3.勘違い男からの逃走
会っていなかった期間のサーシャの話を聞いたり、互いに近況報告をしていると、あっという間に夕方になった。
二人だけのお茶会を開いてくれたサーシャに礼を言い、ジュリアはリナード伯爵邸を出た。
(ふふ、サーシャったら相変わらずだったわね)
馬車に揺られながら、サーシャとの他愛もない話を思い出し、ジュリアの顔には自然と笑みがこぼれる。
王都ベリーシュルツの街を抜け、平地が続く道を進めばメイロード男爵邸がある。リナード伯爵邸からメイロード男爵邸までは、一時間ほどかかる。その間、馬車の窓から王都の様子を眺めるのが、ジュリアの楽しみでもあった。
石畳で整備された王都は、馬車に乗っていても大きな揺れを感じることはなく、とても快適だ。運命神ディラの導きによって建国されたといわれているこのケースティン王国は、その街のかたちまでディラ好みのものだという。
真っ直ぐな道と曲がりくねった道、四角い路地と丸い路地、規則性のないかたちの建物と道が交錯し、王都は迷路のようになっている。しかしそれでいて活気に溢れ、商売人も通行人も観光客もみな明るい表情を浮かべている。
(遠くから見ているだけなら、大丈夫なのに)
外には、ジュリアが見ることのできない普通の男性の姿がある。
運命神の祝福さえなければ、ジュリアも誰かと普通に恋に落ちたかもしれない。でも、それはもうあり得ないことだ。
ジュリアが窓の外から視線を外した時、馬車が凄まじい音を立てて急停止した。
「な、何……? 何が起きたの?」
突然のことにおもいきり椅子から投げ出され、ジュリアは馬車内で転がっていた。痛む身体に力を入れて起き上がろうとしたと同時に、馬車の扉が開かれた。当然、御者が事情説明に来たのだと思った。
しかし、その扉の外に立っていたのは、どこか見覚えのある、しかし誰だか分からない若い男だった。
「あぁ、ジュリア。待たせてしまってごめんよ。さあ、僕と結婚しよう!」
にっこりときれいに笑ってみせたその男は、細身の長身で、なかなか整った顔立ちをしていた。
しかし、ジュリアにとって男はもうどんな見た目でも嫌悪の対象だった。
彼がかきあげた長い金髪と輝く翠の瞳に、ジュリアはあの時助けた男だと直感した。
今朝、見慣れない名前だったので一応中身を確認した手紙の送り主だ。
たしか、フレディ伯とかなんとか書いていた気がする。おそらく伯爵なのだろう。
しかしここでジュリアが名を呼べば、ますます勘違いに拍車がかかることは明白だ。ジュリアはひとまず、この馬車の中という密室から脱する必要があった。
「あの、ごめんなさい。突然のことなので、落ち着いて考えるためにも少し外の空気が吸いたいわ」
〈異性を虜にする運命〉にあるジュリアは、異性に対して辛辣な言葉や拒絶の言葉を述べることができない。
だから、やんわりと遠回しに避けていくしかないのだ。こういう場面に陥った時、ジュリアは運命神ディラを心の底から呪っている。
「そうだよね。僕がエスコートしよう」
そう言って、フレディ伯は剣も握ったことがないような手でジュリアの手を取った。
咄嗟に振り払いそうになったが、なんとか我慢した。
馬車の外に出ると、そこは先ほどまでいた人込みではなく、閑散とした寂しい場所だった。王都にも、こんな寂れた場所があったとは知らなかった。
しかし、今はそれどころではない。まわりに人がいないのだ。
逃げてもすぐに追い付かれるかもしれない。
それに、フレディ伯はジュリアの手を強く握って離そうとしない。
気持ち悪い。
「これから、僕の屋敷で結婚式を挙げよう。君のウェディングドレスはもう用意しているよ。もう、君は寂しい思いをしなくていいんだ」
その上、訳の分からないことを言い出した。
(このままじゃ、本当に屋敷に連れていかれてしまうわ!)
フレディ伯の目は本気だった。というか、ジュリアに言い寄ってくる男で本気ではない者などいなかった。
それはもう、恐ろしいほどに。
「……あの、緊張してしまうので、手を離して頂けませんか?」
上目遣いでフレディ伯を見上げると、彼はすんなりと手を離してくれた。
今のうちに、とジュリアは踵を返す。
「あぁ、鬼ごっこかい? ジュリアは可愛いなぁ」
と、ふざけたことを抜かしながらフレディ伯が追いかけてくる。
とにかく走る。
高いヒールが邪魔だ。ジュリアはすぐに脱ぎ捨てる。
人を見つけて助けてもらおう。
しかし、スカートが重くてあまり早く走れない。さすがにスカートをここで脱ぐ訳にはいかない。
どうすれば……。
入り組んだ街のかたちと、鬼ごっこだと思っているフレディ伯が少し手加減してくれているおかげで、今のところ追い付かれていない。とは言え、一定の距離で彼の足音は追ってきた。
少しずつ、息があがってくる。
ただでさえ走りなれない足は悲鳴をあげて、馬車が急停止した時に打った部分が今になって痛みを主張してくる。
「だ、だれか……! 誰か助けて!」
走っても走っても、人通りの多いメインストリートにはたどり着けない。
もしかしたら、逆方向に走ってきたのかもしれない。
フレディ伯の足音はどんどん近づいてくる。怖い。
ジュリアは助けてと叫びながら、とにかく走った。
そして、ある路地に差し掛かった時、どんっとおもいきり人にぶつかった。
全速力で走っていたために、ぶつかった相手にもかなりの衝撃が走ったはずだが、その人はしっかりとジュリアを受け止めていた。
「すみませんっ……あの、助けてください!」
反射的にその人からは離れ、ジュリアは相手の顔を見ることなく頭を下げた。そして、顔を上げた時には、ひどい後悔が押し寄せていた。
二十代前半の、若い男だ。
それも、女性が放ってはおかないだろう、精悍な顔立ちをした男。
ここでまた、この男がジュリアの虜になってしまったら、後々面倒なことになるに違いない。
しかし、男は黙っている。夕暮れを背に黒茶色の短髪が陰り、きれいな藍色の瞳は、何か信じられないものを見るような目でジュリアをじっと見ている。
その視線が、今までの男たちのように色気に満ちた誘うようなものでも、うっとりと恋に落ちたようなものでもなく、ただ本当に衝撃を受けているようだったので、ジュリアはどうしたものかと視線を泳がせた。
そして、目の前の男がただの通行人ではないことに気が付いた。
彼が着ていたのは、王国軍の第一騎士団、通称『ディラエルト』の騎士服だった。
黒を基調とした生地に、青と赤で細かい刺繍が走っている。
こんな間近で見たことはないが、この騎士服は間違いなくディラエルトだ。堅実な第一王子が団長を務め、王都の治安維持に貢献しているという、あのディラエルトだ。
それを意識すると、ジュリアは心から安堵した。さすがに王国の騎士が異性に振り回されることはないだろう……と信じたい。
目の前の彼はまだ衝撃から立ち直っていないようだった。
新しい反応ではあったが、やはりジュリアの虜になってしまったのだろうか。
後ろにいる騎士団の面々も、同じように衝撃を受けている。ジュリアにはその意味がよく分からない。
ただ、今言えることはひとつ。
「ジュリア~? どこまでいっても、僕が君を逃がすはずないだろう。ちゃんと僕のもとに帰ってきてくれるよね」
この勘違い男から逃げなければならない、ということ。
フレディ伯の声が聞こえてきた瞬間、目の前の騎士は素早く動いた。
「うぐぁっ!」
まさに瞬殺だった。
ジュリアは呆然と気を失っているフレディ伯を見つめる。
そして、もう逃げなくてもいいのだと思うと、先ほどまでの恐怖と痛みで腰が抜けてしまった。
へたり、と座り込むジュリアを見て、救ってくれた黒茶色の髪の騎士は、おそるおそる手を差し出した。
何故かビクついているように見える。
もしかすると、この人は自分とは逆で女嫌いなのだろうか。
そんなことを思いながら、ジュリアはその手を取った。
その次の瞬間、見守っていた騎士たちが歓声をあげた。
「おぉぉぉっ……!」
「つ、ついに団長が!」
「やりましたねっ!」
ただ手を取っただけ、立たせてもらっただけである。
ジュリアは不思議な心地で自分の手を見つめる。何も特別なことはないように思う。
「……家まで、送っていこう」
助けてくれた彼がようやく発した言葉に、ジュリアはこくりと頷いた。
内心では、首を傾げながら。
虜になった男には珍しく、騎士は全くジュリアを口説こうとしなかった。というよりも、ジュリアのことを警戒しながらもじっと観察しているようだった。
その様子を見て、今までの自分もこういう風に異性を見ていたのかなと思うと少し申し訳ない気持ちになった。
終始無言のまま、ジュリアはメイロード男爵邸に送り届けられた。
メイロード男爵家の馬車ではなく、王家の紋章が入った騎士団の馬車に乗って帰ってきた娘を見て、母は卒倒しそうだった。黒茶色の髪を持つ騎士は、ジュリアに何を言うでもなく、あっさりと帰っていった。
「……あんな反応、はじめてだわ」
去っていく馬車の影を目で追いながら、ジュリアは呟いた。
誘拐されかけ、怪我をして、怖い思いをしただろう、と両親はジュリアにゆっくりと部屋で休むようにと告げた。
かなり心配してくれた二人を見て、内心でジュリアは拳を握っていた。
これは、使えるかもしれない! と。
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