第8話 星に願いを。-08

 ――――ッ。


 その後の光景は、今でも鮮明に覚えている。遠藤のけたたましい笑い声。振り下ろされる鉄槌。大きく見開かれた立花さんの瞳。咄嗟に構えたスクールバッグ。鉄同士がぶつかるような激しい音。受け流されるハンマー。あれ、と呟く遠藤の横顔。くの字に折れ曲がる遠藤の身体。その腹にめり込む、白く美しい足。うげ、と短い悲鳴。弾け飛ぶ遠藤。人間が壁に衝突する音。開いた玄関から吹き込む風。揺れるスカート。夕陽を背負って立つ、立花さんの顔。ああ。僕はその全てに、目を奪われていた。


「大丈夫ですか」

 はっと気が付いたとき、立花さんが僕に手を差し伸べていた。何故か僕は、いつの間にか床に寝転がっていた。

「あ、えっと……大丈夫で……」

 言うや否や、全身に激痛が走った。どうやらさっき階段で転んだのを、脳が今になって理解したらしい。情けなく立ち上がれずにいる僕を、立花さんが助け起こしてくれた。お恥ずかしい限りである。

「来る途中で警察に連絡しました。もう到着するかと思います」

「あ、ありがとう……」

「いえ。……その方についてちょっと調べていたら遅くなってしまいました。すみません」

 立花さんはそう言って、ぐったりと床に伏せている遠藤樹梨を一瞥した。彼女の心当たりとは、やはり遠藤のことだったようだ。それならそうと早く言ってくれればよかったのに。

「三里先生に聞いたところ、きさらぎ高校には一年生はおろか他の学年にも、遠藤樹梨という人物は在籍していないとのことでした。彼女は何処かで我が校の制服を調達し、あなたの恋人に成り済ましたようです」

 制服だけじゃない。髪型。声。表情。雰囲気。性格。遠藤樹梨という人間は、何もかもを偽り、短期間でまったくの別人を作り上げた。簡単に言っているが、それは並大抵のことじゃないだろう。全ては僕に出会うため。運命の相手と、一緒になるため。その一点のみが、彼女を突き動かす原動力だった。


「最初に気付くべきでした。彼女の行動には、不審な点があまりにも多過ぎた。でも、あの時の私は鯨井さんを説得することにしか意識が向いていなかった……情けないです」

「いやいや! あの時はまだ何も話してなかったし、それで遠藤さんの動きに注目しろだなんて無茶ですよ。だから立花さんが謝る必要は」

「いえ、私がもっと注意をしていれば、鯨井さんが傷付くことはありませんでした。そんな怪我を負うこともありませんでした。反省しています。本当にすみませんでした」

 僕の言うことなんて全く聞かず、立花さんは深々と頭を下げた。否、そんなことよりも、もっと重要なことがあるだろう。僕は意を決して彼女に尋ねた。


「立花さん……さっきのは」

「さっきの、とは?」

「さっき……あいつがハンマーを振り下ろしたとき、立花さんの鞄から金属音的な音がしたと思うんですけど」普通なら、そんな音がスクールバッグから出るはずがない。普通なら。

「あぁ、この鞄には鉄板が仕込んであるので」

「何で!?」

「防犯対策にと父が」過保護!

 持たせたもらうと、想像以上に重くて、少し持ち上げるのが精一杯だった。この人はこれを毎日平気な顔して持ち歩いているのか。何か間違っている気がするのは僕だけか。

「じゃあさっきの蹴りは?」人一人をふっ飛ばすほどの強烈な蹴撃。あれは完全に素人の動きじゃない。

「防犯対策にと幼少の頃からキックボクシングなどの武道を習っていて、それを自己流にアレンジしたものです」

「な、成程……」父親の娘を守るベクトルがちょっとだけズレているような気がしないでもないが、まあいいだろう。どうりで引き締まった脚をしているわけだ。

「ちなみにこのローファーには防犯対策として砂が仕込んであります」

「お父さん何考えてんの!?」

「昨今、犯罪のラインを軽く越えてくる異常者がどんどん増えているのだから、それぐらいやって当然だと」お、お父さん……。

「じゃあ……その脚の包帯は」

「これは、やむを得なく相手を蹴ったとき、ソックスだと汚れてしまうので。これだと汚れてもすぐ巻き直せますし」

「く、黒とか紺の靴下じゃ駄目なんですか……」

「きさらぎ高校は原則、白無地のソックスが決まりですから」頭がくらくらする。ツッコミどころが多すぎる。この子は、立花夕子とはいったい何なんだ。


 は。そういえば、舞初さんが言っていたカツアゲの話。あれ、結末をまだ聞いていなかった。舞初さんからお金を奪った上級生は、結局どうなったんだろう。……そんなこと、すぐそこで気絶している遠藤を見れば、一目瞭然だった。超、単、純、物理的解決。舞初さんはこのことを知っていたのだろうか。もしそうなら、先に教えといてもらいたかった。いや、こんな話、されても信じることなんてできない。だって今まさにそれを目にしたばかりの僕でさえ、まだ自分の目を疑っているのだから。


 未だ現状を上手く消化できずにいる僕の横で、立花さんが小さく息をついた。

「先程……私は異常者、と言いましたが、その言葉はあまり好きではありません。どんな罪を犯す人でも、それなりの理由があると、私は思っています。異常なんかじゃない。みんな何かを思って何かをする。だからちゃんと話し合えば、きっと自分の間違いに気付いてくれるはずです」

「さっきは話し合う前に蹴ってましたが」

「……暴力的かつ危険思想な方に対する例外的な処置です。人を蹴るのはあまり好きではありませんが、それで相手の頭が冷え、話し合いの場が持てるのなら私は蹴ります」

暴力的かつ危険思想はどっちなんだろう。という言葉を、僕はごくりと飲み込んだ。


「さあ、諸々の話は後にしましょう。もうすぐ警察が来ます。事情はその時に話して下さい。それに鯨井さんの手当てもしないと」

「あー大丈夫ですよこれくらい」

「いけません。小さな怪我でも放っておいたら後で重大な健康被害を及ぼす原因になるかもしれませんから。ところで鯨井さん、遠藤さんを移動させましたか」

「へ、してませんけど」

 僕は目を瞬かせた。振り返ると、遠藤樹梨がいなかった。緩んでいた気持ちが一気に強張った。いつの間に起きた? 逃げたのか。いや、でも、そんな……。僕は慌てて辺りを見渡した。


「さ、く、と、ゎ」


 その声は、立花さんの背後から響き渡った。

「……あだじのよめええええええええええええええぇぇッ!」

 おぞましい絶叫と共に、巨大なハンマーが再び立花さんに襲い掛かっ「へぐっ」

 あぁ。

 僕は、あんなに自分を苦しめていた犯人に、遠藤樹梨に、心から同情していた。

無茶苦茶すぎる。イレギュラーすぎる。意味がわからなすぎる。

 それでも、遠藤樹梨の身体に回し蹴りを叩きこむ委員長の姿は凛としていて、とてきれいだった。

「相手のことを考えていないあなたの行動は愛ではなく、ただの我儘です」

 壁に激突し、床に落ちてゆく遠藤樹梨に、立花さんははっきりと言い放った。

「それに」

 開きっぱなしの玄関から吹き込んだ風が、彼女のスカートを揺らした。



「不純異性交遊は不良の始まりです。反省してください」

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