第10話 バラの小さな葉っぱ-庭デート
ガタっと音がして木のドアが開いた。
「ダイ……、どうかしたのか?」
「あなた、こそ……」
段々の上にいる私と目線が近い。
夫は解せないと私をじっと見上げた。でもちょっと怯えた色に変わって目を逸らした。
「何でも言いなさい。私にできることなら叶えるから」
目の表情が読めた。眉と目の間が狭くて奥目だからわかり難いだけだ。
身長差がある上に、テレるせいか彼はすぐ横を向く。
声は一本調子になり易く、口元の動きが少ない。鼻髭のせいもあるかもしれない。
彼の感情は瞳に現れる。
もっと目を合わせて話をしていけばいい。
「あの、まずは昨日のこと、旦那様は何も悪くない、と伝えたくて……」
「いくら妻とはいえ、嫌なことはするべきではないだろう」
「あ、あの、びっくりしただけで、ほんとは、いやとか、いやっていうわけじゃ……」
「嫌、じゃなかったのか?」
「恐かった……けど」
「強引だったか」
「ファースト・キス」という単語を発音できそうにない。
「あの、一緒に馬に乗ったのも、景色を見たのも、嫌じゃなかった。だから、心配だから、ちゃんと眠ってちゃんとお食事してください」
何とか文章にできた。
「ありがとう」
北の庭を一緒に歩いた。
「六月にうちに来てくれればここは天国のようだったのに」
「もう咲かないのですか?」
「バラは七月までだ」
四季咲きじゃないんだ、この時代。
「では来年見れますね」
旦那様は急に立ち止まった。私は背の高い夫を振り仰いだ。
「いて、くれるのか?」
「もっと、いろいろお話してください。倒れたせいなのか、私、あなたがどんな人かよくわからない。記憶喪失みたい」
「キオクソーシツ?」
「昔のことを思い出せない……」
「あ、そうなのか。そういう話、聞いたことはある」
「あなたのこと、好きになりたい」
「これから嫌われるかもしれないってことか」
夫は私の頬にそっと手を置いた。
「そんなに心配そうにしないで。おまえは神からの授かり物、あの日おまえに会ってから私はおまえの虜、私の何もかもがおまえのものなんだよ。おまえに認められる男になってみせるから」
生まれて初めて男性からそんな熱烈な言葉をもらった。でも……、
「でも、床について私の外見も変わったでしょう?」
「健康的になった。髪はよりしっとりと鴉の濡れ羽色、頬は膨らみ上気した。綺麗だ」
デブったってことじゃない。ダイさんはスリムなのね。
「今の私が嫌なら、すぐ言ってください」
「より魅力的になったと言ってるんだが?」
笑顔が眩し過ぎる。
ああ、だめだ、ダイさんじゃなく私を見て、愛葉を愛してと言いたくてもこれでは通じない。
数日間寝ついた位で取り違えるほど、私たちは似ているのだろうか。
旦那様は私の手を引いて、小さなバラの花のところへ連れて行った。
「葉っぱを潰して匂いを嗅いでごらん」
一重のピンクの野いばらのような花だった。
「ふゎ、何、いい匂い、えっと、りんごっぽい? 花も香りがする」
いかめしい貴族の相好が崩れた。
「エグランティン・ローズだ。気に入ったら風呂に浮かべるといい」
この人は、こんなちっちゃな葉っぱの匂いも知っている……。
「四月の雨の朝ここに来たら、歩くだけで芳香に包まれる」
「楽しみにしておきます」
「キスしてもいいか?」
あ、改めて訊かれると余計に恥ずかしい……。
肩に手が廻る。夫が摘んだエグランティンの花が私の鼻に寄せられた。
バラらしい匂いだなと思う。花びらで鼻の頭をくすぐられて私は自然と上を向く。花の向こうに夫の端正な顔があった。
そっとキスが降りてくる。
ぎゅっと抱きしめられた。
「あ、あの、お願いがあります……」
キスの後の顔を見せたくなくて、抱きついたまま話した。
「何だ?」
「私を……アイハと呼んでくださいませんか?」
「あ・い・は?
「イーヴァ?」
聞き慣れないけど、前の奥さんの名前で呼ばれるよりはいい。
「ではこの世でたったひとり、旦那様だけそう呼んでいいことにします」
旦那様は「ありがとう、イーヴァ」と顔を赤らめた。そして、
「では私をリオと呼んでもらえるか?」
と耳打ちした。
「リオ……、はい」
やっと少し恋人同士みたいになれた気がした。
「さあ、昼食をしっかり摂って、午後からは働くぞ。昨晩思いついてしまったから」
やだ、現実に引き戻された。
その思いついてしまったことを止めさせるのが私の役目じゃなかったかしら?
礼拝堂建築は取り越し苦労だったならいいのだけれど。
「おまえも来なさい」
言われなくてもそのアイディアを聞かせてもらわなくては。
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