第5話 星に願いを。-05
舞初さんが帰った後、いつもと同じ時間に立花さんがやって来た。
「……どうぞ」
僕がドアを開けると、彼女は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに「失礼します」と言って僕に着いて来た。靴を脱ぐ彼女の脚には、やはり包帯が巻かれていた。
正座をする立花さんと対面しても、恐怖はなかった。少しの不安はあるものの、気持ちはすごく落ち着いていた。大丈夫だ。僕は彼女の目を見つめた。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………っ」
沈黙。
うおお……気まずい。散々無視しまくった後だから、余計に気まずい。どうしよう。何で全然喋らないんだこの人。もしかして、めちゃくちゃ怒ってるんじゃないか。いや、普通は怒るよ、せっかく毎日来てやってんのにシカトぶっこかれたら。そうだよ。この間だって、随分と失礼な追い出し方しちゃったし。怒ってるよ絶対。あああ、舞初さんに帰ってもらうんじゃなかった……。
「体調はどうですか」
「ぶえっ」
色んな事をぐるぐると考えていた時に言われたので、僕は下痢気味のネズミが踏み潰されたような声をあげてしまった。慌てて「大丈夫です映画のように元気です」と返した。しどろもどろだった。
「……そうですか。よかったです」
「へ」僕は目を瞬かせた。幻聴だろうか。
「ずっと心配だったんです。もしかして、中で倒れてるんじゃないかと思って」
「あの」な、なんだこれ……。
「こうしてまた顔を見ることができて、本当に良かったです」
そう言って、立花さんは少しだけ笑った。それはほんの些細な変化だったけれど、僕の脳髄を揺さぶるには十分の破壊力だった。立花さんが笑った。それは、心の無いはずのロボットが涙を流したときのような、コンクリートの割れ目から若葉が萌え出たときのような、そんな感動だった。全身に鳥肌が立っていた。
だがそんな感激も束の間、立花さんはすぐにいつもの無表情に戻ってしまった。ああもったいない。まあいつまでも笑顔だとそれはそれで怖いけれど。
「それでは鯨井さん、学校に」
「無理です」僕はきっぱりと答えた。
「何故ですか」
「…………」
大きく息を吸い込む。
「こんな話を聞いても、笑いませんか。信じてくれますか」
「内容によります」
身も蓋もない返事が来た。そりゃそうだ。
僕はもう一度深呼吸をして、おもむろに口を開いた。
話。
「――そういうわけで、僕は怖くて……外に出られないんです」
全てを話し終えた僕は、どっと息を吐き出した。主に精神面が著しく疲弊していた。
話している間、立花さんはとても静かだった。ただじっと正座をして、僕の話に耳を傾けていた。舞初さんの言った通りだ。僕としてはもうちょっとリアクションが欲しかったが、まぁそこまで贅沢は言うまい。こんな荒唐無稽な話を途中で断ち切らずに聞いてくれただけでも土下座に値する。土下座はしないけど。
少しの沈黙の後、立花さんは口を開いた。
「話はだいたいわかりました。……ですが私としては、鯨井さんはちょっと神経質すぎるような気がします。一度しか会ったことのない人に殺されるという発想は、飛躍し過ぎですし、だから家から出ないというのも、かなり短絡的かと思います。少し考えれば、他に方法はあったはずです」
「……で、ですよね」
僕はがくっと肩を落とした。冷静に言われると、自分が如何に愚かなのか思い知らされる。これなら笑われた方がまだマシだったかもしれない。この歳で同級生にマジ説教を食らうとは……恥辱の極みである。
「ただ……私はその現場を目撃したわけではありません。そこにはおそらく、あなたにしかわからないような恐怖があったのでしょう。そんな精神状態が不安定なときに無言電話などの嫌がらせを受ければ、パニックになってしまうのも無理はありません。さぞ苦しかったでしょう。知らなかったとはいえ、先日はそんな状態のあなたを突き放すような発言をしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。謝罪します」
そう言うと、立花さんは深々と頭を下げた。えええええ。僕は慌てて立ち上がった。
「ちょっ……そ、そんな気にしてませんから頭上げてください!」
立花さんはすっと頭を上げた。切り替え早い。
「警察には?」
「……一応は連絡しました。でもあまり真面目に取り合ってもらえませんでした。逆に『女に嫌がらせされたぐらいでぎゃーぎゃー騒ぐな。男なら立ち向かう勇気を持ちなさい』なんて笑われちゃいましたよ」
僕が自嘲気味に笑うと、立花さんが「それはおかしいです」と強く返してきた。
「立ち向かいたくても、怖くて立ち向かえない精神状態にあるから、第三者に助けを求めているのに……男だから女だから、そんな理由で被害にあっている人が我慢しなければならないなんて、間違っています」
「あ、ありがとうございます」思った以上に怒っていただけたようで、こちらとしては誠に光栄である。
「でも勘違いしないでください。警察はきちんと説明して助けを求めれば、ちゃんと対応してくれます。こんなことあまり言いたくないのですが……鯨井さんは運悪く、不誠実な人に当たってしまったのでしょう。警察にそのような人がいるなんて、由々しきことです」
「あの……随分と警察の肩を持つんですね」
「私の父は警察官です。私は、警察官の父を世界で一番尊敬しています」
な、成程。成程である。英語の教科書の和訳みたいな今の発言だけで、立花さんに対する色んな「何故?」が解決したような気がする。親が警察官でその人が世界一尊敬できる人なら、そりゃあこんな感じの人間が出来あがってもおかしくはない。まあ、それが脚に包帯を巻く理由にはなってないけれども。
「わかりました。私からも警察に相談してみます。多少時間はかかるかもしれませんが、この国の警察は優秀ですので、あなたを苦しめる犯人もきっと見つけてくれます」
「え……」呆然とする僕に、立花さんが首を傾げた。
「何か問題でも」
「ああ……いやその何ていうか……」
「はっきり言ってください」
「ご、ごめんなさい。まさか本当に信じてくれるとは思わなくて」
「何故ですか」
「だって、嘘かもしれないじゃないですか。学校が面倒で、引きこもりたいがために僕が捏造した話かもしれないのに。どうしてそんなにあっさり……」
僕の言葉に、彼女は「成程」と呟いた。
「確かに、そっちの可能性の方が高いですね」
気付いてなかったんかい。僕は思わずツッコみそうになった。ツッコんだら真顔で「そうですが何か」とか返されそうなので何とか踏みとどまった。
「ですが、私は鯨井さんの話を信じます」
「……何故、ですか」いつも言われる言葉で問い掛ける。立花さんはすぐに答えた。
「最初に会ったとき、あなたが悲しい顔をしていたからです」
そんな顔していただろうか。わからない。わからないけれど。
「私はそんな顔をしている人を何度も見てきました。その度に、私も悲しくなりました。私は正義のヒーローではありません。でもそんな顔をしている人がクラスにいるのなら、私はたとえどんな小さな悩み事であったとしても解決したい。救いたいと思っています。それが委員長として、私ができる唯一のことですから」
暗い暗い闇の中、どこか遠くで声がする。その声に顔を上げて歩き出すと、遥か彼方に光が見えた。久しぶりに見たそれは眩しくて、思わず目を背けたくなるけれど。僕は。
「鯨井さん、あなたが教室にいないと……私は寂しいです」
立花さんが、悲しそうな顔をした。
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