海洋都市エダルの興亡
濱口 佳和
海洋都市エダル・ルシウの興亡
一章 邂逅
1話 帰る者
──帰ってきた。
波間に見え隠れする尖塔に、エダールは微かに肩をふるわせた。
甲板を踏む足に力がはいる。高揚とも戦慄ともつかぬ昂ぶりが腹の奥からこみ上げてきた。それとはわからぬほどに食い縛った歯の奥から、かすかなうめき声がもれる。
上陸に向けた騒ぎのなかで、誰ひとりとしてかれに注意を払う者はいない。
一息つき、のど元に指をのばした。触れた傷跡のうねりに、高揚は
(そうだ。沈め。沈め。光の届かぬ水底へ沈め)
エダールは、おのれのひとらしさにうんざりする。
あれほどの目に遭ったというのに、すべてが、みな、懐かしかったのだ。
甲板に立ち、慣れた風を受けるうちに、穏やかな母の胎内にいるかのような安らぎがこみ上げてくる。
このにおい、肌にあたる風、波の音、響き渡る
転じると、海岸線に沿って数え切れぬほどの尖塔が続き、北西からの海風に、吹き流しの旗が大きく翻っている。灰褐色のエダル山脈を背に、あまたの紋章と館の色を帯びて生き物のようにうごめいている。
鰐口様の入江の両端には、巨大な彫像がそびえ立つ。
塗られた色は青だ。蒼海のあお。嵐をよぶ蒼である。
甲板に立つかれの周りを湿った風が吹き抜けていく。
頭巾からはみでた髪がいく筋か揺れる。
赤い、凝った血のような
それは、忌むべき色だった。
のちにいう、五人の
──願わくば西の御方に幸いあれ。
だが、港町は港町であった。
好むと好まざるとにかかわらず、忌むべき新しいものは吸収されていく。厄災はわずかな希みへと変じ、迷信と慣習は薄くなってひき伸ばされた。
しかし、それでも「災い」は結局、「災い」なのだ。
──私は帰ってきた。
帰郷というには遠い、望まぬ虜囚からの解放であったが、帰郷には違いない。
と、心の臓に刺すような痛みを感じてエダールは瞑目する。
もう、ここは
エダル・ルシウ──青の居館のルシウはもうこの世にはいない。繋がれた異国の獄で死んだ。拷問の果て、飢餓と苦痛に錯乱し、糞尿にまみれて狂死した。遺体は裂かれ、焼かれたはずだ。
ここにある肉体は器、魂は亡霊。
「〈眼〉がくるぞー!」
喫水までを砂漠の色に塗った商館組合の監視船が、はしけを離れて舳先をこちらへ向けた。
波間を進む海鳥のようなその姿は、この都市を護る真の要である。二つの大国に挟まれ、交易のみで名をはせる青の海都が、これまで命運を保ってきたのは、彼らの献身的な働きゆえであった。
だが、それは秘中の秘。おのれの名に結びつく
「客人、風が冷たい。下へ降りるがいい」
航海長は、エダールの肩をそっと押した。北方の磁器を扱うようなそろりとした仕草だ。
「わかった」
潰れたのどがうめくような声を発した。かつては七つの海都に響いた美声であったというのに、嗄れた老人のような生気のない息が漏れていくだけだった。
航海長は、エダールへ痛ましげな眼差しを向け、無言で立ち働く男たちのなかへ戻っていった。
──ああ、来る。
どのような責め苦も、彼からそれを奪うことはできなかった。失ったものの嵩だけより鋭敏に、強く、光のように彼のなかを満たしていった。
それは飢え、だった。
肉体の飢餓ではない。魂の渇望だ。かたちがないだけに抑制も効かない。求めて、求めて、求め尽くすことでおのれが狂い始めることを知った。
光に集まる蛾のように、光源に向かっていくおのれを止められない。ともに溶けて解放しそうになる。
それをいつも寸前で押しとどめるのは、左の手首につけた銅の腕輪と、首の傷跡だった。そして、此処に至るまでの記憶の檻だ。
エダールは遠景に目を眇めると、踵を返し、船室へ続く階段を降りた。
航海長の大音声を合図に、船は帆を畳み凪いだ水面を滑りだした。
交易船としては、むしろ小型に属するだろう。
だが、飛び抜けて美しい船だった。
首をのばした大白鳥のような優美な曲線を舳先へと結び、強固にしなる白く細い
「──久しぶりの故郷はいかがですかな」
もっとも広い船室はサロンのように飾り立てられていた。この商船の主人である、デ・ブレダ公トマゾは長椅子に寝そべり、白黒盤の
まだ若い。百に近い老齢であった前デ・ブレダ公が死去し、末子のトマゾが後嗣となった。末子相続を旨とするアルコスタは、代替わりそのものより、代替わりするまでが混乱の極みとなる。
三年に渡った抗争を生き抜いたトマゾは、あらゆる意味で権謀術数の巧者と言えよう。
そのトマゾが生きる亡霊のようなエダールの姿に目を細め、わからない程に口唇を歪めた。
その時だった。
扉を叩く音とともに、航海長が用件を告げた。
「
扉が開き、
「無礼ぞ」
トマゾは、犬に餌でも投げるような口調で言った。
「ご寛恕くださいませ。われらも務めゆえ」
それには答えず、トマゾは相手が存在しないかのように盤上の趨勢に集中している。
エダールは無防備に立っていた。おのれを凪いだ波のように保つ。見知った顔はない。若い能力者にとって、エダールはすでに伝説だろう。
「この者は」
と、航海長がエダールを指して言った。
「この者は、お館様が気まぐれで雇った星見。盲いておりますゆえ、触ることがあるかもしれません」
エダールの頭巾からはみ出る赤い髪に、見番らは
「ミュゾルテの御足下に凪の永遠なることを」
見番らは定められた呪言を呟くと、深く拝礼し、去っていった。
「さて、これで上陸できますな」
「デ・ブレンダにとって方位が悪い。夜半、日が変わったのち船を着けてはどうだ」
「仰せのままに」
航海長も深く拝礼し、去っていった。
「これでよいか、眼の長殿」
「エダル・ルシウはこの世に亡い。己はただの盲目の星見だ」
「確かに」
トマゾは身を起こした。
「
エダールはその場に拝跪した。感謝とも詫びともとれる恭しさで優雅に一礼した。
そして、トマゾに背を向けその場を後にした。
(続く)
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