閑話 アオイの決断 前編
「アオイ、お誕生日おめでとう」
「おめでとう、アオイ。おまえもついに十二歳だな」
「お母さん、お父さん。ありがとうっ!」
いつもより豪華な食事で、大好きな両親にお祝いしてもらったアオイは無邪気に笑う。
父親と一緒に畑仕事をしたり、母親と一緒にお料理をしたり、将来の役に立つようにって文字を教えてもらったりと、アオイは大切に大切に育てられた。
だからアオイは両親のことが大好きで、そんな両親と過ごす日々は幸せだった。そんな日々が、これからもずっと当たり前のように続くのだと思っていた。
だけど――
ある日の夜更け。
アオイはどこかから聞こえてくる声に起こされた。寝ぼけ眼を擦りながら起き上がって部屋を出ると、リビングの方から両親の声が聞こえてくる。
「すまない、俺がもう少し作物を上手く育てていれば……」
「なにを言うの、雨が降らなかったのはあなたのせいじゃないわ」
声の感じからして、喧嘩をしているわけではないようだ。
だけど、その声は夜だから抑えていると言うだけでなく、どこか沈んで聞こえる。アオイは不安になって、リビングへ顔を覗かせた。
「大丈夫、私が森へ行って薬草を採ってくるわ。いまなら薬草が高くなっているから、それを売れば必要な分の食料を買うことが出来るはずよ」
「馬鹿を言うな。薬草が高いのは、森で魔物が目撃されるようになったからじゃないか」
「そうね。でも、被害は月に数件程度じゃない。大丈夫、きっと無事に帰ってこられるわ」
「……いや、ダメだ。おまえが行くくらいなら俺が行く」
「なにを言っているの。あなたには畑仕事以外にもやることはあるでしょ? それに、もしあなたになにかあったら、アオイはどうするの」
母親がアオイに気付いてその言葉を飲み込んだ。
「お父さん、お母さん、どうかしたの?」
「……大丈夫、どうもしないわ」
近付いてきた母親にぎゅっと抱きしめられる。
「……お母さん?」
「心配しなくても大丈夫よ。ねぇ……あなた?」
「ああ、もちろんだ。アオイが心配することはなにもない」
「……そっかぁ。良かったぁ」
アオイがもう少し大人なら――あるいは寝ぼけていなければ、二人がなにを話していたのか予測できたかもしれない。だけど出来なくて……アオイは母親の腕の中で眠りに落ちた。
このときのことを、アオイはずっと忘れない。
――翌日の夕方。
留守番をしていたアオイの元に戻ってきた母親が膝からくずおれた。
「……え? お母さん、どうしたの?」
慌ててその身体を抱き留めた。
背中に回した手がヌルリとしたことに気付いて、なんだろうと手のひらを見たアオイは息を呑む。小さな手が真っ赤に染まっていた。
「おかあ、さん? 怪我をしたの? お母さん!?」
「アオイ、ごめん、なさい……」
母親がアオイに向かって倒れかかる。身体が小さなアオイは支えきれなくて下敷きになり、母親の下でパニックになった。
「お母さん! どうしたの、お母さん、しっかりしてよ!」
「アオイ? なにを騒いでいるんだ?」
「――お父さん、お母さんが怪我をしたみたいなの、助けて!」
玄関から聞こえてきた父親の声に、アオイは必死に縋った。部屋に駆け込んできた父親が、アオイに覆い被さっていた母親を抱き起こした。
「あ、あぁ……なんて、なんてことだ」
「お父さん、しっかりして! 早くお母さんの手当てをしないと! 私(・)、お湯を沸かしてくるからお母さんをお願い!」
アオイは台所へ飛んで行き、魔導具を使って火を熾した。それからお鍋に水を張って、急いでお湯を沸かすために薪をたくさんくべる。
沸騰したお湯をもって両親の元へ戻るが――父親は治療をしていなかった。どうしてという疑問は、父親の悲痛な表情から連想させられる不吉に塗りつぶされた。
「……おとう、さん?」
「アオイ、ちょうど良いところへ来た。お母さんが話したいそうだ」
「なに、言ってるの? それより、手当はどうしたの?」
子供だからって分からなかったわけじゃない。感受性の強い子供だからこそ、アオイはハッキリとその意味を読み取った。だけど、だからこそ、分かりたくないと首を振る。
「アオイ。残念だが……お母さんは、もう……助からない」
「嘘、そんなことないよ! 助かるっ、まだ助かるもん!」
「アオイ、聞きなさい!」
「やだ、聞きたくないよ! どうしてそんなことを言うの!?」
首を振ってだだをこねる。
父親がそんなアオイの両肩を掴んだ。
「――アオイ。おまえの気持ちは痛いほど分かる。だが、お母さんは最後の力を振り絞って伝えたいことがあると言っているんだ。おまえは、それを聞かなくて良いのか?」
アオイはボロボロと涙を流した。
アオイは母親が助からないという事実を受け止められるほど強くはなかったが、母親の最期の言葉から逃げるほどに弱くはなかった。
だから、心をズタズタに引き裂かれながらも涙を拭って、母親の元へと駆け寄った。
「お母さん、私(・)だよ」
「あぁ……アオイ、アオイはどこにいるの?」
「いるよ、ここにいるよ。私(・)――アオイはここにいるよ、お母さん!」
母親の視線は、アオイから少しズレていた。それどころか、瞳の焦点が合っていない。その理由を考えないようにして、母親の手をぎゅっと握り締める。
その瞬間、母親の表情がわずかに和らいだ。
「あぁ……アオイ、そこにいるの?」
「うん、いるよ。アオイはここにいるよ!」
「アオ、イ……ごめん、ね。ずっと、ず……っと、側にいて、あげたかった、けど……お母さん、もう……ダメ、みたい……」
「お母さん……やだよ、そんなこと言わないでよ、おかぁさん……」
母親の手をぎゅっと握り締めるけれど、その反応はほとんど返ってこない。
「……アオイ、大丈夫? 私がいなくても、ちゃんと……起きられる? ……無邪気に、知らない人に、ついていっちゃ……ダメよ?」
「うん、分かってる。大丈夫だよ。大丈夫、だから……」
「……あぁ、側にいてあげられなくて、ごめんね。私が、いなくて、も……お父さんと、二人で……ちゃんと……」
「うん。大丈夫、だよ。大丈夫だから」
「アオイ、幸せに……なって……」
アオイの握っていた手から、握り返す感覚がなくなっていく。
「大丈夫だよ、お母さん。アオイは幸せになるし、お父さんと一緒にがんばるよ。だから、だから心配しないで。大丈夫、大丈夫だから。安心して、ゆっくり、眠って……」
母親に安心して欲しくて、必死に言葉を紡ぐ。その想いが届いたのかどうかは分からない。もしかしたら、アオイの声はもう聞こえていないのかもしれない。
だけど、それでも――彼女の死に顔は安らかだった。
「お母さん、大丈夫……大丈夫だからね。アオイは大丈夫。お父さんと一緒に、がんばって幸せに、なる、から……だから、大丈夫。アオイは、大丈夫だから……」
それでも、何度も何度も大丈夫だと繰り返す。必死に涙を堪えて、小さな手をぷるぷると震わせて、大丈夫、アオイは大丈夫だと繰り返す。
アオイは、背後から父親にぎゅっと抱きしめられた。
「――もう、良いんだ」
「……おとう、さん?」
びくりと震えて、アオイは現実に引き戻された。だけどその現実に母親はいない。それを思い出して泣きそうになって、また必死になって涙を堪える。
「良いんだよ、アオイ。もう、そんな風に無理をしなくて良いんだ」
「……もう、良いの? お母さんは大丈夫? アオイが泣いても、お母さんは心配しない?」
「ああ。 お母さんは安心して逝った。だから、もう大丈夫だ」
「……そっか。アオイ、アオイね。本当は、お母さんに逝かないでって言いたかったの」
「そうか……」
「でも、でもね。そうしたらきっと、お母さんは困っちゃう。アオイのこと心配しちゃう。でも、アオイはお母さんを困らせたくなくて、だから、アオイ……アオイは――っ」
「そう、か。よく頑張ったな。だが、もう大丈夫だ、無理はしなくて良い」
「……うっ、ううっ。お母さん。おかあさぁんっ! やだよ! どうして、アオイをおいて逝っちゃうのっ! やだっ、お母さん、おかあ……さん。うああああぁあっ!」
「アオイ……大丈夫だ。俺がいる。お母さんの分まで、おまえを護ってやる。だから……だから、泣くなっ。アオイ、泣くなっ」
背後から聞こえる嗚咽交じりの声を聞きながら、アオイは声をあげて泣きじゃくった。
それから、父親と二人っきりの生活が始まった。
朝早く起き出して、父親と一緒に畑仕事に行く。力仕事なんかで手伝えないときは、お母さんの代わりに内職をして、お母さんの代わりに料理を作った。
だけど――
「アオイ、よく聞いてくれ。俺は森に狩りへ行くつもりだ」
母親を失った悲しみから抜け出せぬまま、父親からそんな言葉を聞かされた。あの日の母親の言葉と重なって、胸がどうしようもなくざわついた。
「なにを……言ってるの? 森は、危険、なんだよ?」
「分かってる」
「森で、お母さんが、死んじゃったんだよ?」
「それも分かってる」
「……っ。じゃあ、どうして? どうしてそんな危ないことをするの!?」
「そうしなければ冬を越せないからだ」
告げられた言葉に反論の余地はなく、アオイは泣きそうになって唇を噛んだ。
「お父さんにまでなにかあったらどうするの?」
「……おまえ一人なら、この冬を越すことだけは出来るだろう」
「そんなことを聞いてるんじゃないよ!」
アオイは声を荒らげて――後悔した。父親が酷く悲しそうな顔をしたからだ。
「……すまない」
「うぅん、アオイの方こそごめんなさい。でも……どうして冬を越せないの? その……二人で分けても、ご飯が足りないの?」
「……すまない」
――最近になって広げられたイヌミミ族の畑は町の離れたところにある。ウィスタリア伯爵の庇護下に入ったその日から、イヌミミ族が中心の町ではなくなったからだ。
そして、町から離れた畑の周辺には井戸が少ない。とくに新参者であるアオイの家族に与えられた畑は町から一番遠い場所にある。
つまり、アオイの家の畑は凶作だった。
だが、それでも、本当ならアオイと父親、二人だけならなんとか冬を越せただろう。それが不可能になったのは――亡くなった母親を埋葬したからだ。
田舎町とはいえ、埋葬にはいくばくかの金銭が必要になる。そのわずかな金銭が、ギリギリだった生活から致命的な状況へと変えた。
もし、彼女の亡骸を打ち棄てていれば、飢えながらも二人で冬を越せたかもしれない。だが、アオイの父親はそうしなかった。
アオイよりも妻を選んだから――ではない。
事実を話せば、アオイは必ず悲しむ。そうして、自分はどうなっても良いから、お母さんを手厚く葬ってあげて欲しいと言うだろう。
アオイの願いによって、父親が森に入ることになる。そこで父親が死ねば、アオイは絶対に立ち直れない。そう思ったから、彼はなにも言わずに妻を手厚く葬ることを選んだのだ。
その事実は、子供であるアオイには分からない。ただ、このままでは父親までも失うかもしれないと恐怖する。
「森に行く以外に方法はない? そうだ、アオイ、なにかお仕事をするよ!」
「気持ちは嬉しいが、おまえにはまだ無理だ」
「そんなことないよ! そうだ、お手伝いが欲しいって金物屋のおじちゃんが言ったよ!」
「……金物屋がどんな仕事をするか知ってるのか?」
「それは、知らない……けど、アオイ、がんばって覚えるよ!」
「アオイ……」
いまのアオイの家に、娘に勉強をさせる余力はない。そして金物屋には、アオイのような子供に仕事を教えつつ給金を払う義理はない。
いや、義理や人情があったとしても、近所の者達にその余力はないだろう。
「なんとか、なんとかするから! だから、森には行かないで! ねぇお父さん! 二人で一緒に支え合って生きていくって約束したじゃない!」
「……アオイ。分かった。……三日だ。三日だけ待つ」
畑仕事がそれほど忙しくない時期に狩りが出来なければ、どんなにがんばってもどうにもならなくなる。だから、アオイが諦めるまでの期間として三日の猶予を作る。
「――分かった。三日だね。三日でなんとかしてみせるよ」
アオイは大好きな父親を護るため、母親との約束を守るために立ち上がった。
――だけど、金物屋のおじさんは、申し訳なさそうな顔をしながら無理だと首を振った。まだ十二歳のアオイを雇ってくれるところなんてどこにもなかった。
そして、あっという間に二日目になった。
「……どうしよう。このままじゃ、お父さんが森に行っちゃう」
森に行く者はそれほど多くない。にもかかわらず、月に何人かが被害に遭っている。決して非現実的な確率でないのはたしかだが、森に入ったからといって必ず死ぬわけじゃない。
同じような経済状況で、森に入って薬草を採取したり狩りをしている家はある。
だが、アオイの母親はたった一度で魔物に襲われて死んでしまった。だから、アオイは父親もそうなってしまうと過剰に怯えている。
どうすれば良いか必死に考えたアオイは、野原に咲く一輪の花を見つけた。
「そう、だ……お花。お花を売れば、なんとかなるかも」
もちろん、野原に咲く花じゃない。アオイという無垢なる花を売り、生きるための糧を得るという結論に至ったのだ。
だから――
アオイは摘み取った野草の花を籠に入れ、町の中央にある商業区へと向かった。
商業区は三つの区画――イヌミミ族、人間、その他の種族が暮らす区画と重なった場所にある。アオイはそんな商業区の中でも比較的真ん中にまで足を運んだ。
そして――
「……お花。……お花は、い、りません……か?」
アオイは消え入りそうな声で呟いた。
そんな小声が道行く人々に聞こえるはずもなく、ほとんどの人は足を止めることもない。たとえ止めたとしても、籠に詰められた花を見て立ち去っていく。
そうして何時間と過ぎたころ、一人のおじさんがアオイのもとへと歩み寄って来た。
「お嬢ちゃんは花を売っているのかい?」
「……え? あ、は、はい。お花……買ってくれますか?」
「それは籠の中の花のことかい? それとも――別の花も売っているのかい?」
「え、あ、その……」
ここで頷けばいい。あとは歯を食いしばって耐えていれば、きっと全てが上手くいく。お父さんは死ななくて、二人で一緒にいきられる未来が待っている。
そんな風に勇気づけるけれど、アオイの身体は動かない。
「お嬢ちゃん? もしお金に困ってるのなら、おじさんがお花を買ってあげるよ」
おじさんの大きな手が、アオイの腕に触れた。その瞬間、硬直から抜け出したアオイは全力でその場から逃げ出した。
走って、走って、必死に走って裏路地へ逃げ込んで、アオイは胸をぎゅっと押さえた。
「ダメ、なのに。逃げちゃ、ダメだったのにっ! このままじゃ、お父さんが死んじゃうのに! どうして、こんなことに! うぅ……無理、だよ。こんなの……アオイにはっ。う、うううぅ。お母さん、お母さぁん。助けて、助けてよぉ……っ」
座り込んだアオイの嗚咽が路地裏に切なく響いた。
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