第6話 ジャッカル

「随分と無駄なお喋りに興じてしまったな。私達は森羅万象を解き明かすのに忙しいんだ。さぁ、とっとと出ていきな」

 そうい言いながら部長はノートパソコンを開いて、「Dアニメストアっと」言いながらタイプ音を響かせた。

 「空ちゃん、これ」

 そう言って上遠野さんは部室の本棚から二冊の本を取り出し、私に手渡した。G・ヘーゲル『歴史哲学講義』の上下巻。厚さはさほどでもないが、文字の量も密度も凄まじい。読もうと思ってはいたが、敷居が高くて中々踏ん切りがつかなかった一冊だ。

「貸してあげる。気が向いたら読んでね」

「きっと気が向くと思います」

 ノートパソコンから「We are メガネブゥ~ゥ~!」と音声が流れてきた。

 それから少しして、部室の隅から声がした。調子の良い、かっこいい声だった。

「学校でイケメンがいっぱい出てくるアニメを見るなよ」

木ノ下きのした

 部長が苛立ちげに名前を呼んだアシメの人は、立ち上がるとより派手に見えた。

 ボーイッシュなアシンメトリーのショートカットで、紫のメッシュが入ってて、いかにもサブカルな出で立ちだ。左の方だけ髪が首の当りまで掛かっているが、右のサイドは耳が隠れる程度。触覚だけ顎くらいまで伸びている。細い顎と切れ長の瞳で、髪の色さえ抜けば女子校の王子様って感じのルックス。

「柚子、あの部外者を叩き出せ」

 部外者、ということは、森羅万象研究会のメンバーではないのだろうか。

「客人にお茶を出すどころか叩き出せだなんて、恐ろしいね。森羅万象研究会」

 部長の肩を叩いてこのこの~と絡んでいる。部長はウザそうにしていた。

「部長、この方は?」

木ノ下丸佳きのしたまどか、変態異常者の一人で勝手に入り浸ってきて困っている」

「親友に向かって部外者とは、瑠衣ちゃんは薄情にも程があるな~」

 アシメの人が軽い調子で話を続ける。

「というか新入部員?これは天変地異の前触れ」

「これから入ってくれるかも知れない子、白ちゃんの知り合いみたい」

「白雪嬢に我々以外の知り合いがいたとは、意外だね」

 上遠野さんが説明してくれる、奇人変人の中に居るこの人が少しかわいそうに思えた。

「黒鳩空です。木ノ下さん、よろしくお願いします」

「うむ、可愛い後輩がまた増えて私は嬉しいよ。よろしくどうぞ」

「木ノ下さんは何をされている方なんですか?」

 少し戸惑ったようなきょとんとした表情から、にやりと笑みを浮かべて、

「私は日中常に邪悪な事を考えているのさ」

 斬新な自己紹介でゾクゾクきました。

「アホの瑠衣、いつものジャンケン勝負でお別れしようじゃないか」

 有栖零瑠衣は、溜息をついて、それに応じる。

「最初はグー、ジャンケン……」

 そうして彼女はチョキを出したが――。

「ジャッカル!」

 左手の親指だけを立て、小指を外側に開き、残り三本は平行にくっつけ、右手のひらで左手のひらを包み込むようにして、親指同士で耳を作り――それはさながらジャッカルのよう!

「ジャッカルはチョキの5倍の威力があるんだ。パーは勿論チョキもひとたまりもないぞ!」

「……木ノ下、楽しいか?」

 ヌルついた時間が暫く流れました。

 さてと、と彼女は呟き、

「瑠衣、持ってきれくれと言った私のナマコはまだか?」

 そう急かすように半ギレで言って部室を後にした。

 飄々と自分の所属していない部の部室で仮眠して出ていった彼女に対して上遠野さんが、

「丸佳ちゃん……クラスではいつも壁や柱になり切ってまったく喋らないのに……」

 と哀れむような事を言っていた。

「ナマコは現実界の生き物だから食べたら頭がおかしくなる」

 部長は忌々しげに言った。ナマコ好きの人に失礼だと思った。でも私もナマコは苦手です。

「また来ます」と言って私は部室から出ようとした時、上遠野さんが朗らかに私に声をかけた。

「来週、空ちゃんにも白ちゃんにも苺のトルテをご馳走してあげる。楽しみにしててね」

 この二人といる時の白雪さんは、どんな表情をするのだろうか。私が今まで見たことのない顔を見られるのだろうか。そう考えると、来週が楽しみで遠足前の小学生みたいにそわそわとしてしまう。でも同時にある事が引っかかった、上遠野さんは、既に私を名前で呼ぶ。にも関わらず白雪さんは白ちゃんだ。白雪さん、ではないので気にしすぎかもしれない。

 単に白ちゃんという語呂がいいだけかもしれない。でももしかして、部長の言う通り白雪さんは上遠野さんにも心を開いていないのだろうか。



「なぁ空、やっぱりマルティン・ルターは偉いんだ。ルターがいなきゃその歴史哲学講義だって書かれなかったかも知れない。どこぞのサヨク哲学者はペンが剣であったなら一九一七年のレーニンにおいてだろうだなんて言ってるが、最も鋭い剣はルターのペンだよルターの」

 その夜八時頃、私はいつものように家族と夕食を共にしていた。能天気でお喋りな父親と、そんな父の話にウンザリしつつも付き合ってあげる母親。

「ルターって宗教改革の人でしょ、偉いのは分かるけど。ヘーゲルと一体どんな関係があるの?哲学にも造詣が深かったとか?」

 父親は待ってましたと、少年のように目を輝かせて話を再開する。しまったと思った。これだからオタクのオッサンは……自分の好きな話題になると水を得た魚のようになって嫌だ。

「元々ドイツ語は辺鄙な田舎の洗練されていない言語でな。神聖ローマ皇帝カール五世は、スペイン語は神と、フランス語は男と、イタリア語は女と、ドイツ語は馬と語る言葉だと言ったくらいだ。人間は思考を言語に規定されるってのは知ってるな。オーウェルの小説でもあるだろ。国民の語彙を制限する事で思考を統制するってヤツ。あれと同じでかつてのドイツ語も思考や哲学をするには向かない粗野な言語だったんだよ、意外だろ?それをルターが聖書をドイツ語に翻訳する時に、元来ドイツ語には無かった概念を大量に輸入してきたんだ。だからルターがいなきゃカントもマルクスも栄光の座には辿り着けなかったかもしれないんだ」

 意外と面白い話だった。歴史というのは複雑怪奇な因果が絡み合って出来ている。

「ふーん、滅茶苦茶偉大なんだ」

「ああ!そんな事より聞いてくれ!父さんの学生時代はな、甘酸っぱい青春をエンジョイする他の学生共を尻目にドイツ、ドイツ、ドイツ、ジャーマン……」

 不惑に突入してから幾年も経っているというのに意気軒昂、バーバリアンのようなテンションで捲し立てる父親を遮って母は、

「空が学校の先輩から本を借りるなんて珍しいじゃん。どんな先輩?」

「うーん、クラスメイトの子で最近仲が……うん、仲が良い子がいてさ」

 言い淀んだけれど、怯まずに続ける。きっと事実だ。

「その子が入ってる部活が面白そうだったから見学しに行ってみたら、部長が随分エキセン……個性的でね。わりと意気投合しちゃって、先輩が面白いからって貸してくれた」

「折角なんだから、空も部活やサークルなりやってみたらいいのに。そこ、どんなとこ?」

 森羅万象研究会というビョーキ集団の事を正直に話せば心配されそうだったから、適当にはぐらかす。大丈夫、嘘は言っていない。

「人文系の読書サークルみたいな感じかな。厳しい感じじゃなくて、気楽に本を読みながら、時々まったりお茶とかしてみるたいだよ」

「ぐーたらな空にぴったりそうじゃない?あんたどちらかといえば社交的な方じゃないし、お世話になってみるのもいいんじゃない。そう言えば、空は浮いた話の一つもしないよねぇ」

 ぎくり、とした。浮いた話と言うと、惚れた腫れたの類だろうか。実の親から気恥ずかしい話題を振られるのは、まだオジサン特有のペダンチックなマシンガントークを聞いていた方がマシというものだ。

「うーん、まぁ、最近仲良くなった友達が凄く美人って話くらいはしとこうかな!」

 彼女のことを思い浮かべ、ほんの少し照れながら口にした言葉にいきなり父は真顔になり、

「空、お前レズなのか」

 深刻な口調で言い放った。

 まさかとは思うが、そういう面では保守的な人間なのだろうか。軽く笑いながら否定する。

「いやー、そういう関係じゃないよ」

 不気味に顔を強張らせた父親は、急なタイミングで破顔して、

「そっかー。百合はいいぞ」

 は?心配して損をしました。

 そういえば、私は今まで人を好きになった事がなかった。一人の人間に執着したことも。

 そもそも、何かに賭ける程の熱意や情熱を持ったことがないのかもしれない。記憶の海をしばらくの間、漂ってみてそう思った。

 彼女への思いは、初恋、というものなのだろうか。それがただの憧れや好奇心、あるいは美化でないのかどうかは、今はまだ分からない。父親の言う通りレズなのか、そうでないのか。自分の性別に特段注意を払ったこともなかった。私はどう見ても女で、でもそれはプラトンの概念での女であるのだろうか。女を愛する女はプラトンの概念の女だろうか。


 TVでは、最近売上も株価も評判も鰻登りの多国籍企業テトラ社のCMが流れていた。「私達は森羅万象のテクノロジーについて研究しています」という何をやっているのか具体的によく分からない宣伝文句が聞こえてきて、余裕があるなーと思って、なんだか色々、少しだけ馬鹿らしくなった。

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