思える。
絵画に人々が描かれていないこと理解した上で、迷いなく素晴らしい絵画だと答えたのなら、一癖も二癖もあることになる。
出来れば敵対はしたくないが――
「取り敢えず、見かけ通りの少女ではなくて、最低でもロイド兄様に対抗できる程度の実力があって、もしかしたら敵になるかも知れないってことかしら?」
クリス姉さんの問い掛けに、俺は分からないと答えた。
「油断はならないが、まだ敵と決まったわけじゃない。それに、ロイド兄上の敵意はいま彼女に向いている」
敵の敵は味方。最終的に当主の座を懸けて争うことになったとしても、ひとまず手を組むだけの利点は互いにあるはずだ。
そんな結論に至ったそのとき、レナードが戻ってきたとの知らせが入った。さっそく報告を受けるためにレナードを会議室へと招き入れる。
「アレン、さっそくおまえの馬鹿兄――ロイド様がリディア嬢に喧嘩をふっかけた」
「……っ。相変わらず手が早い」
だが俺の予想通りなら、リディアがあっさりと敗北したなんて結果にはなっていないはずだ。彼女にロイド兄上に対抗できるだけの実力があるのなら手を貸して恩を売る。
その判断材料を寄越せと、レナードに報告の続きを促したのだが――
「ロイド様がリディア嬢のペットになった」
「一体なにがあった!?」
報告はまるで意味が分からなかった。
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