15.不意打ち

 

 ミラディアが出て行ってからしばらくして、ノックの音が聞こえてきた。

 ソファにぐったりと身を預けていたジュリアは、慌てて身だしなみを整える。


「入っても大丈夫か」

 聞こえたライディスの声に、心臓が小さく跳ねた。

 つい先ほど見た光景が頭を過ぎって、緊張してしまう。

 それに、自分からライディスに触れたいと思ってしまったこともあり、なんだか気まずい。

 こんな思いを持っていることをライディスに知られたら、それこそはしたない女だと思われてしまう。

 噂通りの悪女だなどと思われたら、立ち直れる気がしない。


「……え、えぇ。どうぞ」

 ジュリアが緊張しながらも応えると、ゆっくりと扉が開いてライディスが入って来た。

 黒い騎士服越しにもわかる、鍛えられた身体。いつもは硬いその表情は、少しだけ柔らかい。

 ミラディアに会ったからだろうか、と勘繰って、ジュリアは頭を振った。


(私は別に気にしてない、気にしてない)


 心を無理矢理落ち着かせて、ジュリアは改めてライディスを見る。

 急いで馬を駆けてきたのか、黒茶色の髪は少し乱れていた。

 そして、ついさっきまで和らいでいたはずの表情が、何故か変化している。


「無理をしていないか?」

 唐突に問われ、ジュリアは面食らった。

「顔色が悪い。もし体調が悪いなら、結婚式のことは気にせずに休んでいてくれて構わない」

 ライディスの目は本気だった。

 確かにかなり疲れてはいるが、精神的なものだ。

 少し休めば問題ない。ジュリアは慌てて首を振る。

「いえ、少し疲れているだけですわ。すぐに良くなります。結婚式には、ちゃんと私が出ますから!」

 ジュリアを心配してくれるのは有り難いが、そのせいで結婚式に出られないのは嫌だ。

 ミラディアが嘘でもライディスの妻として隣を歩く姿を想像するだけで、胸がざわざわする。

 力を込めて宣言すると、ライディスはふっと表情を和らげた。

「そこまで必死にならなくてもいいだろう。だが、結婚式よりもあなたの身体の方が大切だ。本当に辛かったらすぐに言ってくれ」

 あまりにも優しいその言葉に、ジュリアは戸惑う。

 なんだか、初対面の時に分厚かった壁が、かなり薄くなっているように感じる。

 優しくされると、愛する人のように大切に想われているのだと、勘違いしそうになる。

 ジュリアの意志とは関係なく、胸がどきどきしてしまう。

 ライディスはジュリアを愛している訳ではない。

 ただ、王子としての義務と、女性を守る騎士道精神がそうさせているだけなのだ。

 思い上がりそうになる心を、ジュリアは鎮める。


「その足は、どうしたんだ?」

 隠せていると思っていたが、脱いだヒールがドレスからはみ出していた。

 それも、踵部分には赤い血がついている。

 あ、と言う間もなく、ライディスは目の前に膝をつき、ジュリアの足をそっとすくう。

 素足にライディスの男らしい手が触れて、またもやジュリアの心は乱された。

 怪我人相手だからとはいえ、触れられた方は平静ではいられない。

 しかも婚約者で、王子様で、触れたいと思っていた相手に触れられているのだ。


(なんで、こんなに優しく触れるの……)


 ライディスの手があまりに優しく触れるものだから、恥ずかしくてたまらなかった。

 それに、こうやってライディスに触れられる女性はジュリアだけ……そう思うと、ますます鼓動は速さを増した。


「これは酷い。すぐに治療しないと」

「そんな、大したことではありません」

「駄目だ」

 有無を言わさぬ迫力でそう言って、ライディスはすぐに女官に救急箱を取ってこさせた。

「あの、自分でできますわ」

 ガーゼと包帯を手際良く準備しているライディスに、ジュリアは恐る恐る声をかけた。

 だが、反応はなく、そのまま丁寧に足に包帯が巻かれてしまった。

「あ、ありがとうございます……」

 恥ずかしいのと嬉しいのと申し訳ないのとで、ジュリアの声はか細くなる。

「いや、礼はいい。俺の方こそ、つい心配になってあなたに断りもなく触れてしまって申し訳なかった。俺のせいで、気分は悪くなっていないか?」

 自分の行いを心底悔いているライディスを見て、ジュリアは慌てて頭を振った。

「そんなことはありません! こんなに丁寧に処置していただけて、感謝の言葉しかありませんわ!」

「それならいいんだが……これで感謝だなんて大袈裟だ。騎士団でよく怪我をしている騎士の手当をするからな」

「そうなのですね」

「それはそうと……」

 と、ライディスは言葉を切った。

 そして、少し間をおいてから厳しい表情でジュリアに向き直った。


「どうしてこんなになるまで放っておいた?」


 初めてライディスが怒っているのを見た。

 優しいライディスは、ジュリアを心配して怒ってくれている。

 それだけは、分かる。


「え、と。あの、意地になっておりました」

 本当のことだ。ミラディアに馬鹿にされたくなかったから、ジュリアは痛みに堪えたのだ。ライディスと結婚式に出るために。

「……ミラディアに、何か言われたか?」

 誤魔化したつもりだったのに、勘のいいライディスはすぐに答えを導きだした。

 だから、ジュリアも下手に誤魔化すようなことはしない。

「ライディス様も、私の噂を御存知ですよね?」

「あぁ。あの胸糞悪い噂か。だが、俺は噂話など信じない。それに、あなたは噂に聞く悪女とは似ても似つかない人だ」

 きっぱりと噂話を信じていないというライディスの言葉に、ジュリアは少しほっとした。

 やはりライディスは、噂に肯定的な人間ではないようだ。

 それもそうだろう。ライディス自身、女性の敵だと影で言われているのだから。

「私の知らないところでは事実のようですし、信じている方が多いようですわ。だから、ミラディア様も私のことが気に入らないのでしょう」

「すまない。ミラディアを選んだ俺のせいだ」

 本気でライディスが頭を下げようとするので、ジュリアは止めた。

「やめてください。ライディス様のせいではありませんわ。それに、ミラディア様の気持ちもわかります。だから、ミラディア様を責めたりなさらないでくださいね」

 自分がもし、こんな厄介な運命を背負わされていなかったら。

 きっと普通に婚約者を持っていただろう。

 その婚約者を別の女に取られたら、きっと平気ではいられない。

 ジュリアが悪女という噂を信じているからこそ、みんな好き勝手に言えて、吹っ切ることができるのだ。

 悲しい恋を乗り越えていけるのだ。

 ジュリアが何も言わずに受け止めておけば、彼女たちは満足する。

 今まで、ジュリアはそうして嵐が過ぎるのをただ待っていた。

 しかし、今回のミラディアに対しては、それがうまくできていない。


「あなたは、本当に優しいな」


 ライディスに柔らかな笑みを向けられ、ジュリアは息を呑んだ。


(どうしてこの人はこんな不意打ちばかり……)


 ライディスの前では、心臓がいくつあっても足りないような気がする。

 ジュリアは赤面する頬を抑え、視線を落とした。


「わかった。だが、あなたのこの足が治るまでは、式は挙げない。ダンスや礼儀作法の練習も禁止だ。これだけは譲れない」

 無理はするな、と言い置いて、ライディスは出て行った。

 結局、結婚式の打ち合わせのはずだったのに、ライディスは何も話してくれなかった。

 ジュリアが無理をしないためだろう。

 普段は無愛想な彼の優しい一面に、ジュリアは苦笑を漏らす。


「ライディス様こそ、優し過ぎるわ」


 ジュリアは、包帯が巻かれた足にそっと触れた。

 そこには、ライディスの手の感触がずっと残っている。

 

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