避けるチーズと贖罪の騎士

久遠マリ

プロローグ

厠へ

 ジン・タオモは走っていた。

 とにかく、急いでいた。何故なら、腹が痛かったからだ。

 目指している場所は厠であった。

 原因は明白である。下剤を飲んだからだ。何故そのようなものを服用したかというと、これには深いわけがあった。

「また……はずれ……宝物庫は罠が多すぎる……」

 ジン・タオモは、宝物庫でチーズを食ったのだ。それには黴が生えていた。前に食べたものは腐っていた。その前は、寄生虫の卵が産みつけられていた。

 腹がごろごろと切羽詰まった音を立てる。

 ここは、ジョルマ・フォーツ王国、王都、王宮。宝物庫の近く。

 厠まで、曲がるべき角はあと二つである。息も絶え絶えになりながら、ジン・タオモは走る。走らなければ己の尊厳が失われるのだ。事態は一刻を争う。


 何故、普通の思考回路をした人間なら食べてはいけないと即座に判断をするようなものを、ジン・タオモは、食べているのか。


 ジン・タオモは、伝説のチーズを探していた。

 己の故郷を滅ぼす直因となったものであり、己の母が遺したものであり、あるべき場所に還される筈のものであった。ジン・タオモは、母の顔を知らない。砂漠に緑を生み、街を存続する力を抱く巫であった母は、まだ己が乳飲み子であった時に、街もろとも、突然姿を消してしまったという。

 その時に生まれたという伝説のチーズを残して。

 砂ばかりの大地の上、僅かに緑を抱く場所は、全て巫の力のおかげである。別の巫が存在している小さな街で、母を知る人に育てられたジン・タオモは、母を慕っていた彼らに、こんなことを教えられて育ってきた。

「おまえのかかさまは、素晴らしいお人だった。力も強かった。ゆえに、豊かに暮らしたいだけの、くだらない男ばかりが嫁いできた。そのような者から他の人を守るために、おまえのかかさまは、全ての力をチーズに込めて、それから、男たちの前から姿を消したんだ。そうだ、わしらを守るためにな」

 母という強力な巫を失った人々の嘆きは深かった。ジン・タオモは、母が消えた後の街だったものを、何度も何度も見に行った。光の奔流が渦を巻き、底の知れない深い穴が存在しているその場所を、飽きもせずに、よく眺めに出向いた。そこに母がいるのかと思ったからだ。

 そこで、何度も何度も、伝説のチーズが落ちていないかどうか、探した。

 成長するにつれ、ジン・タオモは、悟った。滅んだ街の跡に存在している穴の近くには、伝説のチーズなど、落ちているわけがないと。だから、十二の歳を数えるようになった時に、方法を変えた。

 出会った人全てに、尋ねることにしたのだ。母のことを。

 そうして、二年経ったある時、母の消息を掴んだのだ。北へ向かったという情報を。ジン・タオモは、十四歳だった。

 その三年後には、また新たな情報を得たのだ。ジョルマ・フォーツという名を冠する国の王宮に、珍しい肌の色をした女が仕えている、と。ジン・タオモは、十七歳だった。

 更にその四年後には、砂漠を巡回しており、時折街に訪れる守護者という存在から、情報を得た。ジョルマ・フォーツの王宮の宝物庫に、レシテ砂漠からやってきた特別な品がある、というものだ。焦りばかりが募るジン・タオモは、二十一歳になっていた。

 ジョルマ・フォーツ王国の情報を集める必要があった。万が一の時に備えて北の王国の言葉を学び、使う者たちがいた。ジン・タオモは、彼らの所へ赴いて、その言語を話せるようになるまで習得した。また、巫を守護する為に砂漠を巡回している者の娘に接触し、己の母と伝説のチーズの情報を集める為の準備に奔走した。その為に、非常に協力的であったその娘との婚姻も果たした。パミルという名のたおやかな娘は巫で、砂漠の北端にあるノージャという名の街を維持していた。ジン・タオモは二十四歳になっていた。

 転機が訪れたのは、ジン・タオモが二十五歳の時だった。

 普段は巫の力に守られていて、外からは砂の渦にしか見えないノージャの街に、白い肌の人間が訪れたのだ。それはぼろぼろの服を着た男だった。

 ジン・タオモは、この機会を逃さなかった。学んだ北の国の言葉を駆使して、彼と意思疎通を図ろうとしたのだ。話してみてわかったのだが、幸運なことに、ノージャの街で保護された男は、ジョルマ・フォーツから来た者であった。よい繋がりを得た、と、ジン・タオモは思った。

 それがいけなかった。

 ジン・タオモは、伝説のチーズのことを、喋り過ぎた。特別な力を持ったチーズが王国のどこかにあるかもしれない。それは、自分と同じような肌の色をした女の持ち物であったかもしれない。

 男はある日を境に街から姿を消した。

 ジン・タオモが、己の過ちに気付いたのは、何日も経った後である。パミルから胎に子が宿ったと告げられた次の日、守護者の砂漠巡回の旅についていくべく準備を行っていた時に、彼らは接触してきたのだ。

「ジン・タオモどのとお見受けいたします。貴殿は、伝説のチーズについて、よくご存じのようで。ぜひとも、貴殿らと我が国との親睦を深めるために、貴殿にはジョルマ・フォーツの王宮に来ていただきたく。燭台の谷でお待ち申し上げております」

 ジョルマ・フォーツの紋章の入った皮鎧を身に纏った者たちは、レシテの民アルタンたちがサルアダーンと呼んでいる巨大な鳥を従え、迫力のある笑顔で、ジン・タオモに迫った。

 逃げられなかった。

 その夜、ジン・タオモは、パミルの父親である砂漠の守護者に初めて会い、その場で別れを告げた。

 己は生まれてくるであろう子の姿を見ることはないだろう。その予感が、哀しかった。


 伝説のチーズの情報を集めていたのは、ジン・タオモだけではなかった。

 ジョルマ・フォーツで立ちふさがったのは、ネーロ・ヴォプロという名の、有能なひとりの官吏であった。彼は次代の宰相候補とまで言われるほどの実力者であった。

「南の砂漠には秘宝がある、それはチーズの形をしている……という噂がまことしやかに囁かれているが、それは本当かね、ジン・タオモとやら?」

 ジン・タオモは、ネーロ・ヴォプロの質問に、こう答えた。

「秘宝はございます。が、チーズは、秘宝の鍵となるものでしかありません」

 嘘ではなかった。だが、本当のことでもなかった。その時、ネーロ・ヴォプロは微笑んで、成程、と言ったきりであった。

 それから数年かけて、ジン・タオモは、王宮の宝物庫へ忍び込む経路を探った。

 そうして、全てが寝静まる夜も、全てが活発に動く昼も、人の目を掻い潜って、何度も何度も、宝物庫の探索を行った。どの部屋に何があるのか、何がどの角度で幾つ置いてあるのか、大きな箱に入っているものと小さな箱に入っているものの規則性まで覚えてしまった。宝物の来歴は知らない割に、保管場所については、宝物庫の管理人よりも詳しくなっていた。

 だが、伝説のチーズは、いつまで経っても見つからなかった。

 それらしきものを見付けたのは二十回、チーズだと断定できたのは三回である。焦っていた。母の故郷を取り戻したいという想いも、どんどん募っていっていた。ジン・タオモは、己が伝説のチーズを食って、そのまま渦の中に身を投げればいいとまで思っていた。

 だから、チーズのような白い塊を見付ける度に、口にした。

 そうして、二ヶ月に一度は、腹を壊した。そうして、定期的に体調を崩す変わった見た目の官吏がいるという噂を王宮内にばらまいた。

 ジン・タオモが、下剤――一日で内臓の中にある食べたものが全て下から流れていくという強力な効果のあるものだ――を携帯し、寝込むことを回避するようになってから、八年が経っていた。厠の個室の中で腹痛に苦しみながら涙目で蹲っていると、どこからかやってきた巡回の近衛騎士たちが、こんな話をしているのが聞こえてきた。

「聞いたか? 宰相が交代するらしい」

「聞いたぞ。ナパーノさまは、収賄の罪で家ごとお取り潰しだそうだ」

「新しい宰相は、ネーロ・ヴォプロさまだそうだ」

「噂によると、砂漠の秘宝の鍵とやらを手に入れなさったとか……本当か?」

 ジン・タオモは、腸の中のものを出し切るのを諦めて、厠から出て、走った。

 己が一歩遅かったことを知ったのは、ネーロ・ヴォプロがその椅子に座っているのを視界に入れた時だった。新たなる宰相は、首から下げた小瓶を手に取って、その中で何やら激しく動いているものを眺め回していたが、ふとこちらを向いて、薄く微笑んだのだ。

「ありとあらゆる手を使って、これが特別なものだと知らせてくれたそなたには、礼を言おう、ジン・タオモ。私直属の部下にしてやろう、有難く思うといい」

 ジン・タオモは、己の求めているものを手に入れ損ねたのだ。

 伝説のチーズは宰相の手に渡ってしまった。


 宰相の前から辞したジン・タオモは、王宮の廊下で、腹から訴えてくる便意を無視して、素早くあたりを見回した。

 今や、伝説のチーズは己の手の届かぬところにある。だが、ジン・タオモは、まだ、自分が失敗したとは思いたくなかった。

 そして、気付いた。列柱回廊を行くふたりの王子が、こちらに向けている視線に。ふたりとも、さらりと美しい金髪を胸のあたりまで伸ばしている。第一王子は、優しげに濁った不思議な碧色の目。第二王子は、聡明そうな、澄んだ明るい蒼の目。それが、不思議そうにこちらを見ていたのだ。それは穏やかだったが、ジン・タオモにとっては、己の挙動を咎めているかのように思えた。

「王子……」

 思わず呟くと同時に、ジン・タオモは、官吏や軍人などの人間の入れ替わりが控えていることを思い出していた。己は、その動向を逐一監視している。現在、ふたりの王子の片割れ――聡明であると評判の第二王子カストーノの方だ――を守護する為に傍についている近衛騎士が、辞職を申し出ていた。先日、不幸な事故で崩御したという王と王妃の傍に三十年仕え、王国の柱と共に数々の戦場を潜り抜け、貴人を守護してきた鉄壁の盾と呼ばれた、ひとかどの人物である。その代わりになるような骨のある若者が、ようやっと見つかったとのことだった。

 ジン・タオモは、その若者の姿を遠目に見たことがある。

 盾となれそうな屈強な体躯に、常に相手を威圧しているかのような顔立ち、それでいて無頼漢になりきらない最低限の上品さが動作にあらわれていた。本人の性格は非常に真面目で、努力を惜しまない。思考することは苦手であるそうだが、軍学校を出ているのだから、その辺の官吏よりも仕事は出来るはずだ。さしたる問題はないだろう。今は、燭台の谷で、盗賊の討伐の為に赴いているとのことだった。上がってきている報告によると、伯爵家の次男である彼は、前線に出て戦うよりも、傷病人の世話をすることに一心を注いでいるとのことだった。

 どこでも生き残れそうな人間である。

 ジン・タオモの頭の中を、凄まじい勢いで、策が回り始めた。ジョルマ・フォーツ王国に探りを入れる為、王国との繋がりを欲して、砂漠で王国民と接触することのある守護者の娘を突き止められたのは僥倖だった。強力な女の巫と婚姻を結ぶことができた……その妻の顔が浮かんだ。まだ生まれてもいない子を抱いて、あやしていた。

「そのチーズが本物であることを証明してみせます」

 だから、彼は、己に向かって、言った。策を練って人に頼る選択肢を選びとった罪悪感と襲い来る腹痛を、心と腹の底に押し込めて。

「レシテの民アルタン、タオモ氏族の故郷のために」


 そうして、仕込みを始めて二年経った時、その機会は遂に訪れた。

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