第9話 閉じ籠った伯爵様‐秘密基地

 


 書斎だと思われる部屋に旦那様はいなかった。

 あの様子では、夕べ徹夜でお祈りでも捧げていたのだろう。懺悔でもしていたなら今眠っているのかもしれない。


 夫の寝室を知らない妻というのも恥ずかしいものだ。夫婦の寝室があるのかどうかも知らない。

 うろうろと部屋を探しているうちにサラに見咎められてしまった。


「奥様?」

「旦那様が見当たらないの。もし独りで静かに眠りたかったら、あの人、どの部屋使うの?」

 一緒に寝るときはわかるんだけど、と匂わせた。


「あ、今なら、もしかしたら涼しいところ、昔の氷室ひむろですわ。メルに案内させましょう」

 サラと一緒に庭師頭のところに行った。


 氷室って人の名前だと思ってた。氷を貯蔵し冷蔵庫代わりに使ったらしい。


「ええ、籠ってるわ。近付くなって。子どもの頃から秘密基地にされてたんですよ」

 野菜畑にいた庭師頭のメルは、汗を拭き拭き私に笑いかけた。


 北庭の築山つきやまになった裏に煉瓦のアーチがあり、同じ煉瓦の階段が下りている。

 その奥の、重たそうな樫材の扉の向こうにぬいぐるみのクマでも住んでいそうだが、扉の前に綴り間違いの蜂蜜ツボはなく、代わりにドント・ディスターブの札が掛かっていた。


 サラとメルには仕事に戻ってもらい、自分は煉瓦階段の上のほうに座りこんだ。

「どうしよう?」


 あなたは悪くない。それは明言できる。

 でも旦那様は悪かったと思っている。


 この風景に一番似合う、ここが騎士道精神に則った中世ヨーロッパだとしたら、崇拝する女の嫌がることを無理強いしたら「恥」だ。


 でもでも、キリスト教では、夫婦間ならえっちもキスも神に祝福されたものなハズ。


 今までに習った地理歴史、公民の知識を総動員して考えた。

 これといって特技の無い私でも、暗記科目は得意だ。

 かったるいと思われている世界史が実は好き。資料集や年表を見て王様や英雄の世界に遊ぶ。


 私がなぜ嫌と言ったか説明しなくてはならないのだろう。

 夫婦なのになぜ、拒絶しているか。


 昨日の雰囲気から、まだふたりは愛を交わしていない。最後まではヤッちゃってない。

 それで夫は私が、好きでもないのに嫁いできたと自信を失くしている。

 キスでさえ、私たちの間では昨日が初めてみたいだった。旦那様とダイにとっても。


 結婚式の誓いのキスは、しない時代かもしれないし。

 結婚式をする慣習があったのかどうかも知らない。


 無理して客観視してみれば、私は写真も釣書つりがきも履歴書も見ずにお見合い結婚してしまったという状況。

 売られたとかかどわかされたのではないのがせめてもの幸せ。

 そして相手が誠意ある人でラッキー、言葉の通じる相手でよかった。


 日本に帰りたい。もちろん、両親のもとに戻りたい。

 でも私がこの世界を拒んで部屋に閉じ籠ったら、旦那様は一生懺悔して暮らしそうだ。

 ふたりともが「ひきこもり」にならない方法を探そう。経験者だからこそ、私のほうが少し頑張ってみよう。


 今の私に言える言葉は?

「夫婦なんだからあなたは悪くない、これからちゃんと妻の務めを果たします、可愛がって下さい」? 

 だめ、そんなこと、口が裂けても言えない。恥ずかし過ぎる。そしてベッドに直行だ。


「私はあなたの妻のダイではないのです、東京生まれの東京育ち、郷田愛葉ごうだあいはという名前です」?

 日本も東京も説明できない。

 ローマかエルサレムくらいまでの地図しかなさそう。キリスト教しか宗教のない国なのだから。


 マルコ・ポーロの「東方見聞録」はまだよね。

 ひとつ、「はぁ」と大きなため息が出た。


 困ったことに、私は何の不自由もなくこの国の言葉を喋っている。

 皆が日本語を喋っているわけはないから、私の口から言葉が出る瞬間にこの国用に同時変換されているとしか思えない。


 信憑性がどこにもない。

 倒れたせいで記憶がおかしくなっていると言われて終りだ。

 そして、私が旦那様の想いに応えられない理由には、全くならない。


 全部話してみたところで、それならダイを返してくれと言われ、ヒマワリ畑でトライしてみたけど戻れなかったというしかない。


 セックスのひとつやふたつ、ヤッちゃえばいい。もう17才も近い。大人の女がほとんど全員経験することで、私だって親の交わりの賜物だ。大げさに考えることない。


 いや、だめ、好きかどうかわからない夫が税金を搾り取るかもしれないから、それを阻止するために妻の役割を果たすなんて、間違ってる。


 あなたを心から好きになるまで待って下さい。もう少し時間をください。この国で生きていかなくちゃならないなら、私はあなたをもっと知りたい。


 「旦那様」のこと、嫌いじゃない。

 ヘンな匂いがするとか、だらしないとか、酒飲み、DV、考えてみれば好きになれない理由はいくらでもあるだろうに、彼は高貴で、紳士で、真面目だ。

 宗教オタクかもしれないけれど、信仰心は人それぞれ。


 あなたをもっと見せて下さい。いろいろな表情を。

 そして本当にあなたが欲しいと思えた時に、全てを捧げたい。

 乙女過ぎるだろうか。


 私の名、愛葉の葉の上には、運命の人の名前が書かれている。それを胸の奥に大事にしまって生きていく。飛ばされないよう、落ちないように。

 その人に出会えたら、葉っぱで優しく包んであげる。幸せにしてあげる。

 そんな意味を込めて、名付けたと母は言っていた。


 旦那様の名前は私の葉の上にある?

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