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「……カール・ポネマスと申します、麗しきご婦人。お望みであれば、この私、喜んで参りましょう」

 カールはジョルマ・フォーツの貴族のしきたりに則った立ち礼をひとつして、涼やかな笑みをその顔に浮かべる。すると、パミルは満足そうに微笑んで、青年の腕を取った。

「そう、素晴らしい、気に入ったわ。じゃあ、皆さん、一刻後にまたお会いしましょう……それまで、向かいの食堂をおすすめしておきますわね」

 ゴラン・ゴゾールがどういうことだろう、と思って首を傾げた時には、当惑した表情のカールは、婦人の腕にぐいぐい引っ張られて家の方へ歩かされていた。

「え、でも、ゴランどのやラモ翁も一緒ではないのですか? それに、レミやルパはあなたと久し振りに会って、もっと話したいでしょうに――」

「きっとととさまから聞いていると思うけれど、私は巫よ」

「……どういうことです?」

 その後は、呆れた視線を娘に向けたラモ翁が引き取った。

「好き合った者との間に同意が成り立った時、子をもうけられる、というのが、この街の……巫の定めた掟じゃ」

「……なんですって?」

 今まさにカールを助けに行こうと一歩を踏み出したゴラン・ゴゾールは、老人の言葉に安心して、その場に真っ直ぐ立ち直した。青年は別に酷い目に遭うわけではないのだ……寧ろ世界とひとつに溶け合って精霊と共に歓びを奏でるような心地がするだろう。真っ赤になりながらあたふたし始めたカールは哀れだったが、これは巫が定めた街の掟である。異邦人が逆らえる余地などないのだ。どこかの国では、郷に入っては郷に従え、という言葉が存在している。相手の文化に溶け込む覚悟があってこそ、交流というものは成り立つのだ。

 だから、ゴラン・ゴゾールは、見送る覚悟を決めた。

「ちょっと、待って下さい、ねえ……ゴランどの、あなたも一緒に来てください、お願い」

「……おれには、他人の逢瀬を覗く趣味はない」

「私を守るって仰ったじゃないですか、ゴランどの!」

「……巫は強いから大丈夫だろう、あなたは今、最も強力な守護を得ている。それに、怖がることはない」

「……貞操以外は、その通りじゃな」

 ラモ翁はカールの味方をしなかった。こうなったらもう止められない、とでも言いたげだ。それとは逆に、レミとルパは、何やら期待に満ちた目で、家の方へ向かっていく母親と青年を、とても嬉しそうに眺めている。

「次は男の子かな、それとも女の子? 可愛いかなあ?」

「両方でもいい! そうじゃなくてもいい! どんな子でも可愛いよ、僕たちで可愛がってあげるんだ!」

「そうだね、他の街に行った子も、ノージャにいる子も、皆可愛いもんね! かかさまはすごい!」

「白い肌の子かもしれないね! 髪が砂みたいな色かも! かかさまはすごいよ!」

 ジョルマ・フォーツとは貞操観念にかなり違いがあるなあ、などと、他人事のように思いながら、ゴラン・ゴゾールは空を見上げた。澄んだ美しい蒼が目に飛び込んでくると、爽やかな気持ちになる。

 噴水から落ちる水の音が、耳から身体を冷やしていった。そこに重なってくるのは、巫の強靭な腕で連れ去られようとしているカールの、最早悲鳴と化した切実な訴え。

「怖いですよ! 私、したことないんです! 助けて下さい、ゴランどの! ねえ!」

 家の扉がバタン、と音を立てて閉まった時、ゴラン・ゴゾールは首を振って、呟いた。

「……安心しろ、おれもまだだ」


 広場の近くにある食事処で涼みながらラモ翁の奢りで食事を取り、一息つく。とげとげした植物の果肉を使ったあっさりした風味のサラダと焼いた羊肉は、ノージャの街ではなく、他の街から取り寄せられたものであるとのことだったから、ゴラン・ゴゾールも、安心して口にすることができた。

 開け放たれている木の窓からはノージャの大きな家が見えていた。だが、一刻どころか二刻経っても、カールが家の中から出てくる気配はない。もう放っておくしかないのう、と言い出したのは、どこか諦めた表情のラモ翁だった。

「パミルが一刻と言ったら、大体、一晩という意味じゃからのう。この食事処は宿もあるから、ゆっくりするといい、ゴランどの」

「お気遣い感謝する、ラモ翁」

 ゴラン・ゴゾールは、上階にある宿の一室で久し振りに水を浴び、髭を剃り、ラモ翁の古着を貰って下着同然の格好から脱出し、ぼさぼさだった砂だらけの短い髪を撫でつけ、身なりを整えた。

 そして、陽が落ちてから少しだけ外を散歩し、部屋に戻ってふかふかの寝台に横たわった瞬間、気絶するように眠りに落ちた。

 目が覚めたのは、翌日、太陽も随分高くなった頃である。レミとルパに、身体の上に飛び乗られて、起こされたのだ。

「ぐえっ」

 呻いたところで容赦しないのが十歳という年頃である。

「ゴラン! お出かけするよ! もうお昼だよ!」

「ゴラン! とっておきの場所へ行くよ! ご飯食べた?」

 全体重を容赦なくかけながら叫ぶ、という、とんでもない猛攻撃である。それを喰らえば、起きないわけにはいかない。ゴラン・ゴゾールは目を擦りながら急かされるまま身支度をして、水と食料、下剤の入っている背嚢を二つ背負い、行き交う人々に挨拶をして飛び跳ねながら進んでいくレミとルパの後を追った。

 やがて辿り着いたのは、昨日街に入る時に見た、岩屋のような場所だった。

 導かれるままに日陰へ入っていけば、既にラモ翁とカールが座っている。近付いていくと、青年の方が顔を上げた。

「……寝坊ですか、ゴランどの」

「あなたは、寝坊はしなかったのか、カール」

「……昨晩は、その、沢山運動するという素晴らしいひとときを得たものですから」

 ぐっすりです。そんなことを言うカールがパミルによって家の中に連れ込まれたのは、まだ太陽の高い時刻であった筈だ。晩までかかったというのだろうか。沢山運動したということはそういうことだろう。

「……あんなに怖がっていたのにな」

「……いえ、その……怖いことは何もありませんでした」

 青年はどこか夢見るような表情になって、ほう、と息を吐き、ゆるゆると首を振った。

「すごかったです」

「そうか」

「これで、ゴランどのよりは上手くできる自信がつきました」

「……一体おれを何だと思っているんだ、あなたは」

 ゴラン・ゴゾールが呆れてそう言うと、カールは我に返ったように顔を上げた。

「ゴランどのを決して軽んじているわけではありません、私は……あなたに何もかも世話になりっ放しで優れたところなどない私が、ただの種蒔きだとしても、誰かのお役に立てたのですから」

「……顔がいいだろう」

「……それも、誰かの代わりでしたから」

 ゴラン・ゴゾールは口をつぐんだ。軽口を叩くのはやっぱり性に合わないのだ。代わりに、昨晩の余韻に浸って俯くカールの肩をそっと何度か叩けば、青年はわかっている、とでも言いたげな表情をして、少し笑った。

 と、ぺたり、ぺたりと裸足で岩の上を歩くような音が聞こえて、ふたりは顔を上げた。

 枯れてからからに乾いた草が隙間に垂れ下がる岩屋の上に、レミとルパがいる。双子は手に手を取り合って、こちらを向いている。

「見せてあげる、僕たちの舞」

「見せてあげる、私たちの力。でも、その前に」

 レミの方が、射貫くように、ゴラン・ゴゾールを見た。

「ねえ、ゴラン……約束の人。何か、お歌を歌って欲しいの」

「歌……?」

「何でもいいの!」

 ゴラン・ゴゾールは貴族の子だ。詩歌の類の基礎的な知識は叩き込まれており、嗜み程度に楽器の演奏や歌唱も可能だが、決して上手いわけではなかった――が、己が得手であるかどうかよりも、ゴラン・ゴゾールは、状況に最も相応しいものは何であるのかを気にする人間であった。

 頭の中を、家族で歌った新年の歌、親戚を見送った時の葬送の歌、兄夫婦が美しく歌い上げた婚姻の歌、料理人が鼻歌で奏でていた窯焼きの歌、使用人が歌っていた掃除の歌、などがよぎっては消えていく。

 ふと、ゴゾール伯爵領で民が歌っていた収穫祭の歌が、耳の中に蘇った。

 大きく息を吸った。


 ――黄金の麦ひとつ

   摘んであなたの胸を飾りましょう

   黄金の麦ふたつ

   摘んであなたの足を飾りましょう

   黄金の麦みっつ

   編んであなたの冠を作りましょう――


 歌いながら、ゴラン・ゴゾールは、沢山の人々がこの曲を歌うのを、己はもう二度と聴くことはないかもしれない、と思った。だけれど、覚えていてよかったとも思った。

 そこに重なってくる和声は、高めの若い男のもの。見れば、カールが歌っている。どこで聴いたのだろう、ゴゾール領の民しか歌わないこの歌を知っていたのだと思うと、嬉しくなった。

 視線が合うと、青年の目元が優しく緩んだ。


 ――大地の精霊王よ

   いずこにおはしますか

   黄金の麦たくさん

   摘んであなたに捧げましょう

   あなたがおらずとも

   私たちは強く

   強く生きております――


 レミが跳ぶと、ルパも跳ぶ。手を取り合ってくるりと回り、離れ、近付き、離した手を天に向かって突き上げ、微笑みあって、背中合わせになって、すうっと背筋を伸ばして、何かを解き放つように腕を拡げる。


 ――黄金の麦ひとつ

   摘んであなたの胸を飾りましょう

   黄金の麦ふたつ

   摘んであなたの足を飾りましょう

   黄金の麦みっつ

   編んであなたの冠を作りましょう――


 岩が光り輝いている。

 無数の翠の光が葉の形になってあたりを舞う。

 ゴラン・ゴゾールは、歌おうとしたが、詩を忘れ、それを呆然と眺めていた。

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