第30話 私にできること
翌朝早く、洗面は庭の池で済ませ、髪は手櫛で梳いたけれど、どうしても塩と房楊枝が欲しかった。歯磨きしないで外出はできない。
自分の寝室にこっそり戻った。
リオが蹴破った後遺症で閂は曲がり、鍵はかけられなくなっている。
扉の陰に隠れていたサラにむんずと腕を掴まれた。
「奥様、子どもみたいなこと、止めていただけません?」
伯爵令嬢サラだ。彼女の正統さは、今の私には痛みにしかならない。
抵抗する気力もなかった。
伯爵夫人に化けさせられてダイニングルームへと歩く。初めての朝より場違いな気がする。
私がテーブルに着いた後でリオが入室した。息が上がっている。
「……おはよう」
伯爵様直々に声をかけていただいたけれど、返事はできなかった。顔を上げることも。
サラが「奥様、コッファーの中の昨日の募金、かなりの額ですから早めに回収したほうがいいかと存じます」と話した。
私は首にかけている鍵を取りだし、テーブルの上、リオの前に置いた。
「その金を使うつもりはない。好きにしなさい」
私が男たちに媚を売って得たお金、リオの意見は昨日と同じ。
「サラ、宜しくお願いします」
私は鍵を今度は右手側、立って控えているサラの方に置いた。
「これはストリート・パーティによって皆がマリア様に捧げた尊いお金です。聖堂建設にきちんと使われるよう、取り計らって下さい」
ベックスの美味しい食事もこれが最後だと思った。咀嚼しながら「最後」という言葉が引っ掛かった。「最後」なら……、
「伯爵様、もしかして私の私物を……保管していただいてないでしょうか?」
リオの肩がビクリビクリと波打った。
「食後に氷室に来て欲しい」
ルツがテーブルの緊張感を解そうとしてくれるけれど、私の目は焦点も合わずに食卓の上を泳ぐだけだ。
リオは私を氷室の中に
もう怖がらなくていい。最初の男が誰になるか変わるだけだ。心が繋がった相手でないのは誰も同じ。片想いの相手だと嬉しいだろうか、つらいだろうか。
どうせ薄汚い中世。性病をもらうとか殴られるとかで結構早く死ねるだろう。
ほとんど投げやりに、もうどうでもいいと思っている。
氷室の中にはたくさんのクッションやキルト、毛布が持ち込まれていて、壁には子ども用の
「おまえが初日に身に着けていたものはここだ。肩からこの袋を提げていた」
思わず両手で抱きしめていた。
Aラインミニ丈のデニムスカート、タンクトップとブラ、ショーツ。その上に羽織っていた、日除けを兼ねた7分袖シャツはなくなっていた。
リオが「あられもない」と形容した格好だったわけだ。
布地の感触に涙が出た。固くも柔らかくもなる母のような、コットン。
鞄を引き寄せた。
ラミネート加工のトート。
とあるブランドを見て母が、「似たようなのでよかったら作ったげる」とササッと縫ってくれたものだ。
つるりと表面を撫でた。
中に手を入れると、充電の切れた携帯、財布やポケットティッシュ、プリペイドカードのケースが出てきた。
愚かなことに私は、そこについている間抜けな顔のペンギンを見て、とうとう泣きだしてしまった。
リオは左腕をそっと伸ばして私の頭を自分の胸に引き寄せた。私にヒマワリ畑を見せる前にそうしたように。
「帰りたいのだろうな……。これらを隠せばおまえは居てくれる気がしていた」
残って欲しかったんだ、最初は。返してくれるということは、今は……。
氷室の中の時間が止まる。夢を見たくなる。リオの胸の温かさに睡魔に取り込まれるように弛緩したくなる。
私はリオが好きだ。酷い人だとわかっても。
今さら税金を徴収して領主としての立場が悪くなることを心配するくらいに。
仲良くしてくれた街のみんなの生活を守りたいと思う以上に。
身分も立場も関係ない、剥き出しの恋愛として私はリオが好きだ。
温度差が歴然として横たわる。
彼が言葉にしてない優しさがずうっと私を包んでいる。
揺るぎなく、変わりなく。
それは嬉しいのだけれど、私の恋愛感情とは違って、とってもお行儀がいい。
もうわかってしまった。
他の誰かで代替できる、神様が授ければ私じゃなくてもよかった程度の想い。
古き良き、イングランドの伯爵様。
二次元で、勇猛な十字軍の名将リチャード獅子心王に憧れたように、今度は三次元でリオフリッチ伯爵に憧れさせてください。
身分違いの遠い人になってしまうにしても。
最後にひとつ、私はあなたへの思いを表現してみます。
マリア様の聖堂を完成させるお金を作るという方法で。
この世界に落ち込んだ私に優しくしてくれたお返しに。
それをしてから私は姿を消します。
これから建てられる聖堂の尖塔がぎりぎり見える遠くの街へでも行って。
夕べも思いついていながら、認めまいとしていた、私に唯一できること。
私に、一日で六千ピー集められるとしたら、これしかない。
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