第3話 リューガとニケ

 穏やかな風が吹き渡る、見渡す限りの草原。

 降り注ぐ陽光は柔らかく、草原の青さを際立たせている。


 少年が独り、ぽつねんと佇んでいた。

 さわさわと草を揺らす風が、その髪を撫でてゆく。

 柔らかくそよぐ、首筋まで掛かった白い髪。

 丸っこい眉も白く、明るい小麦色の肌とコントラストを成している。

 年の頃は一〇代半ば、頬にはあどけなさが残っていた。

 少年は、ぼんやりと空を眺める。

 真っ裸で。

 その顔に感情らしきものは窺えず、一糸まとわぬ自らの姿を気にする様子もない。

 黒々とした大きな瞳が、空に流れる白い雲を映すだけである。

 小一時間も過ぎた頃だろうか。

 不意に少年は、我に返ったように目を瞬かせる

 そして不思議そうな面持ちで、辺りをキョロキョロと見まわした


「ようやく起動したみたいねー?」


 どこからか響く、待ちくたびれた感じの涼やかな声。

 少年は声の主を探すが、辺りには人影はない。

「ここよ、ここー。あなたの足元よー」

 少年が見下ろした先に剣が一振り、鞘に収まった状態で転がっていた。

「リューガ、こんにちはー。初めまして、かしら?」

 剣が喋っている。それを異常事態と理解していないのか、少年に驚いた様子はない。

 しばらく剣を見詰めていると――――


 ガバッと四つん這いになり、剣に鼻づらをくっつけた。


「なにっ!? 何やってるのー!」

 わめく剣に構わず、くんくんと鼻を鳴らす。

「いやああー!? 嗅いでるー! 匂いを嗅いでるー!?」

 悲鳴を上げ、剣がコロコロと転がって逃げ出した。

 それをリューガが、四つん這いのまま鼻づらで追い回す。

 やがて満足したのか、くるっと回れ右をして離れた。

「うう、なんか汚された気分だー」

 喋って動く怪しさ満点の剣が、ひとしきり嘆く。

「と、ともかく、わたしの話を――――、ちょ、ちょっと、まさか!?」

 片足を上げたリューガのポーズに、剣が絶句する。

 その、まさかである。

 リューガは狙いを定めると、剣に目掛けてシャ――――ッと。


「ひっいやあああ――――――っ!?」


 ピョッンと、剣が飛び退いた。


 ◆


 剣の正体は、女神フロスティアが創った使徒だ。

 女神によって、リューガと一緒に地上に送り込まれたのである。

 ただいま使徒は、たいそうご立腹中だった。


「あなたは人間ヒューマンに生まれ変わったのよ!」

 地面に座り込んだリューガを、使徒が叱り飛ばす。

「人間は四つん這いで、片足上げて用を足したりしないの! それ以前に失敬極まりない!」

 気持ちは分かる。出会った途端にシャーとやられれば、誰だって怒る。

 一方のリューガは、何やら落ち着きがない。

 モゾモゾと尻を動かし、さかんに首を振ったりしている。


(新しい身体に違和感があるみたいね)

 使徒は説教しながら、リューガの状態を冷静に観察する。

 なにしろ、いきなり犬から人間の成体に転生したのである。

 先程の事故・・も、生前の本能に引きずられたのであろう。


 緊急事態だったため、創造主である女神から指示は与えられていない。

 気が付けば、呆然と立ち尽くすリューガの側に転がっていたのだ。

 剣の姿を与えられたのは、少年の力になれという思し召しなのだろう。

(なら、わたしの為すべきことは決まっている)

 使徒はリューガを捉えながら、密かに決意する。


(この少年を守り、教え導こう)


 寄る辺のない少年の味方となり、自力で生きられるように育てるのだ。

 使徒は、拘束された創造主に思いを馳せる。

 無事を信じたいが、感情よりも現実を重んじる思考が、事態を楽観視させない。

 ――必ず生き延びて、絶対に幸せになりなさいよ!

 女神がリューガに贈った最後の言葉は、そのまま使徒の使命でもある。

 創造主の望みに応える。それが使徒の存在意義なのだから。


(人里を目指そう。こんなところにいても野垂れ死にするだけ)

 周囲にリューガの食料になりそうな動植物はありそうもない。

 探せば野草の類は見付かるかもしれないが、サバイバルより文明的な生活だ。

 人里に移動して、リューガの食料と住居を確保しようと考える。


「リューガ、わたしを手に取りなさい」

 使徒が指示した途端、リューガはビクッと身を竦ませた。

「えっ? ああ、もう怒ってないわよー」

「…………くうーん?」

「いや言葉を話しなさいよ。できるでしょ?」

 言語能力は、転生プロセスの基本仕様なのである。

 リューガも、自信なさそうに頷いた。

「ほら、何でもいいから、喋ってみなよー」

 そう促しながら、使徒は安堵した。

 頷くという反応を示したのは、人間の行動様式が正常に刷り込まれている証拠だ。

 リューガは考え込む素振りをしてから、たどたどしく言葉を発する。


「…………なに? だれ?」


 そう尋ねた瞬間、リューガの頭の中にある歯車が、カチリと噛み合う。

「あ、そっかー。そうね、わたしのことは…………、ニケと呼びなさい」

 使徒は、リューガの生前世界の神話から、その名を拝借した。

 偉大な女神に随身する、勝利の女神。使徒の、ちょっとした見栄である。

「にけ?」

「そう、ニケ」

「にけ、にけ、にケ、ニケ…………」

 他者の名前を連呼することで、リューガの自我が構築されていく。

 認識力と思考力の拡張、知能の底上げ。

「ニケッ!」

 少年の内部で、転生システムが最終プロセスを完了させた。

「そうそう、良くできたわねー」

 ニケが褒めると、リューガの表情筋が反応する。

 不器用ながらも、リューガが浮かべた初めての笑みだった。

 それを感知した使徒ニケの中に、不思議な感情が生じる。

 ほわっとした、言語化できない萌芽に戸惑ってしまう。


「それじゃ、わたしを手に取ってー。グリップ部分よ、分かるー?」

 もやもやっとした感情を抑え、ニケは改めて指示を与える。

 リューガは素直に手を伸ばして、剣の柄を握った。

「鞘から抜いて、先っちょを上に向けてみよー!」

 ニケが命じるまま、リューガは鞘から剣を引き抜く。

 ニケの全長は70cm。

 装飾の一切を廃した黒い鞘から、その姿を現す。

 まるで大気を凍らせそうな、冴え冴えとした剣身だった。

 鏡のように滑らかな表面が、空の青さと草原の緑を映す。


 太陽の光を反射して、刃に光が走った。

 草原に吹いていた風がリューガの周囲に集まり、一陣の竜巻となる。

 そして風が去った後には、簡素な衣服をまとったリューガの姿があった。

 シャツにズボン、腰にはちゃんと剣帯も用意されていた。


「裸のままじゃ、アレだしね?」

 ニケの声音は、ちょっと気恥ずかしそうだ。

「でも物質化は消耗が激しいから、多用できないよー?」

 リューガは不思議そうに、パタパタとシャツとズボンをはたいた。

「今後、必要な物資は自力で調達――――って、こらー!」

 話の途中で、ニケが怒鳴った。

 もぞもぞと、ズボンを下ろそうとするリューガ。

 肌に当たる生地の感触が不快なのである。

「脱いだらダメ! 我慢なさい!」

 ニケに叱られ、リューガはしょんぼりとうなだれた。

「あー、ほら? これから人里に行かなきゃならないから、ね?」

 強く言い過ぎたか? 反省したニケは、声を和らげてなだめる。

「それじゃあ、おほん、あらためて」

 リューガの手に握られたニケが、キラリと光る。

「アイスベル世界にようこそ、リューガ! さあ、出発しましょう!」

 あまり意味は理解できなかっただろう。

 それでもニケの気持ちが伝わったのか、リューガは元気に返事をする。


「わんっ!!」

「違うでしょ!!」


 そして犬から転生した少年と、剣となった使徒は旅立った。

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