第6話 星に願いを。-06

 自分の部屋へと戻り、ベッドに腰を下ろす。持ってきたコーヒーを一口飲むと、肩の力が一気に抜けた。つ、疲れた……。


 いまだかつて、こんなに体力を消耗する会話があっただろうか。でも、嫌な疲労ではなかった。長距離走を走りきった後のような、そんな心地よさがある。状況はあまり変わってないけれど、気持ちが前を向き始めているのがわかる。頭の中で、ハンマー女の影が薄れていく。もう少ししたら、試しに外に出てみようか。その足で学校まで行ってみようか。彼女、立花夕子と話す前の僕なら考えもしなかったことが、じんわりと胸に芽生え始めている。今夜はよく眠れそうだ。きっと舞初さんは、この感覚を僕に教えたかったんだ。彼女や心配してくれた(はずの)遠藤さんにもお礼を言わないと。


 僕はポケットから携帯を取出し電源を入れると、電話帳を開いた。帰り際に交換した、舞初さんの番号。誰かに電話を掛けるなんて久しぶりだ。ちょっと緊張する。僕はすっと息を吸って通話ボタンを押した。三回のコール音の後、繋がった。


『もしもし』

「あ、鯨井だけど……」

『あっ、どうだった? 心配してたんだよ、ちゃんと話せたかなって』

「大丈夫。話したらちょっと元気になったよ」

『ほんと? よかったあ』なんだこの女。天使か。

「色々ありがとう。オムライスとか」

『いえいえ。夕子ちゃんは?』

「もう帰ったよ」

『そっか』

「心当たりがあるから、何かわかったらまた来ますって言ってたけど」

『心当たり? 何の』

「ああ……そのことはまた今度舞初さんにも話すよ」

『それってまた家に来いってこと?』

「え、いやそんなつもりは……」

『ふふ、冗談。でもまた遊びに行くね。今度はナポリタン作ってあげるよ』

「ケチャップ味が好きなんだね」

『嫌い?』

「嫌いじゃないけど」

『何それー』

「はは。楽しみにしとくよ」

『あ……でもそんなことしたら遠藤さんに悪いね』

「へ、何で」

『何でって……』

「そうだ、彼女にもお礼言っといてよ」

『私が言うの?』

「まあ自分で言うべきなんだけどさ、連絡先知らないし」

『え、どうして』

「どうしてって、三人が来た日は聞く余裕なかったから」

『いやいや』

「――? 舞初さんだって見てたじゃん」

『そうじゃなくてさ。だって遠藤さんって』

「何?」

『え?』

「え?」


 何か変だ。さっきから妙に噛み合ってない気がする。


「だって……いくら同じクラスだからって三人ともあの日がほとんど初対面だったわけだし、連絡先なんて知るわけないじゃん」

『え、え、え?』電話の向こうで、舞初さんが明らかに狼狽えている。なんだ。

「どうしたの」

『だって……遠藤さんって』

「何」





『鯨井君の……彼女じゃないの?』


 どくん。心臓が大きく跳ねた。

「え……違うけど。何それ」

『だって本人がそう言ったんだよ。自分は鯨井君の彼女だって』

「は? え? ちょっ……何、もしかして僕、遊ばれてる?」

『違うよ、ほんとに彼女そう言ってたんだよ』

「はあ?」わけがわからない。遠藤さんに会ったのはあの日が初めてだ。そんな人が何で。ふざけてるのか。それにしたって。どういうことだ。理解できない。あれ?

 混乱する僕に、舞初さんがゆっくりと呟いた。

『鯨井君……よく聞いて。あの日……三里先生から言われて、あなたの家に行ったのは……私と夕子ちゃんだけだよ』

「……えっ」声が震えた。まずい。頭の中で危険信号が光り出す。まずい。

『遠藤さんには……鯨井君の家の前で初めて会ったんだよ。そもそもC組に、遠藤なんて子いないよ』

ああ。ちょっと待って。ちょっと待って。タイム、タイムだ。だったら。だとしたら。

『家の前に知らない子が立ってるから……てっきり鯨井君の知り合いかと思って……声をかけたら、あたしは鯨井君の彼女だって……お見舞いに来たのって、そう言って』

「知らないよ、そんなの」

『変だなって思ってたんだ……妙に私たちにくっついて来るし、よく考えてみたら自己紹介だって……でもきっとふざけてるんだって思ったから』

「…………」

言葉が出てこない。やばい。冷たい血液が全身を駆け巡る。ちょっと待て。

遠藤樹梨って……誰だ。



「私、あなたを好きな気持ち誰にも負けない」

「演技上手いでしょあたし」

「ねぇ、今日は星が綺麗だね」



 ああ。


 僕の部屋には鏡がある。学校に行っていた頃は、毎朝その鏡で身だしなみチェックをしていた。中学生になったとき、母が買ってきた鏡。寝るときには魔物が出てくるから布被せときなさいなんて言われたけれど、そんなの迷信だと思ってそのままにしていた鏡。


 その鏡に、僕が映っている。ベッドに腰掛け、携帯を耳に当て、顔を真っ青にした僕が映っている。呼吸も忘れた、僕が映っている。


『ねえ、鯨井君』

 耳元で舞初さんの声がする。何を言っているのだろう。よく聞こえない。


『あの日、鯨井君が怒って、私たちが帰ることになったとき……』

 鏡の中で何かが動いた。


『私と夕子ちゃんが靴履いて帰ろうとしたらさ……遠藤さん、言ったの』

 僕の腰かけるベッド。ベッドの、下。下に。


『あたし彼が心配だから残るね、って』

 ゆっくり、ゆっくり視線を下げる。


『鯨井君』

 鏡越しに、僕でない誰かと目が合った。





『あの日、遠藤さんはちゃんと帰ったの?』

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