第5話 本質的に副産物、否定される為の空虚な身振り
「お宅、名前が空というのか――見上げた空、あれがどうして青いか分かるか?」
スペクトラムがどう――複雑なプロセスによって、空が青く視えるという事は知っているが、その事実を実証することも、証明に必要な一連の論証も提示は出来ない。正直に答える。
「まるでわかりませんね。分かるんですか?」
ほう、と、少し彼女は口角を上げる。
「質問の本質――趣旨を理解しているといった顔をしているな。空は青い。なのにお宅はそれについて何ひとつできず、馬鹿みたいにぼんやり眺めているだけだ」
我々は、青空を、馬鹿みたいにぼんやり見上げるだけで終わらない為にあると。
そう彼女は言いたげだった。
「クロキシアン君、お宅は白雪の友達なのか?あいつは友達を作るような奴じゃないぞ。自分でそう思っているのなら認識を改めるんだな」
「部長さん、私は黒鳩空です。白雪さんとは友達ではなくて、まだ知り合い……というレベルらしいです。でも彼女のお墨付きです」
妙な名前で呼ばれ困惑する。そして部長や上遠野さんは友達ではないんだろうか、困惑する。いわゆる先輩後輩の中なのか、例えそうだとしてもそれと友人関係というのは両立する筈だ。
「部長さんは、白雪さんとは友達じゃないんですか?」
「バカかこの部外者は!私に友達はいない事を知らないのか?」
大袈裟なジェスチャーと共にハン!と鼻を鳴らす部長。
友達がいないって威張るようなことなのか疑問に思ったが、いちいち気にしていたらきりがない。素朴な疑問を続けていく。
「友達がいないって、上遠野先輩とはどうなんですか?」
有栖零瑠衣の横に座る上遠野さんが、またいたずらっぽく微笑み言った。
「とても口では言えない関係」
「そういう訳だ」と不敵に笑いながら上遠野さんの腰に腕を回した。
そうですか、と思った。
「冗談だよ、ただの幼馴染」
上遠野さんが優雅な所作で腕を払い除けながら笑顔を見せた。柔らかくて暖かな、太陽みたいな人だと思った。いささか奇妙なほど、安心感を覚える。
「いいかクイック・シンクロン君、友達なんか作れば作るほど人間強度が下がるんだ。私という量的な度合いを異質で特質的なものに磨き上げる為には強度が無くてはいけない。お宅には分かるか?だから私に友達はいない」
友達がいなさそうのなのは言われなくても見れば分かる。
上遠野さんのような人でないと付き合いきれないのかも知れない。ふと『瑠衣ちゃん係』という言葉が頭に浮かんだが流石に失礼かと思い消し去った。
「すみません、空です。今はまだよく分かりません」
「小利口だな。で、お宅の要件は何だね」
「森羅万象を解き明かす意義と、そして白雪楓さんのことについて聞きたくて」
正直なところ、森羅万象云々が何なのか結構興味はある。でもそれでも比重としてはやっぱり単なる儀礼的な質問であって、本当に知りたいのは後者だった。そしてあのクリファという少女についても。
「森羅万象を解き明かす意義ね。いいよ。端的に教えてやる」
そしてもし入部するつもりがあるなら、これが入部テストだ。お宅に見込みがあるのか。私の話が分かったか、それとも分からないか、とも。その時、彼女は初めて私の前でアーカシャ聖典を開いた。
「昔々あるところで、東堂と西堂の僧たちが一匹の猫を取り合っていた。勿論単に所有権を争っていたわけじゃない。猫に仏性があるのかないのか、あるいは猫の魔性の有無の話かもしれん。それは中々決着がつかず、最初は高みの見物を決め込んでいた南泉和尚が余りのバカバカしさに腹を立て、猫を掴んでは言ったんだ。僧たちよ、禅の一語を言い得るならこの猫を助けよう。言い得ぬならこの短刀で斬り捨てようと。でも誰一人答えられなかった、ついに南泉は猫を斬った」
部長は仰々しく身体を斬られる演技をしてみせ、ニャーーーンと鳴いた。その声が国民的アニメに出てくる人語を解する二足歩行の猫なのか、速さを求める男の声帯をした猫のパペットなのか、どちらかに似てもいなくもない奇妙なもので困惑しました。
コホン、と咳をしてから部長は続けて、
「夕方、趙州が外出先から帰ってきて、南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州は靴を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出ていった。南泉は悔やんだ。もしお前があの時にいたら、猫は救えていたのに……とね」
門外漢には分からない、ということを言っているのだろうか。
森羅万象を弁えることを目指す意義。それは禅問答に答えるようなもの、というのは意外としっくりくる。脳味噌が電流火花を散らす、散らしすぎれば喝と共に叩かれそうだ。
「お宅、森羅万象を解き明かす意義は分かったか?そしてその為にはどうすればいいか」
森羅万象を解き明かす、壮大な夢想だ――それは世界征服よりは幾らか多くの人間が抱く野望だろう。そして世界征服よりも難度が高いだろうし、まず不可能と言っていいだろう。それにも関わらず、世界征服それよりは幾らか多くの人が本気で信じていると思う。でも世界征服とは違って、着実に一歩一歩その実現の為に歴史は進行していて、たくさんの人がそれに貢献している。例え永遠に辿り着けないとしても。BAという人は、一体何を考えて、あの内容の想像もつかない分厚い本を書いたのか。
「本質的に副産物、否定される為の空虚な身振り」
それは自分が信じたものに賭けるということ。
「ようはパスカルのように賭ければいい、って話ですか?」
有栖零瑠衣は満足げに笑い、
「悪くないな」と呟いた。
上遠野さんは小さくぱちぱちと拍手をした。
拍子抜けした
「入部するかどうか、今のところは前向きに検討させて頂きます。存外部長さんが面白かったので。しかしストレートに言いますが、私は白雪さんについて聞きたくてここに来ました」
私はきっぱりと言う。取り繕ったりするのは余り得意でない、苦手な方だ。
「具体的にどういう活動をするのかは聞かなくていいの?」
「意義さえ分かれば、私は好きにやらせて貰います。いいですよね」
上遠野さんは色々説明しようと思ったのに、という感じに頬を膨らませている。
「お宅がゴシップ好きの出歯亀趣味が高じて私の目の前に来ているなら叩き出してやるよ。まぁそんな事をわざわざこの私に仕掛ける度胸があるのは、根性があって嫌いじゃないが」
どうやら部長に私は気に入られたようだ。尊大な態度を取る上の学年の人間に対して、かしこまったり遠慮してしまう下級生は多い。私は遠慮しないタイプだった。そして部長は礼儀や上下関係を気にするような人間ではなかった。波長が合うか合わないかで言えば、前者だ。
「そうじゃないです。私は白雪さんと友達になりたい」
「なら直接本人に聞いたらどうだ!というか執着しすぎだろ!お宅レズか???」
有栖零瑠衣は呆れたように、口をあんぐりさせて言った。中々に表情豊かだ。
「いえ、彼女は部活の中ではどんな風なんだろうって、他の人から見た点が気になって」
当然同じ学校に通っているので、白雪さんを屋上以外でも見かけたりする。でもやっぱり彼女はいつも無表情で、周りには誰もおらず一人で、孤立しているように見えて、親しくしている人がいる様子はなかった。
上遠野さんが何やら暗いトーンで話し始めた。まるで後ろめたいことがあるかのように。
「あのね、白ちゃんについての噂が色々流れてるのは知ってるでしょ。だから昔はその事についてね、面白半分冷やかしで押しかけてくる人がいたりしたの。だから私も瑠衣もちょっと白ちゃんについて他の人に勝手に話すのにナイーヴになっちゃって」
私は彼女について殆ど何も知らない。好きなものも、嫌いなものも、趣味も特技も、将来何になりたいのか、何になりたくないのか、何も知らないのに、こんなにも気になっている。まるで自分の頭の中に彼女が住み着いたみたいに。
「あの、噂って、どうして流れてるんです」
「そんもん知るかバカタレが!!」
「まぁまぁ。でも空ちゃんは私達の活動にちゃんと興味を持ってくれているようだし。ここに来て本を読んで、あとは瑠衣が勉強を教えたりしてる、ってことくらいは教えてもいいかなって。あとは……部員になってくれるなら、自分の目で確かめられると思うけどね」
上遠野さんは気が利いて配慮があるというか、普通に良い人で、有栖零瑠衣を筆頭にゲッターチームみたいな三人が揃っているのかと昔は思っていたけれど、こう実際に森羅万象研究会を目の前にすると随分とまともで拍子抜けする部分があった。
「白雪さんにもちゃんと居場所があったんですね、良かった。いつ見ても一人でいるから」
居場所、居場所かと吐き捨てるように部長が笑った。
「何をもってして居場所というのかね。生きている限り居場所を取るだろう」
存在が続く限り、仕方ないから場所を取る。一つぶんのひだまりに……おっと。
「心開ける場所という意味で言っています」
「そういう意味なら居場所はないな。あいつにはどこにも、多分きっと」
「それってどういうことですか?」
「少なくともあいつは私にも柚子にも心を開いてないって話だ。どうしようもない断絶がある」
部長は不敵な笑みを保ちながらも、どこかばつが悪そうな佇まいで、たとえ話をしようと言葉を紡ぎ始めた。
「アホのトルストイがシェイクスピアについて攻撃したパンフレットは、彼の著作のなかでは恐らく一番知られていないものだろう。トルストイはシェイクスピアに生涯を通じて我慢できないほどの反発と退屈を引き起こしたという。そして、文明世界の意見は彼とはまったく反対だということを知っていたから、ロシア語、英語、ドイツ語でシェイクスピアの作品を何度も何度も読み直して、理解しようとしたんだ。ところが、いつも同じ感情、すなわち反発と退屈と当惑しか経験出来なかったようだ」
「七五歳になった老トルストイ、彼はもう一度すべてのシェイクスピア作品を読み直したんだ。そうしたらやっぱりシェイクスピアは凡庸な作家ですらないクソだと思ったらしい。害悪とすら見做したようだな。そして何故かリア王に対しての執着的とも言える攻撃を始める。その辺を語ると長くなるが、あろうことかリア王には絶対に欠かせない筈の道化が存在することになんの正当な理由も見いだせなかったとのたまうのだ」
仰々しく、大げさな振る舞いで、長弁舌を繰り返す。
「シェイクスピアは森羅万象、あらゆることに批評を加えずにいられなかった。それは人間一般を愛していたからだ。論じたり、触れたりしていない人生の重大問題は滅多にお目にかかれない。彼のあらゆる劇に見られるたわごとたち、それはすべて奴の過剰な生命力の産物にほかならない。やつは哲学者でも科学者でもないが、とんでもない好奇心を持っていた。ここが私とシェイクスピアの共通点だ。シェイクスピアはこの人間世界とその生活の過程そのものを愛していた」
「若いトルストイはそれなりに柔軟だった。シェイクスピアが嫌いではあったが、それはそれで存在していてもいいとは思っていただろう。ところが後年、世の中にはいろいろな人間がいなくてはならないのだということが分からなくなってしまうと、老トルストイはシェイクスピアの著作が自分に危険なもののように感じてしまった。トルストイは憎んでいた。不正、残酷、陰謀、欺瞞、誤解、これらにも関わらず、それがはるかに正常な姿で流れるものだという考え――それでも喜びを感じる人生の豊穣という奴を」
カフェインの浣腸でもしたのかな。でも部長が何を言いたいのかは分かる気がする。
「楓は中学生の頃、私と出逢ってから老トルストイになっちまった。まだ人生はこれからだってのに頭でっかちの爺さんみたいに成って果てやがって。同じ方向を見ていると思ったらいつの間にか道を違えてしまったよ」
部長と白雪さんは、中学生の時からの知り合いなのだろうか。二人が向き合って、どういった話をするのかが気になった。でもそれ以上に、部長が何か本質的な事を見落としている気がして、これまで以上に用心深く注意力を研ぎ澄ませた。
「楓は嫌悪している。不正と残酷と陰謀と欺瞞と誤解と共に、人との密接な関わり合いを殆どまるごと。孤独への欲求、人間関係を絶つことへの欲求を夢見ている」
嘘だ。と思った。それならどうして私とあんな事を――私の血を舐めたのだろう。友達になれないこと――ヘーゲルにマルクスが付け加えたように、彼女が補足をしてくれた時。ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日。私と白雪さんは、心が通じあったと思った。あの幸せだったときを私は忘れない。でもそれが、つまるところ、どうしようもない茶番でしかなかったとしたら、私は耐えられないのかもしれない。それは弱さだろうか、軽さに耐えられない幸福な弱さ。
「例え私と一見仲がいいように見えたとしてもそれはフリか、それこそお宅の言った本質的に副産物に過ぎない。私を踏み台にしてンのさ、相互に流される血の親密さ、放蕩な接近って奴を避ける為に」
「私は、そうは思いません」
私は賭けることを決めていた。
「心が通じたって感じたことがあったんです」
「そうか、そう思うのはお宅の勝手だ」
「こんな噂を聞いたことがありますか?」
「白ちゃんについての?」
口から先に生まれてきた人に散々耳朶を打たされて、そろそろ私も話したい、と言わんばかりの食い気味な話への乗り方だった。
「時折普段の無表情からは想像もできないほど幸せそうに笑うって。私はそれを確かめたいです、私の知る限りでは、いっつもむすっとしてますから」
部長は意味ありげに、そして馬鹿馬鹿しそうに笑った。
「瑠衣はああだけど、きっとそれが本当だってことを、私は願ってるよ」
上遠野さんはまたいたずらっぽく微笑んだ。小柄だけど、温かいお姉さんという印象が既に強く私の中に刻み込まれている。
私は、この空間で過ごしていくのも悪くないと思い始めていた。
そして確かめねばならないことがあるとも感じ始めていた。部長は、白雪さんに対してどこか冷たく突き放すような物言いをしている。彼女が口から先に生まれてきたようなタイプの人間だからと言って、いささか言葉が過ぎる気もした。この二人の間に何かあったのだろうか。
白雪さんは、きっと私が知らない顔をいくつも持っている。この部長の関係者だ、一筋縄ではいかないだろう。そして、最後の疑問をぶつけてみる。
「私と白雪さんが二人で――屋上にいたとき、クリファって変態異常者が居たんですけど、あれって部長のお知り合いですか?」
部長はむすんとした顔で――断固たる口調で答えた。
「有象無象の変態異常者の事などいちいち知らん!」
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