第2話 星に願いを。-02

 猛烈な吐き気と共に目を覚ました。嫌な汗で全身がねっとりと濡れていた。


 またあの夜の夢を見てしまった。数日前、あの不気味な女に出会ってしまった晩から、まともに眠れない日が続いている。今でも目を瞑ると、大きなハンマーで釘を打つ音、女の低い笑い声、そしてあの濁りきった視線が、瞼の裏に蘇ってくる。


 あの夜、女に見つかってしまった僕は、なりふり構わずその場から逃げだした。神社の石段を駆け下りる途中で振り返ると、女は立ったままじっとこちらを見つめていた。追ってくる様子はなかった。それでも僕は家まで全力で走った。いつも通っている道のはずなのに、異様に長く感じた。やっとの思いで帰宅した僕は、玄関と家にある全ての窓に鍵をかけた。だがあの女が入ってくるんじゃないかという不安は拭えず、一晩中布団にくるまって震えていた。


気が付けば朝だった。カーテンの隙間から差し込む日差しにほっとして、僕は布団から抜け出した。一体あれはなんだったのだろう。変質者がいたと警察に連絡するべきだろうか。そんなことを考えながらも、温かいコーヒーを飲んでいるとなんとなく昨晩の出来事が夢のような気もしてきて、まぁ別に何かされたわけでもないしとりあえず友人に話すネタができたな、という悠長な結論に至った。学校の制服に着替え、今日は授業中に寝ちゃうだろうなーなどと思いながら外に出ると、足先に何かが当たった。テディイベアだった。顔や腹に何十本もの釘が突き刺さっていた。


 それ以来僕は、家から一歩も出ていない。


 時計を見ると、もう昼過ぎどころか夕方になりかけていた。

 気分がまるで良くない。僕は顔でも洗おうと部屋を出た。洗面台の前に立つと、鏡にやつれた男の姿が映っていた。髪の毛はボサボサで、目の下には大きなくまがあり、顔色も非常に悪い。思わず鏡に向かって「大丈夫かお前」なんて声をかけてしまいそうな風貌である。僕は大きなため息をついて蛇口を捻った。


 顔を洗い終えた僕はリビングに向かい、テレビをニュース番組に合わせた。アナウンサーの読み上げるニュースを注意深くチェックするが、今日もハンマーを持った不審な女が捕まったといったような知らせはなかった。もしやと思い携帯電話でネットのニュースも見てみるも、それらしい記事は一つも見当たらず。僕は落胆して携帯の電源を切り、ソファーに投げ捨てた。

 少しお腹が空いたので、キッチンへと向かう。戸棚を開けるとカップ麺がいくつか転がっていたので、一つを選んで電気ポットのお湯を入れた。買い置きの食料もそろそろ底をつき始めている。またネット通販で頼まなきゃいけないな。そんなことを漫然と考えていると、あっという間に三分が過ぎていた。


 ピンポーン。

 不意に、玄関のチャイムが鳴った。無心で柔らかめの麺をずるずる啜っている最中のことだったので、僕は大変に驚いた。麺が鼻の奥に入った。むせた。

 誰だ。誰だ誰だ誰だ?

 咳き込みながら、心臓の鼓動が大きくなっていくのを感じる。まさか。あいつが。あの女が。いやいや落ち着け。そんなことはない。大丈夫だ。ゆっくりと深呼吸をした僕は、そっと息を殺した。

 大抵の訪問者は、居留守を使えば帰ってくれる。宅配便だろうが新聞や宗教の勧誘だろうが関係ない。あの女の脅威が完全に消え去るまで、外との繋がりはできるだけ避けたかった。


 ピーンポーン。無視。

 ピーンポーン。無視。

 ピンポーンピンポーン。無視無視。

 ピーンポーン。……今回はいやにしつこいな。もしかして、やっぱりあの女なのか。背中にぞっと怖気が走った。どうしよう。もしこのまま居留守を続けたら、あの女が持っていたハンマーで玄関をぶち破ってくるかもしれない。そしたら一巻の終わりだ。僕はあのテディベアと同じようにして殺される。それが丑の刻参りを見てしまった主人公の末路。やばい。警察を呼ぼう。しかし、来訪者があの女であるという確証はない。まずは確認をしとかないと……。


 僕はなんとか気持ちを奮い立たせ、チャイムの鳴り続ける玄関へと向かった。

心臓がバクバクと暴れだし、身体が小刻みに震えている。僕はこんなに怖がりだったのかと情けなく思う。だがそんなことも言ってられない。扉一つ向こうに、人殺し(の可能性も無きにしも非ずな人物)が立っているかもしれないのだ。

 僕は音をたてないように細心の注意を払いながら、そっとドアスコープを覗いた。


 いたのは、女だった。でもあの女ではなかった。僕と同じ学校の制服を着た女の子が三人、ドアの前に立っていた。一人はショートカットで、すごく活発そうな子。一人は眼鏡をかけ、俯き気味で地味な感じのする子。そしてもう一人は、前髪をヘアピンでとめた、ちょっと真面目そうな子だった。


 三人とも、なんとなく見覚えがあるような気がする。ないような気もする。クラスメイトだろうか。まだ高校に入学して時間が経っておらず、クラス全員の顔と名前を覚えていないので、確信が持てなかった。

何しに来たんだろう。授業のプリントでも届けに来てくれたのだろうか。クラスの女子がわざわざ家に来てくれることなんて初めてだったので、さっきとは別の意味でドキドキした。ドキドキはしたが、ドアは開けられない。彼女らに悪意はなくとも、ドアを開けた瞬間、その辺りに隠れていたハンマー女が飛び出してきてそのまま……なんてこともあり得るのだ。その可能性がある限り、この扉を開けるわけにはいかない。


鯨井桜人くじらいさくとさん、中にいるのはわかっています。出てきてください」

「そうだぞー出てこーい」

 外から声をかけられた。先に言ったのがヘアピンの子で、後からのがショートカットの子だ。二人の口ぶりはなんだか刑事が立てこもり犯に呼びかけるようで、別に悪いことをしているわけでもないのに悪いことをしているような気になってくる。


「鯨井桜人さん、出てきてください。話があります」

「出てこいこらー金返せー」借りた覚えがない。

「ふ、二人とも声大きいよ……」眼鏡の子が必死で二人を宥めようとする。頑張れ眼鏡の人。

 そんな僕の声なき応援もむなしく、ヘアピンとショートカットはチャイムを鳴らしながら僕の名前を大声で連呼し続け、眼鏡の子は「ああ……」と元気を失くしていった。無念。


「あの……すみません、何のご用でしょうか」

 僕はドアを開けないまま、弱々しく尋ねた。ショートカットの子が「ひゃっ、ドアが喋った!」と叫んだ。僕ん家の玄関先の空気がえらいことになった。

「鯨井桜人さんですか」ヘアピンの子がドア越しに問うてきた。

「あ、はい……」

「私はきさらぎ高校一年C組、立花夕子たちばなゆうこです」やはりクラスメイトだったようだ。

「同じクラスの舞初まいぞめはるかです」眼鏡の子がぺこりと頭を下げた。それに続くようにショートカットの子が「遠藤樹梨えんどうじゅりでーす」と言いながらビシッと敬礼をして見せた。バカっぽい。


「鯨井さん、今日は話があって来ました。ドアを開けてください」

ヘアピンの子――立花さんはすごく丁寧に言葉を選んでいるようだったが、そこからは有無を言わせぬ強引さが感じられた。さっきからドアスコープに向けられる彼女の視線もかなり強烈で、扉一枚挟んでいるのに全身を鷲掴みにされているような心地がした。


「え、えっと……話ならこのままで」

「人と話すときは相手の目を見てからでなければいけません。ドアを開けてください」

「いや、でも」

「ドアを開けてください」怖い。サイボーグかよこの人。

 このまま何を言っても彼女にぴしゃりと言い返されそうな気がして、僕は言葉に窮してしまった。すると見かねた遠藤さんが、立花さんの肩を嗜めるようにポンと叩いた。

「まあまあ、立花ちゃん。そんなんじゃ開けられるもんも開けられなくなっちゃうよ?」

 おお。このショートカット、先程からアホっぽい行動がやたらと目についていたが、意外とまともな所もあるようだ。ショートカットは伊達じゃない。そんな遠藤さんが、今度は私の番とドアスコープに顔を近付けてきた。

「鯨井くーん、開けてよう。せっかく麗しの女子三人がこうやって遊びに来たんだからさー」

 遠藤さんの横で立花さんが「私たちは遊びに来たわけではありません」と無表情のまま言った。どうにもこの人はお堅い性格らしい。後ろで舞初さんが困ったように笑っている。


「すみません……事情があるので開けられません。伝言があるのならここでお願いします。もし渡すものがあるならそこに置いといてもらえれば……」

 僕は比較的喋りやすそうな遠藤さんに向けて、小さく答えた。そうすると彼女は小さくため息をつき、ゆっくりと後ろに下がった。僕はほっと安堵してドアスコープから目を離した。よしよし。このまま大人しく帰ってくれれば……


「鯨井君ッ! あなたいったい私たちの中の誰を選ぶの!?」

 破壊的な大声が、扉の向こうから突撃してきた。遠藤さんの声だった。慌ててドアスコープを覗くと、彼女は薄らと目に涙を浮かべ、天を仰ぐように両手を広げていた。

「ひどいわ同時に三人の女に手を出すなんて……でも私、あなたを好きな気持ち誰にも負けない! 答えてよ、鯨井君! 本当にあなたが愛してるのは」

 僕は乱暴にドアを開け、音の速さで三人を家の中に引っ張り込んだ。

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