第3話 ルイ・ボナパルトのブリュメール18日

 冬のある日、屋上で噂の1つが正しかったことを突き止めた――彼女はいつも剃刀を持ち歩いているらしい。白雪さんは、腕の内側を剃刀で切っていて、その傷口を舐めていた。

「何してるの」

「見れば分かるでしょ、腕を切って血を舐めてる」

「なんで」

「痛みは何より分かりやすい。血の味がすると生きている気がする。こうしてるのが一番落ち着く」

 白雪さんに関する噂が頭を駆け巡る。親に捨てられたという。壮絶ないじめを受けていたという。援助交際をしているという。精神病院に入院していたことがあるという。付き合っていた恋人を自殺させたことがあるという。

 自傷行為をするからには、きっとそれなりの理由があるのだろう。ネガティブな噂話は流言飛語の類だと気にしていなかった。だからそれをわざわざ聞いて確かめることもしなかった。でも自分で自分の肉を切り裂いて、流れるものを再び口に入れている。痛みは何より分かりやすいって、どういうことだろう。だから私は知りたくなった。

「見せて」

 私は白雪さんの腕を強引に取る。そのパーカーを羽織った制服越しでも華奢と分かる体は、実際に手にとってみると頼りなくか細い。彼女が舐めていた部分はぬらりとした唾液が付着して殆ど血も止まっている、あまり深い傷ではなかった。でもはっとした。腕には脂肪を裂くまで深く切り込んだことを示す自傷の跡が大量に付いていたからだ。腕の内側は傷のついていない場所の方が少ないくらいだった。

「いきなり何」

「何があったの」

 一体彼女はどれだけのものを抱えているんだろうか。


「なんでもないよ」

「なんでもないならこういう事しないでしょ」

「理屈と膏薬はどこにでもつくよね、わざわざウザいよ」

白雪さんはいつものように、私の目を見て言う。

「あのさ君、私が親に捨てられたり、いじめられたりしてるから、リスカしてるって思ってるでしょ。違うよ。単純に私は自分の肉を裂いて血を舐めたいだけ。血が欲しくなっただけ」

「なんで 」

「生きている気がする」

「痛いと、生きている気がする。血の味がすると、生きている気がする。だからしてるの」

 いつものように私に向くその顔は、無表情というよりも無心といった印象を受けた。

 静寂が場を支配する。それは数秒か、あるいは数十秒にも感じられた。

 生きている気がするって、どういうことだろう。例えば私はこうやって彼女と話している時、生きていると実感する。正確には楽しくて、生きていてよかったというような塩梅だけれど。

 リストカットしてその血を舐める。血が欲しくなったから舐める。それで生きている気がする。私の理解の埒外のことだった。精神的な痛みに耐えかねての自傷行為の方がまだその意義を理解出来るかも知れない。でも、単に血を舐めるのが好き。それなら奇人変人と噂されている少女の、おかしな趣味として理解の出来ないまま受け止められるかもしれない。理解の埒外にあるものは肯定も否定も出来ない。でもやっぱり私には彼女が何か抱えているようにしか思えない。私にも理解出来るような本当の危険を。

 好奇心、ただクラスの社交好きな女子や男子が抱いているような出歯亀趣味に起因するものとは違う。私は白雪さんに惹かれていた。好きなものをもっと知りたい、そういった意味での好気の心と、何か過酷な環境で苦しんでいるんじゃないかという心配が頭の中で支配的に振る舞う。

 だから噂の真偽が気になった。火の無い所に煙は立たないと言うけれど、やはり噂に近しい事実はありそうだった。クラスの女子ネットワークは存外馬鹿にしたものではない。軽薄に思えるゴシップ好きの視点というのは、慎重で思慮深い人間が見落としがちなものをよく拾う。

「壮絶ないじめを受けたとか、親に捨てられたとか、本当なの」

「君には関係ない」


 何回も話して、少しは心が通じ合ったかと思っていたけれど、それは都合の良い妄想だったのかも知れない。淡々と吐き捨てるような言葉には拒絶の色が混じっていた。でも私は繰り返す。例え愚かしい笑劇だとしても。

「白雪さんの力になりたい」

「力添えされるようなことなんて何もないよ」

「血、舐めるのが好きなんだよね」

白雪さんが持っていた剃刀を奪い取り、自分の腕に軽く傷を付ける。友達になる為に必要なことの初歩として、相手を理解する必要があるという。彼女が自分の肉を裂く行為の真似事をしてみた。ぴりっとした痛みが腕に走る。

「ねぇ、何を……!!」

 浅いかすり傷から血が滲む。

 リストカット。得体知れない痛みを血流に変える行為。真似事とはいえそれを自分がやるなんて思わなかった。その刹那ある倒錯的な考えが頭に浮かんで、思わず発した。

「血は自分のじゃなきゃ駄目?」


 いきなりのことに白雪さんはぽかんとしている。

「考えたこともなかった」

 当然だろう。私も考えたこともなかったような言葉が出てきて驚いた。

「私と白雪さんの血に、大した味の違いがあるとは思えない」

「それはそうかもしれないけど」

「じゃあ、舐めてみて」

 長い静寂の後決心したように、こくり、と彼女は頷いて、私の傷跡に舌を這わせる。白雪さんが私の血を舐める。私の血が彼女の身体に混じっていく。

 口を離したあと、一瞬だけ目があった。いつもの無表情が崩れて、せつなそうな、何かを冀う縋るような表情。罪悪感と、リビドーが同時に私を満たしていった。

「生きてる、気はする?」

「多分」

「でも本当に舐めるなんて思わなかった」

「自分以外の血を舐めてみたいって思ったから」

「私は白雪さんと友達になりたいって思ってる」

「きっとそう思ったことを後悔する」

 信念の強さが迸る言葉だった。どんな未来が待ち受けるか、関係性が構築されるか不確定である現在での、強い断定。

「でも、血を」

 少しの迷いや躊躇いの後に彼女は私の目を見て言った。

「たまにこうやって話して、欲しくなった時に舐めさせてくれるなら、知り合いくらいにはなってあげてもいい」

 とろけそうな言葉だった。白雪さんは私の血を舐めたあとと同じ、何かを冀うような顔をしていた。その表情は、私をほんの少し受け入れてくれた証の、知り合いになってあげてもいい宣言と同じくらい、とろけそうになると同時に、何か不安を掻き立てるような不穏さがあった。

 それでも、マルクスが一八四四年にすでに述べていたように、歴史というものは几帳面なもので、古いものを葬り去る為には多くの段階を経るものだ。そしてその最後の段階は喜劇であると。私は、それを実際に体験してみたいと思った。幾つもの甘美な段階を経て辿り着く喜劇、笑劇、馬鹿馬鹿しいハッピーエンド。

「ありがとう」

「学校、楽しい?私は白雪さんといる時はとっても楽しい」

「私は楽しくない」

「しょっちゅうサボるくらいなら、学校来る意味って何かある?私はこうやって白雪さんに会えるからいいけど。白雪さんなら授業なんて受けなくても、いい大学行けそうなのに」

「部活があるから」

 白雪さんが部活だなんて信じられなかった。もしかしたら仲の良い人がいるのかも知れないと思うと、何だか安堵すると共にちょっとばかり妬いてしまうかもしれない。

「部活してるの。何部?」

森羅万象研究会しんらばんしょうけんきゅうかい

「え」

 思いがけない答えだった。


 ダントンの代わりにコンディエール、ロベスピエールの代わりにL・ブラン、サン=ジェストの代わりにバルテルミ、カルノーの代わりにフロコン、小男の伍長と彼の元帥たちの円卓騎士団の代わりに、手当り次第にかき集めた借金だらけの中尉たちを引き連れた奇形児。そして森羅万象研究会の代わりに黒鳩空。だから私は、大いなる歴史の潮流の中、既に二度目のブリュメール一八日に至っていたのかもしれない。



「うっわー!女の子を血を舐めるとか、ちょっとえっち?興奮するね!女の子同士の体液交換もっと流行れ!……もしかしたら、幸せが訪れるかもって、期待してるんだね。うんうん。でも、覚えておいて。君は、世界にただ一人の、あの女から産まれた――怪物だって事を」



 そして、白雪さんは頭痛を癒やすように頭を抑えて、少しだけ残念そうに、

「今日はもう帰る」

 そう言った。

 

 次の瞬間、私達の前に――まるで芸術家気取りの、灰色のコートとベレー帽を被った少女が現れた。

 この学校の生徒?いや、ドアが開く音はしなかった。あの立て付けの悪いドアが開く音を、幾ら会話中だからって聞き逃すとは思えない。どこからともなく――現れた。

 彼女はバイザー状のサングラスを光らせ、近未来的なあしらいのタブレットを持ったまま、白雪さんにかしづき、微笑みかけた。

「やあやあお初にお目にかかるねぇ。はじめまして、我が救世主――白雪楓」

 白雪さんは怪訝そうな顔をしてつぶやく。

「え?」

 それを全く気にも止めることなく、彼女は私に向かって、

「そして救世主の騎士、黒鳩空」

「は?」

 いきなりカップリングされました。

「我が救世主が自身を導く騎士と邂逅を果たし絆を結んだ、その栄光たる瞬間に立ち会わせて貰ったよ。フハハハハハ……」

 高らかに笑う彼女に、とりあえず質問をしてみる。

「えーと、どこのどなた、何者……ですか?」

「私の名前はクリファ、未来の創造主である!」

 寝惚けたような事を言うその少女はサングラスを取って――顔は真剣そのものに見えた。


 

「さて、こんな事を知っているかい我が救世主。君たちの話はずっとコッソリ聞かせて貰っていたんでね。こういう話が好きなんだろう?――ある出現の物語、最初のヘーゲルの唯物論的転倒とは。人はこれを正確に位置づけることができる」

「ずっと聞いてたって、ストーキング!?」

「また人聞きの悪い。救世主の騎士、君も同じようなものだろう?」

 そう言われれば、確かに強くは反論出来ない……。

 クリファと名乗った少女は、ニヤニヤと笑いながら、やけに印象が残る、ナルシスティックでくねくねとした手の動きをさせて、タブレットを何度かタップして、語り始めた。

「それは一八二八年の五月二日、ニュルンベルクの中央広場で起きてね。この日、奇妙な服をまとった一人の若者がニュルンベルクの街の中心部に現れた。彼の様子、そして彼の仕草には固さが刻印されていた。言葉としては、ただ、暗証された主の祈りの断片さながら、『父ガソウデアッタヨウニ、騎士ニナリタイ』という謎めいたフレーズ、つまり、自我理想への同一化の緒を、文法的間違いを犯しながらたどたどしく発するのみであった……。そして左手にはカスペル・ハウゼルという彼自身の名と、ニュルンベルクの騎兵体調の住所が記された紙片が握られていた。後になって、言葉を獲得したカスペル自身が語った生い立ちの物語によれば、彼は、ニュルンベルクにつれてこられるこの日まで、たった一人で、暗い洞窟の中で暮らし、黒い男がそこに飲み物と食べ物を運んできてくれたいたのだというよ」

 白雪さんは私の方を見て、

「ノリがちょっと君っぽい」

 と言い放った。何というか、これと同列扱いは流石にへこむ。

「その黒い男が、その日、彼をニュルンベルクへと連れてきたのだが……その男は道すがら彼に言葉を教え込み、そのために彼は言葉らしきものを唱えることができたんだ。ダウメル家に託されたカスペルは急速に人間らしくなり、”本当の意味で”話すことを覚え、いわば有名人士となった。彼は、哲学的、心理学的、教育学的、医学的研究の対象となって、さらには彼の起源をめぐって政治的思惑の争点ともなったんだ。平穏なままに数年が過ぎたが、一八三三年十二月十四日の午後、彼は刃を受けて、瀕死の重傷を負わされて発見されることになる。死の床で彼は、襲撃したのはあの黒い男だったと告げた……」

 一段落ついたクリファは、白雪さんが使っていたカミソリを取り、つまらそうに暫く眺めてから、それを放って、勢いよく踏みつけた。

「ダメじゃないか、我が救世主、君の身体は君だけのものではないのだから……」

 そうして微笑み、頬に触れようとする。

 だが、その手は撥ねられた。

「救世主って、勝手に妙な期待を私に抱かないで」

「まぁ、死ぬ事はないのだから要らん心配かもしれないけれどね。こう見えて私は君の歴史的意義について慮っているのだよ。黒鳩空が君の自傷を引き受けたのは必然という話も理解出来るかな」

 いきなり現れて、流言飛語の嵐が勝手に形成されて吹き荒れています。


「何言ってるのかさっぱり分からないんですけど!」

「まぁいい、じきに分かるさ。じきに……」

 そうしてクリファは私達に背を向けて、手すりの方へと歩いていった。

「カスペルの突然の出現は、原因結果の象徴的円環を断ち切る不可能な現実的なものとの突然の遭遇を引き起こすものであったのだけれど、最も驚くべきは、ある意味で、時が彼を待ち受けていた、ということだ。つまり、彼が思いがけずも、現れるべき時に現れた――ということ。カスペルは子供の時に野に棄てられ思春期になって発見される王家の子という、あの古い神話を体現していた。すぐに彼はバーデンの王子であるという噂が広がった。洞窟の中にあった物の中で彼が覚えていた唯一の物が、木の動物のおもちゃであったという点も、動物による世話で教わる英雄神話を哀切に思い起こさせるものだった。とりわけ十八世紀の終わりという時代には、人間の共同体の外で生育した子供というテーマは、人間の自然的部分と文化的部分の峻別という問いの純然たる具現物として、文学的にも科学的にも、ますます頻繁に扱われる対象となっていったのだよ」


 ざらざらとした手すりに触れ、クリファは身軽に身体を宙へ浮かせ――手すりを足蹴にし始めた。

 私は彼女の非常識で危険な行為に冷や汗をかき、声を張り上げた。

 挑発するように、命など惜しくないかのように、カタカタと手すりの上でタップダンスをしてみせる。

「ちょっと!危ないって!落ちたら死ぬよ!」

 クリファはまたしても悠々とした態度で、首をこちらに傾けて笑う。

「君たちは私が何者かと疑問に思っているね……。カスペルとの遭遇は、唯物論的視点から見れば、予期せぬ一連の出来事の帰結にすぎないとしても、形式的視点から見れば、それは本質的に必然的なものであり、その時代の知の構造が前もってその場を用意していたものなんだよ! ひとつの空の場がすでに構成されていたという事実があってはじめて、彼の出現はセンセーションを引き起こすものとなったんだ。一世紀早くても、一世紀遅くても、彼の出現は認識されなかったにちがいない! 満たすべき内容に先行するこの形式、この空の場を把握すること、その点にこそヘーゲル的意味での理性、つまり、悟性に対地されるものとしての理性の真の意味がある。悟性においては、形式は実質的かつ前もって与えられた内容を表現するものだからね! 言葉を替えれば、ヘーゲルは決して、唯物論的転倒に漠然と追い抜かれたのではなく、彼はまさにそれに先んじて、それを理性化した者だったんだよ……」

 クリファは語ることと踊ることをやめなかった。

「だから、降りてって!危ない!危ないって!」

 そうしてクリファは――体重を重力に任せて、私達を祝福するような笑顔で、落ちていった。

「さぁ、私は君たちにとっての、黒い男――かもしれないよ」

 ぐちゃり。予想された嫌な音――はしなかった。私と白雪さんは、彼女が足蹴にしていた手すりを掴んで、下を覗き込んだ。そこには普段通りの平和な場があるだけだった。


「何、だったんだろう」

 私が呆然と彼女に問うと、

「森羅万象研究会の周りには、あんな人ばっかりだよ」

 そう、不機嫌そうに答えた。


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