18.侵入者

「いきなり連れ出して悪かった。指輪の意匠については、あなたの好きなものを選んでほしい」

 ジュリアを部屋の前まで送り届けたライディスは、一方的にそう言って背を向けてしまった。


(いつも、ライディス様は私に謝ってばかりだわ)


 きっと、自分の運命のために形だけの夫婦となることを強いたことへの罪悪感からだろう。

 しかし、ジュリアとて同じような打算はあった。

 王子であるライディスに嫁ぐことで、今まで寄ってきていた男たちから逃れられる。

 ミラディアからの嫌がらせは胸が苦しかったが、それも今はもうない。

 ただ、一人でいるのが寂しい。


「ライディス様……」

 部屋の窓から、去っていくライディスの姿を見送る。

 どうして、こんなにも胸が締め付けられるのだろう。

 一秒でも長く、その姿を目に焼き付けておきたい。

 そう、思った時だった。


「ジュリアーっ!」


 突然自分の名を叫ぶ声を聞いたかと思うと、振り返る間もなく後ろから強く抱きしめられた。

 頭の中で警鐘が鳴る。

 助けて。そう言いたいのに恐怖で声が出ない。


「冷酷非道な王子にこんなところに閉じ込められて、毎日虐められているんだろう? 俺が来たからにはもう大丈夫だ」


 抵抗するジュリアをなだめるように、男は優しく言う。

 しかし、ジュリアを縛る腕の力はいっさい優しくはなかった。


(一体、どうやってこの宮殿に入り込んだの⁉)


 というか、誰だ、こいつ。

 虜になった誰かなのは間違いない。

 しかし、この宮殿の警備はライディスの指示で完璧なはずだ。その警備の中、どうやってこの男は侵入したのだろうか。


「そ、そんなことな……っ!」


 男に無理矢理抱き上げられ、ソファに横たえられた。

 そこで初めて、ジュリアは男の顔を見た。筋肉質な、ゴツゴツとした身体を持つ、黒髪短髪の三十代前半といった男だ。

 見習い騎士の服を着ている。

 その黒色の瞳は、舐めるようにじっくりとジュリアを見つめていた。


(本当に、誰なのよ!)


 見覚えのない顔だった。

 一度会話をした人間なら、一応貴族社会に生きる令嬢であるので記憶している。しかし、今ジュリアを押し倒している男はどれだけ記憶を辿っても見つからない。騎士服を着ているが、ジュリアの宮殿の警備をしている男ではないはずだ。

 それとも、見習いだから顔を合わせる機会がなかっただけだろうか。


(でも、この歳で見習い騎士なんて、あり得るの?)


 見習い騎士は、十代前半の若者が多い。

 貴族の子息が王宮の作法を学んだり、つてを作るために騎士見習いとして数年過ごすこともある。本気で騎士として上を目指すのは平民が多いが、こんな歳の見習い騎士など聞いたことがない。

 ソファに押し倒されながらも、一瞬で様々な考えを巡らせていたジュリアだが、男の手がジュリアの胸のあたりに触れた途端、思考はすべて恐怖の前に吹き飛んだ。


「あぁ、愛しいジュリア。やっと君に触れられる」


 上気した頬が、欲情した吐息が、不躾な手が、男のすべてが気持ち悪い。

 鳥肌が立つ。

 それなのに、恐怖で金縛りにあったように動けない。

 ライディスに触れられた時とは全く違っていた。

 ジュリアの足に包帯を巻く彼の、優しい手を思い出して、ジュリアは心の中で強く叫ぶ。


(私に触れていいのは、ライディス様だけよ!)


 その瞬間、ジュリアの意志は運命神の力を上回り、テーブルに置いていた花瓶をおもいきり落とすことに成功した。


 ガッシャーン!


 ジュリアの怒りを表すように、花瓶はものすごい音を立てて割れた。

 そして。


「私に触らないでっ!」


 ジュリアはじたばたと腕や足を使って暴れ、男に必死で抵抗した。

 抵抗されるとは思っていなかったのか、男は驚きながらもさらに強くジュリアを抱きしめてきた。

 まるで、そうすれば大人しくなるとでも思っているように。


(誰か、誰か来て……っ!)


 花瓶の音に、誰かが異変を感じてくれれば、助かる。

 ここは宮殿なのだ。多くの人間がいる。

 ジュリアの読み通り、部屋へ集まる多くの足音が聞こえてきた。


「ジュリア様! どうなさいましたか?」


 外から女官の声がして、ジュリアはほっと胸をなでおろす。助かった。

 しかし、扉が開いて顔を出した面々を見て、ジュリアは自分がはめられたのだと悟った。


「ジュリア様、これはどういうことですの?」


 ミラディアの友人、ヴォルター侯爵家のベロニカだった。

 その後ろには、女官と騎士たちがいる。


「俺とジュリアの邪魔をしないでくれ!」


 ジュリアがしゃべれないようにきつく抱きしめて、男が余計なことを言ってくれた。


「もっとジュリア様と仲良くなりたいと思って宮殿を訪ねたのだけれど、必要なかったようですわね。皆さま、ジュリア様は王子妃となる身でありながら男を連れ込んでいるはしたない女のようですわ。お楽しみのところ、邪魔をしてはいけないわね」


 ベロニカ以外の女官や騎士までもが、男に抱きしめられてドレスを乱したジュリアを見て、ひそひそと何やら話している。

 何を話しているかなんて、聞かなくてもわかる。

 ベロニカはそんな面々を背後に、にっこりと冷たい笑みと共に扉を閉めた。

 また、ジュリアの悪い噂が広まるのだろう。

 目撃者が多い分、信憑性も高いというものだ。


(ライディス様、ごめんなさい……)


 厄介な運命を抱える彼を、自分だけが救えたかもしれないのに。

 この噂が広まれば、さすがにジュリアとの結婚はなくなるだろう。

 あの人の好さそうな国王も、ジュリアを追い出すだろう。

 このまま、ジュリアはこの誰かも分からない男の好きにされてしまうのだろうか。

 ジュリアの目に、涙が浮かんだ。

 その時、部屋の外がざわついた。

 そして、勢いよく部屋の扉が開けられる。

 ジュリアは、男の胸に顔を押しつぶされそうになっていたので、何が起きているのか分からない。


「何をしている」


 ライディスの声だ。それも、ひどく怒っている。

 あぁ、ジュリアは彼にも呆れられてしまったのだ。

 ライディスが来てくれて嬉しいのに、この状況ではあまりに苦しかった。

 男に襲われているようなこんな姿、見られたくなかった。

 どん、という鈍い音がしたかと思うと、ジュリアの視界が広がった。

 圧迫感も消えた。

 何が起きたのか、少し首を傾けるとすぐに分かった。

 ライディスが、男を殴り飛ばしたのだ。

 男は壁にぶつかり、のびていた。


「何をぼうっとしている。早くその男を連れ出せ!」


 怒気を帯びたライディスの命令に、扉付近で様子をうかがっていた騎士が素早く動いた。


「お前たち、全員この部屋から出て行ってくれ」


「しかし、ライディス様……!」


「早く! 出て行け!」


 ベロニカは何かを言いたそうにしていたが、今のライディスは鋭利な刃物のようで、下手に触れてはいけないオーラを放っていた。

 そうして、ライディス以外の人間が部屋から出て行く。

 ジュリアも、何も言えずにいた。

 説明しろ、と言われてもジュリア自身何が起きていたのか分かっていないのだ。

 乱れたドレスを整え、どうしたものかとライディスの背中を見つめる。

「…………」

 ライディスとの二人きり。あまりにも、空気が重かった。

 ライディスはジュリアに背を向けたまま動かない。

 怒っている。当然だろう。

 仮にも婚約者が他の男と部屋で抱き合っていたのだから。

 それがたとえ不可抗力だとしても、簡単に許せるものではないかもしれない。ジュリアにそれだけの隙があったということなのだから。

 謝らなければ。ジュリアがそう思い、息を吸った時、ライディスが振り返った。

 眉間にしわを寄せて、ジュリアを見つめ、苦しそうに言葉を紡ぐ。


「俺のせいで、あなたを危険な目に遭わせてしまった」


「……え?」


 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 当然、責められると思っていたのに。

 どうして、ライディスはジュリアに頭を下げているのだろう。


「あなたを守ると決めたのに、傷つけてばかりだ。本当に、すまない」


「ライディス様のせいではありません! 私も、男が部屋にいることに気付けませんでしたから」


「それでも、俺に責任がある」


 自分を責めてばかりいるライディスに、ジュリアはだんだん腹が立ってきた。

 ライディスは本当に優しすぎる。

 ジュリアを責めたことはないし、ジュリアに何かあればすべて自分のせいだと責任を感じてしまう。


「ライディス様はいつも私に謝ってばかりですわね。でも、そんなに責任を感じているなら、お願いがありますわ」


 ライディスのせいではない、と言っても責任を感じてしまうのなら。

 ジュリアはおもいきって大胆なことを口にした。



「……私を、抱きしめてください」



 あまりの衝撃にライディスの目が点になった。


「……俺は、男だぞ」


「はい。そして、私の婚約者ですわ」


 恐怖が後になって蘇ったのか、さっきからずっと身体が震えているのだ。

 自分ではどうにもならないくらいに。

 それに、男に触れられた時に思ったのだ。

 ライディスになら触れられてもいい、と。

 ライディスにとっては迷惑な話かもしれないが、本当に怖くてたまらないのだ。

 このまま置いて行かれたくはない。

 ライディスのぬくもりで安心させてほしい。


「本当に、大丈夫なのか?」


「ライディス様が私をはしたない女だと思っていないのなら……」


「そんなこと思うはずがないだろう。あなたは何も悪くないんだから」


 この人は、どれだけ優しいのだろうか。

 どれだけ、ジュリアのことを信じてくれているのだろうか。

 こんなにもジュリアを肯定してくれる人に出会ったのは、初めてかもしれない。


「そう思ってくださるなら、私のお願いを聞いてください」


 ライディスに力なく笑みを向けると、彼はゆっくりとジュリアに近づいてきた。そして、ふわりと包み込むようにジュリアの身体を抱きしめる。

 壊れ物を扱うようにそっと、あまりに優しい抱擁にジュリアの目には涙が浮かんでいた。


(やっぱり、全然違うわ)


 ジュリアを襲ったあの男とはまるで違う、ジュリアを気遣う優しい手つき。恐怖に震えていた身体は、少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

 ライディスの広い背におそるおそる手を回すと、それに応えるかのようにライディスの大きな手がジュリアの頭を撫でる。

 あたたかなぬくもりに、ジュリアの中の何かがぷつんと切れた。

 幼い子どもが母親の腕の中で泣くように、ジュリアはライディスの腕の中で声を上げて泣いてしまった。

 そして、ライディスに触れた瞬間、自分の気持ちに気付いてしまった。

 もう誤魔化せない。


 ――私、ライディス様のことが好きだわ。


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