7話 神仕えの女
──水に沈まば
船乗りの警句を思い浮かべながら、バシリオ=ルカスは螺旋階段に足をかけた。
あのルドミラと名乗った女。会ったばかりのおのれを害しても利はないはずだ。反対に、おのれを歓待するのであれば、何か腹がある。
(紹介したい、か)
どんな紹介なのか見てみたい──バシリオ=ルカスは口の端を上げた。過ちを冒すのは、いつも好奇心からだった。後先を考えるよりも、次を見たいという恐いもの見たさが抑えきれなくなる。
──俺に用があるとは、どんな奴だ。
目の前を素足が踊るように行く。足の爪を紅く染め、
ふと、ここは娼館であると思い出し、バシリオ=ルカスは、赤と黒と白の鮮やかなコントラストから目をそらした。
最上階への踊り場で、ルドミラの足を止まった。
「あんた、なんで来たの」
肩越しに振り返った目は、少し咎めるようだ。
「さあ。招いたのはおまえだろう。俺の大剣をさっさと返してくれ」
「来たのはあんただ。あの時別れておけばよかったと思うよ、必ず」
女の意図がわからない。
「ならば、なぜ誘った」
「運命」
バシリオ=ルカスは眉を上げた。
「あたしとあんたは、今、ここで交わった。それは動かしがたい事実だ」
酒場での取り憑かれたようなものいいではないが、妙に確信めいていた。
「なるほど。それは確かに事実だな」
「事実には、逆らえない」
神託のようだった。神の言葉を宣託する巫女のような口調だ。
この女、かつては神殿の巫女だったのかもしれない──バシリオ=ルカスは思った。巫女に限らず、身を持ち崩す神仕えは多い。
「そして、運命は避けられないからね」
「嫌なことを言うな」
黙っていると、ルドミラの言う運命とやらに取り込まれそうだ。
「さあ、俺に会いたいという奴にさっさと紹介してくれ」
ルドミラは口の端を上げた。
バシリオ=ルカスは、ルドミラの思惑にはまったと悟りつつも、おのれから請うたことに不思議と後悔はなかった。
運命は過酷だ。息をするのが苦しいほどに。
それは、すでに身をもって知っていた。
最上階は五階だった。吹き抜けの壁面を伝うような、金属の梯子状の通路を行くと、建物の左右にある大きな扉に着く。両開きの扉には花鳥が木彫され、簡素な真鍮のノブが付いていた。
ルドミラは声もなく、ノックもせずにその扉を押し開けた。
風に乗ってよい香りが吹いてきた。淡い花の香りは、一歩踏み込んだ途端、重苦しい斑虫花のにおいとなる。
最初に目に入ったのは、広い部屋の中央にある丸い球状のものだ。金属の細かい細工を施した、よくある天球儀ほどの大きさだ。香気はそこから流れているようだった。
部屋全体は薄暗い。窓に薄物が二重にかかっており、陽光の陰影が、風に乗って柔らかなコントラスを描いていた。
木彫の調度をそろえた部屋は、北方を思い起こさせる意匠だ。
そして丸い球体の向こうに海の向こう、オマール様式の大きな寝椅子があった。店先の大漢二人が、共に寝られそうな大きさだ。
そこに、しどけなく女が寝そべっていた。
若くもないが年寄りでもない。豊満な肉体を横たえ、白髪とも見える銀の髪を、白玉の笄一本で結い上げていた。さらに白一色の長衣をまとい、少し胸高に締めた飾り帯には細かな宝玉が散っている。むき出しの肩から、豊かな胸元にかかる薄物も白だ。
女は肘枕のまま、ゆるりと見上げてきた。感情の読めない傲岸な眸は、血色の紅玉のような赤だ。
ルドミラは踊るような足取りのまま、寝椅子の背後に回わり、女の首を抱くようにして頬に口付けた。
「ほら、自分で来たよ」
「ああ、よい子だね。ルドミラ」
女にしては太い声だ。それよりも命令し慣れた声の張りに、バシリオ=ルカスは眉を上げた。
女は座れとも話せとも言わず、バシリオ=ルカスを紅い眼差しで見上げた。頭から足先まで、何度も見返す。
「この男か」
問うたのはルドミラへ、だ。豚の品評でもしているような口調だ。
「間違いない。間違えようがない」
「そうだねえ」
女は愛おしげにルドミラの頬を撫でると、首筋を引き寄せて口付けた。
「さあ。あっちへおいき。おまえは十分役目を果たした」
ルドミラは名残惜しそうにしていたが、同じ踊るような足取りで部屋を出ると、重い、木彫の扉を閉じた。
閉める間際、バシリオ=ルカスへ視線を投げたが、深い、跪くような礼に紛れて見えなくなった。
「ああ、これで二人きりだね」
女は言って、水が流れるように立ち上がった。
バシリオ=ルカスは思わず一歩引く。女の動きに驚いたのではない。
おのれも決して小兵ではないが、目の前の女は、優におのれの背丈をこえていた。
「なんて顔をしておいでだい」
真紅の眸を細めながら、女は蕩けた飴をしゃぶるような声音で言った。
(続く)
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