第7話 星に願いを。-07

 あ、あ、あ、あああああああああああああああ。

 ずり。足元で音がする。ずり。何かが、這い出してくるような、音。逃げなきゃ。今すぐ立ち上がって部屋を出て、そのまま玄関まで走れ。動け。動け動け動け。ずり。あああああああああああ。嫌だ。嫌だ嫌だ。嫌だ。来る。あいつが、あの女が。


「ふ……うふ、うふうふふうふうふ」


 ずりっ。


「み、つかっ、ちゃ、ったあぁぁぁ」


 ずるん。


 出てきたのは、あの日見た女。白いロリータ服の女。遠藤樹梨。ハンマー女。わかるわけがない。わかるわけがない。雰囲気も顔も声も何もかもが、僕の知っている遠藤樹梨とかけ離れている。いや、あれが、あの明るい遠藤樹梨こそが、演技だったとでもいうのか。人は、それ程までに自分を偽ることができるのか。


「さくと」女が立ち上がって、僕の名を呼んだ。

「ずっといっしょにいようね」

「ほら」

「もらって、きたよ」

 濁った目で女が差しだしてきたものは、一枚の紙切れ。駄目だ。理解しちゃいけない。逃げろ。だってあれは、冗談だったんだろう?

「うれしい、けっこんしてくれるなんて。うれしい」

 女の持つ紙切れには、【妻になる人】の欄に【えんどうじゅり】、【夫になる人】の欄に【くじらいさくと】と汚い字で書かれていた。眩暈がする。何でこんなことになっているんだろう。いっそこのまま気絶してしまったら、どんなに幸せな事だろう。これが夢なら、早く目を覚ませ。頼むよ。ねえ。


「じゅり、うれしかったの。あのほしのよる、おまじないをしてたらね、あなたがきたの」

 ――おまじない?

「うんめいのひとにあえますよおに、って。そしたらあなたがきたの」

 あれが。丑の刻参りに似たあの行為が、ただのおまじないだったというのか。嘘つけ。よく見ると女が来ているのは白いロリータ服じゃない。薄汚れた、ウエディングドレス。頭が割れそうだ。出会いの呪い。そこにたまたま居合わせた僕が、運命の人だと。冗談じゃない。虫唾が走る。

「あなたと、みつめあって、そしたら、わかったの。あなたのきもち。すきだって、そういってくれた。うれしかった。じゅりもすきよ、だいすき」

 黄ばんだドレスを身に纏った女は、ゆらゆら揺れながら笑う。いつか見た、吐き気のする笑顔。こんなに人を嫌悪したのは初めてだ。


「……ざけんな」ようやく声が出た。蚊の鳴くような声だった。

「なあになあに」

「ふ、ふざけんな、気持ち悪い……な、なにが、運命の人だ……お前なんか……僕は知らない」

「なんでそういうこというのなんでそういうこというの」

「出て行け! さっさとここから……」

「ねえ、ねえねえねえ、なんでそういうこというの。なんでそういうこというの。わかった。あのメスブタたちが、よけいなこといったんでしょう。かわいそうなさくと。かわいそう」

 そう言いながら女は、ベッドの下から何かを引っ張り出した。あれは。

「だいじょうぶよ。じゅりがたすけてあげる。ちょっといたいけどがまんしてね。だいじょうぶ。すぐにおほしさまが、なおしてくれる」


 女は、遠藤樹梨は、そう言って大きなハンマーを振り上げた。


 目を開けると、顔の数センチ先にハンマーの頭があった。

「あれ。だれだろお。こわいね。じゃましようとしてる。じゅりとさくとの、じゃましようとしてる。あいつか。あいつだ。あいつあいつあいつあいつ」

 何だ。女は頭を掻き毟りながら、きょろきょろと辺りを見回している。どうしたんだ。

「まっててね。さくと、まっててててててて」

 そう言ったかと思うと、女はハンマーを引きずり部屋を出て行った。


 瞬間、思い出したように吐き気を催して、その場に嘔吐した。吐いても吐いても嫌悪感が消え去ることはなかった。なんだよ。何なんだよあいつは。

『――くん、鯨井君! 鯨井君!』

 聞き覚えのある声に、ようやく我に返る。ああ、夢じゃない。視界に入った携帯をとる。

「……舞初さん」

『鯨井君! ああよかった、無事? 何があったの、変な声が』

「えっと、説明は後でいいかな……」

 僕は女の気配に注意して、逃げる準備を整える。奴が何故出て行ったのかはわからないが、今のうちだ。ここは二階だから、窓から飛び降りてもたぶん大丈夫。多少怪我はするかもしれないが、死にはしない。とにかくここから脱出しよう。それから警察に……。

「ごめん、いったん切るね。また後で」

『あ、待って。さっき、ちょうど夕子ちゃんに会ってね、鯨井君の様子がおかしいって言ったらすごい勢いで走って行ったから……もうすぐそっちに着く頃だと思うんだ』

「は」

ピンポーン。一階から、チャイムの音が聞こえた。おいおい。そんな。まじでか。僕は窓を開けようとする手を止めた。嘘、だろう。

 僕は、電気が弾けたように部屋を駆け出した。


 走る。走る走る走る。階段を降りようとして滑り、そのまま転げ落ちる。一階廊下の壁に身体が激突。停止。考える間もなく立ち上がる。走れ。

「鯨井さん、居ますか。立花です」

 玄関の方から声がした。まずい。嫌な想像が、僕の頭を支配している。

「はーい。いま開けまあーっす!」遠藤の声。さっきとは別人のような、明るい声。

 走る。やめろ。立花さんは関係ないじゃないか。走る。やめろ。やめろやめろやめろ!

 がちゃり。ドアの開く音。背中が粟立つ。立花さん、

「逃げろおおおおおッ!」

 玄関に辿り着き、叫んだときには、もう立花さんに向けてハンマーが振り下ろされていた。

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