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「大人数に怯えて出てこなかったのかもしれませんね」

 そんなことを言うカールはうっかり足を踏み外しそうになって、ゴラン・ゴゾールは右手を放し、下から咄嗟にそれを受け止める。片手くらい外しても大丈夫な高さであったのはよかった。ありがとうございます、と、青年。

「気をつけてよ、カール。低い場所だけど、落ちたら痛いから」

 ルパは言った。経験したことがあるのだろうか、と、ゴラン・ゴゾールは思った。下を見れば、飛び降りても上手く着地できる高さではある。が、確かに、岩の上に落ちて背中や脚や頭を打つのは痛いだろう。下手をしたら死んでもおかしくない。

「肝に銘じます……ルパ、何か岩猿について知っていることがあったりしますか?」

「知っていること……うん、臆病だね。僕たちとかの人間の前にはそんなに出てこない筈なんだけど、どうしたのかな。あのね、むかーし、むかしの話なんだけど、あの砂漠って、本当は綺麗な草原だったんだ。でも、ある時、耳とか尻尾のついた人間の一種が、火の山から、炎の精霊王さまを連れ出したんだ。その炎の精霊王さまが暴走して、こんな砂漠になっちゃったんだって。砂漠って、どんどん広がるっていうでしょ? 何でかっていうと、炎の精霊王さまが、その人間に対して凄く怒ったんだけど、それがまだおさまっていないからなんだ」

 ルパの声は岩場によく響いた。カールがへえ、と、興味深そうに相槌を打つのも聞こえる。ヒエエエ、と高い声が聞こえて、何かと思えば、岩猿が大きな口を開けていた。顔が緊張しているように思える。これは鳴き声だろうか。

「お、サークルケルドが鳴いてる。あの鳴き声、警戒しているんだ。僕たちが怖いのかな」

「……ルパの声が大きいのですよ、きっと。で、炎の精霊王さまが、今もまだ、砂漠を広げてしまっている、と?」

 そこで大きな岩が目の前に出現したので、会話は一時中断となった。一行は互いに手を貸し合い、脚を掛けられる岩の位置を教え合い、滑りそうになった尻を脚や腕で止め合ったり、足の幅しかない細い道を見つけて呻きながら進んだりしながら、何とか大きな岩を攻略していった。

 岩を登り終えると、暫くは平らな岩盤の上に奇岩が立ち並ぶ景色が続いていた。

 ここから向こうまで歩ききるのに、二刻ぐらい掛かるだろうか。歩くのが楽になった、と、ゴラン・ゴゾールはほっとして、次の瞬間に思い出した――かつて従軍していた時に、ここを本拠地としていたことを。もう軍の天幕はないが、親が彫刻師だという平民の息子の同僚が、戯れに竜を彫った岩は、どこかにあるはずだ。

 そうだ。ここら一帯を根城にしていた盗賊との戦闘で足がちぎれそうになるほどの重傷を負ったのは、貴族の子息の同僚であった。ゴラン・ゴゾールは、彼の手当てを買って出て、骨と肉を正しい位置に配置し直し、叱咤激励をし、完治してちゃんと歩けるようになるまで付き合ったこともある。縫い痕だらけにしてしまった上に相手の名前も忘れてしまったが、えらく感謝されて、いつか王都の邸宅に招きたいとかなんとか言われていた。返事を出そう出そうと思いながら二年過ぎてしまった。どこで何をしているだろう。得られたかもしれない友人であった。確か、褐色の髪と目をした地味なゴラン・ゴゾールと違って、波打つ金色の巻き毛に灰青色の切れ長の目だった気がする。

 ルパは大きな声を出しながら駆けていく。

「炎の精霊王さまの話だったっけ?」

「そうです、炎の精霊王さまが、今もまだ砂漠を広げてしまっているのか、と思って」

 カールは息切れしている。青年はその後をのんびりとついていきながら、大きな声を出した。ルパは先の方を飛び跳ねながら、とても元気に喋り始める。

「うん、そうなんだ。炎の精霊王さまは、太陽ととっても相性が良くて、木を焼いちゃうんだ。でも、その前に、大地の精霊王さまが力を使って、これ以上砂の大地が広がるのを防いでくれたり、砂漠の中に水が湧く場所を作ってくれたりするんだ。で、サークルケルドは、大地の精霊王さまの命令で、砂漠を監視することになったんだ。でも、サークルケルドは怠け者で、お行儀が悪かったんだ。少しでも楽に見張りをする為に、サークルケルドは、机山に登って、そこから砂漠が広がっていないかどうかを眺めることにしたんだ。でも、ある日、サークルケルドがみーんなそうやって怠けているのを見つけた大地の精霊王さまが怒って、そんなに机山に登りたいならずっと登っていなさい、って言って、机山から下りられないようになっちゃったんだ。ご先祖様には、机山の上で叱られているのがよく見えたらしいよ」

 少し元気になったカールは、興味深そうに、面白いですね、と言って、ルパの後を駆けて追っていった。ゴラン・ゴゾールは、走ると決めたら走ることにしか集中できない。故に、ふたりの速度に無言で追従するのみだ。

「あの岩を登って四半刻ぐらい行ったら、もう伐採場だよ!」

 地平線の彼方に陽が沈もうとしていた。巨大な岩を唸りながら登りきれば、沢山の木が集まって大きくなった柔らかな影が遠くに見える。その手前で夕日に照らされているのは、立ち並ぶ間に合わせの小屋と、切り出された多くの丸太の山、加工された木材を積んでいる夥しい数の馬車。

「走ればその半分だな」

「……もう疲れました、ゴランどの」

「後少しの辛抱だ」

「……まあ、走らずとも大丈夫だろうと思いますけれどね。ランプの光が灯り始めているから、迷いはしません。それに、暗くなってから行った方が、新入りだと思われるでしょう……罪状は、ゴランどのは姦通未遂、私は詐欺、ルパはスリですかね」

 先へ進んでいたゴラン・ゴゾールだったが、カールの言葉に思わず立ち止まった。ルパも同じように立ち止まって、にこにこしている。

「僕、隠し持っているのを取るのは得意だね!」

 少年はいい。事実である。カールが詐欺師なのも何となくわかる。だが、ゴラン・ゴゾールは、騎士であった男だ。

「……おれはあなたと違って童貞だぞ、カール……そんなことをするような人間に見えていたのか」

「いえ、その、かなり雄々しくて逞しいお顔ですから、ゴランどの……女性から贈られてくる秋波を、真顔を盾にして防ぐ王宮でのあなたの貞淑っぷりは存じていました。鉄壁だって」

「……褒めてないだろう」

「……顔は綺麗って仰ってくれましたからね、ゴランどのは」

 見れば、カールは綺麗な笑みを浮かべていた。なかなか根に持つ男である。

 三人は歩くことにした。疲労が足裏からじわじわと腿にまで上がってきている。寝台の上で眠ることは叶わないだろうが、それでも地面の上に四肢を投げ出して転がりたい気分だった。だんだんと近づいてくる灯りは誰が焚いているのだろうか、火の番はいるのだろうか、働かされている囚人に火のついた薪を押し付けてくるとんでもないやつがいるのではないか……そんなことを考えながら、ゴラン・ゴゾールは、東側の空に輝き始めた星を数えた。

 下草の間に、踏み均された地面が道となって、伐採場の方まで伸びているところまできた。その端に、ぽつん、と人がひとり、倒れている。ルパはそれを見て囁いた。

「……白い人だ」

「ルパ、あまり見るな」

 ゴラン・ゴゾールは、一目見て、それが命を落とした者であるとわかった。重労働に耐えられなかったのだろうか。服を着ていないのは、まだ着られると誰かが判断して、死人から剥いで持っていったのだろう。遅いか早いかの違いだけで、いずれこういうものを見ることになっただろうが、十歳の子供には辛いだろう……十八歳の大人でも、喉に何かが詰まったような声を出すのだ。ルパは暫く震えていたが、嘆きの声を出したカールに駆け寄って、その腰に触れた。

「……そっか、白い人のいるところは、砂漠の生き物もいないから、すぐに食べて貰えないんだね」

「……砂鮫や潜り鰐、ということですか?」

「潜り鰐だよ。砂漠のお掃除屋さん。かかさまから生まれた時とおんなじかっこになって、砂に送られて、潜り鰐に見付けて貰うんだけど……白い人たちは、どうしてるの?」

 カールは遺体から目を離さないまま、呟いた。

「棺……木の箱に入れて、地面に穴を掘って、埋めます。歌を歌ったり、闇の精霊王に祈りを捧げたりします。木の箱に好きだったものを入れてあげたりするのです」

「じゃあ、埋めてあげよう」

 誰かが埋めてやろうとして諦めたようで、その遺体の近くには、丸太を木材に加工するときに生まれたらしい木材の切れ端が落ちていた。ゴラン・ゴゾールはそれを手に取って、腕力にものをいわせて、できるだけ深い穴を掘り始めた。弔いのつもりもあったが、死体を放置しておくことは衛生上宜しくないことを、ゴラン・ゴゾールは従軍経験で知っている。カールとルパも、手で土を掻き出したりして、手伝ってくれた。

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