2話 悔やむ者
丸みを帯びた水平線が、紺碧の空とともに世界の端まで広がっている。切り立った崖の下では、波濤が真っ白に砕け散っていた。
雲一つない、まさに地中海日和である。
「──旦那」
傍らの男が、のんびりと声をあげた。
着古した長衣の袖を肩までめくり、懐に入れた手で胸のあたりを掻きむしっている。
春とはいえ、まだ霜の降りる朝もある。あまりの軽装に見ている方が寒そうだ。ずんぐりとした身体つきに見合う、鍛え上げた太い脚は、軽快に歩を進める。
「絶景ですなあ」
「おまえ、臭うぞ」
男は鼻で笑った。
「人のことを言えるかね」
彼も笑い、もとの色がわからぬほどくたびれた
背は高い。寒さよけの長衣の上からも、鍛え上げられた武人のそれとわかる。落ち着いた物腰と、苦難が刻まれた顔つきだが、おそらく二十代半ばといったところだろう。
ずんぐり男は崖の先に立ち、両手を大きく広げ、振り向いた。
「旦那、その金の目ん玉ほじくって、よぉく見なせえや」
芝居がかった仕草で、突き出た半島を示した。
「あれこそがエダル。麗しのエダル・ルシウ──名高い青の海都ですぜ!」
湾曲した入江に沿って、大きな街が見えた。白い壁、煉瓦色の屋根が浜辺ぎりぎりまで続き、それら囲んで強固な城壁と尖塔が聳えていた。塔には五色の旗が吹き流れ、切り立つ崖に沿っていくつもの屋形がある。
その街を抱き込むように、鰐口のような深い入り江。岬の先端には彫像を模した双子の灯台があった。
「ああ。そのようだね」
「ちったあ感動してくださいよ、バシリオの旦那。それに、今夜はやっと宿で眠れる。風呂はもちろん酒場もある。女だってよりどりみどりだ」
「好きにしろ。俺は寝る」
旦那と呼ぶが、ずんぐり男のほうが、十は年上のようである。
リコことリコベルトは背負った荷物のなかから、薄い冊子を出した。大事な街道筋の宿屋番付だ。開いて物色する。
「今晩の宿は、星三つならいうことねえが、一つあたりで手をうちましょうや。あそこはなんでもばか高い」
「まかせるよ」
「仰せのとおりに」
仰々しく一礼してみせると、リコは軽い足取りで先を行った。
バシリオ=ルカスは、潮風を楽しみながら、もう一度水平線を振り返った。
あてのない旅路について、すでに四度目の春である。
健脚を自負しているとはいえ、エダル山脈越えは難所の連続だった。完治した古傷がふたたび痛みだしていた。
(俺にはまず、熱風呂だな)
有名な海焔風呂とやらに入って、芯から温まりたかった。
温まったところで、奥底にある冷たい塊が溶けることはないが──。
見晴らしの崖からルシウ・エダルの関門までは、まだ半日の旅程である。
(そういえば)
あの街に行ってみたいと、あのひとは言っていた。船に乗って、世界を旅したいと。優しげな外見を違えて、冒険家の心を持つひとだった。
──私たちは、一緒に行く。いつか、必ず!
──そうして、あなたが、私に永遠についてくる。ヨボヨボのおじいちゃんとおばあちゃんになるまでね。
──バシリオ=ルカス、あなたは戻らなければならない。私はここで待っている。何か起ころうと、何があろうと、あなたを待つ。だから、戦場へ戻りなさい。あなたの唯一の務めを果たしなさい!
──バシリオ。私たちだけの幸せなんていらない。ありえない。これっぽっちも。
バシリオは首をふり、瞑目した。
傷の痛みは癒える。こうやってまた歩けるようになった。
心も癒える。ようやく笑えるようになった。
しかし、記憶の傷はいつまでたっても乾かない。
じくじくと膿み続け、口を開けたまま肉が風に晒されているようだった。
(続く)
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