第4話 星に願いを。-04

 宣言通り、翌日も立花さんはやって来た。僕は居留守を行使した。数十分チャイムの鳴る音が続いたが、布団にくるまってやり過ごしていると帰って行った。翌日も彼女はやって来た。前日と同じように無視すると、何も言わずに帰って行った。それがさらに翌日、翌々日と続いた。さすがにちょっと怖くなってきた。その頃にはもしかして彼女、立花夕子こそがあの夜に出会った女なのではないだろうかと思い始めていた。普通、委員長だからという理由で、そう何度もクラスメイトの家に押し掛けるだろうか。足に変な包帯巻いてたし、そういえば背格好も同じくらいだし、声も似ているような気がする。ロリータ服に着替え、ロングヘアーのウィッグを被れば……。そうだ、普段の真面目そうな雰囲気から、あのおかしな女を連想するのは極めて難しい。それがあの女の作戦だとしたら。ああああ。僕は彼女を家に入れてしまったことを激しく後悔した。もしあの時、何か盗聴器だとかそういうのを仕掛けられていたら。こうしている今だって、家の合鍵を作っている最中かもしれない。まずい。どうする。そうだ、警察。ああでもまた信じてもらえなかったらどうしよう。それにもし盗聴されているのなら、あいつに通報したことがバレて、警察が駆けつけるより先にやってくるかもしれない。僕を始末しに。駄目だ。逃げなきゃ。あ、でも逃げた先で女に出くわしてしまうかも。第一逃げるったって何処に。うわ。詰んだ。終わった。様々な疑念が泡のように浮かんでは弾け、僕の中を支配していく。それでも立花さんは毎日やって来た。もうチャイムが鳴るだけで、おかしくなりそうだった。目を閉じると、あの女の笑い声が聞こえた気がした。


 その日も例の如くチャイムが鳴った。またか、と思ったが時計を見るといつも立花さんが来る時間より少し早かった。彼女は毎日きっちり同じ時間にやって来るので、僕は不審に思ってドアスコープを覗いた。ドアの向こうで不安げな顔をして立っていたのは、眼鏡をかけた大人しそうな少女――舞初さんだった。久しぶりに見た彼女の姿は、砂漠に突如現れたオアシスのようだった。


「……ずいぶんと、痩せちゃいましたね」

 中に通した舞初さんに言われて、僕は自分がいつ食事をとったのかも思い出せないことに気付いた。僕はへろへろと笑って見せた。

「ただでさえモヤシみたいなんて言われるのに、これ以上痩せたらミイラになっちゃうね」

「それ……あんまり笑えません」

 僕は渾身の自虐ネタを真顔で返されて埋没したくなった。舞初さんは呆れ果てたようにため息をつくと、勢いよくソファーから立ちあがった。

「ちょっとキッチン借りてもいいですか」

「え、でも」

「待っててください」舞初さんは小さく微笑んでリビングを出て行った。


 しばらくすると、キッチンから良い香りが漂ってきた。それを認めると、お腹が堰を切ったようにぐうぐう鳴り始めた。それはずいぶんと久しぶりの感覚だった。ああ、僕はお腹空いてたんだななんて客観的に思った。

「お待たせしました」

 舞初さんが運んできたのは、出来たてのオムライスだった。ご丁寧にケチャップで「太れ」とたいへんありがたいお言葉が書かれている。すみません。

「具は何にもなかったら……ケチャップライスと卵だけです。卵はちょっとだけ賞味期限過ぎちゃってましたけど、たぶん大丈夫です。さあ、召し上がれ!」

 そういうことは召し上がる前に言って欲しくなかったが、まあ作って下さっただけでも有り難いことなので黙って頂くことにする。一口食べると、ふんわりとバターの風味がして、美味だった。空腹のためか、気付いたら一皿ぺろりと平らげていた。

「あー美味しかった。料理上手なんだね舞初さん」

「そ、そんなこと……ありがとう。お皿洗ってくるね」

 照れている舞初さんは非常に可愛かった。最初に地味な感じの子とか言ったのを、天に向かって撤回したかった。ここ最近、立花地獄にどっぷりと浸かっていたので、その優しさがとても身に染みた。天使だった。女神だった。大いなる存在だった。


「それでね、今日は話したいことがあって」

 キッチンから戻ってきた舞初さんは、きゅっと表情を引き締め、僕に向き直った。

「夕子ちゃん……立花さんのことなんだけど……」

「うっ」

 その名を聞いて、僕は思わず声をあげてしまった。女の子の名前を聞いて「うっ」はさすがにデリカシーがないとも思うが、状況が状況だから仕方がない。立花夕子という存在は、それ程にまで僕を支配していた。現に今も、名前を聞いただけなのに心拍数が異常なほど跳ね上がっている。


「実は私……あの子とは中学も一緒だったんだけど……その時から、ちょっと変わってるなって、みんなに言われてた」

「あぁ、やっぱり」僕は心の底から納得した。

「でも、私はね……変わってるけど、悪い子じゃないと思ってる。そりゃあ、時々やり過ぎだなって思うことはよくあるよ。けれど……それは真面目で、すごく一生懸命だからであって」

「……いや、だからってほとんど初対面の相手に『反省してください』はないでしょ」

 僕が言うと、舞初さんは「あれ、あの子の口癖だから」と苦笑した。嫌な口癖である。

「最初は私もちょっと苦手だなって思ってた。怖いし。でも一度だけ、あの子に助けてもらったことがあるの。私ってほら、見ての通り臆病者だから……上級生に目をつけられちゃってね、それで何度かお金を取られたことがあったの」

 なんてことだ。天使から金を奪うなんて、とんだ極悪人もいたもんだ。

「私、報復が怖くて誰にも相談できなくて……一人でぐずぐず悩んでたら、自分がどんどん世界から切り離されていくような気がして……私を助けてくれる人なんていない。我慢するしかないんだって……そう思うと、すごく辛かった。怖くて怖くて、堪らなかった」

 同じだ。今の僕と。僕は今、一人きりだ。外の世界は遠くて、もう何処にも見えない。真っ暗な部屋の中、僕はただただ怯えている。

「そんなとき、夕子ちゃんが声をかけてきたの。どうかしましたか、って。私の目を真っ直ぐに見つめて、何か困ったことがあるのなら、話してくださいって。私、学校では何もなかったみたいに振舞ってたから……すごくびっくりして、思わず話しちゃったの。一度話し出すと、どんどん言葉が溢れてきて、涙も止まらなくて、だけど夕子ちゃんは黙って話を聞いてくれて……それがすごく嬉しくて」

「…………」


 もしかして僕は、何か勘違いをしていたのだろうか。立花夕子という人間を。ハンマー女の幻影に踊らされて、何も見えなくなっていたんじゃないだろうか。僕の家に毎日毎日、足を運ぶ理由。担任に言われたから? 委員長だから? それだけなのだろうか。

「覚えてる? 夕子ちゃんが鯨井君に言ったこと。鯨井君はあの時怒っちゃったけどさ、夕子ちゃんが言いたかったのは、あの後なんだよ」

「あの後……?」

 僕が眉をひそめると、舞初さんは柔らかく笑った。

「――誰にだって嫌なものはあります。でもそれを嫌だからといって避けるのは単なる我儘です。そんな堕落的な考えは身を滅ぼします。反省してください。……ただ」

 ただ。それを聞いて、何故だか泣きそうになった。

「ただ、もし学校に行けないほどの理由があるのだとしたら、無理をする必要はありません。三里先生には私から言っておきます。あなたが安心して登校できるようになるまで、私は待っています。……でももし、その『理由』が今もあなたを苦しめているのなら、話してください。委員長として、私にできることがあるかもしれません。救うことができるかもしれません。だから」

 話してください、と舞初さんはもう一度言った。優しい声だった。

「夕子ちゃんは真面目で、真っ直ぐだけど、あんまり器用じゃないから……時々人を傷付けちゃうこともあるし、『偽善者のエゴ』だとか『上から目線で自分勝手』なんて言う人もいる。でもあの子は……目の前で苦しんでいる人を本気で助けたいって、心から思ってる。だから……鯨井君も悩んでるんだったら、相談してあげてほしい」

「でも……話したって」あんなヘビィな体験談、まともに取り合ってくれるかどうか。

「話すだけでもだいぶ楽になるよ。私もそうだったもん」


 花の咲くような舞初さんの笑顔を見ていると、まあ話すくらいなら別にいいかと思い始めてきた。たとえ全てが解決しなくとも、それでこのどうしようもない気持ちが少しでも晴れるのなら。正直な所、どうせなら目の前の舞初さんに相談したいものだが、それだと彼女がここまで力説した意味がなくなってしまう。それはあまりに無粋というものだ。

 僕は静かに頷いて、舞初さんを見た。彼女はとても嬉しそうに、頬を染めた。

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