遅れてきた花婿

 入院できる期間は三ヶ月。


 外出もできるようになり、それなりに順調に回復していた、おまけの倫礼だったが、大きな壁が彼女の前に立ちはだかっていた。


 病院の近くにあるドラッグストアに、他の患者に誘われ行ったが、店内に入った途端、彼女は自身の病状がどれほど悪化していたのかを知った。


「こんなに店の電気明るかったかな? 目がチカチカして買い物ができない」


 商品棚の間で、戸惑いを隠せない彼女は立っているのもやっとになっていた。


「商品のパッケージとか情報量が多い感じで、自分の体がついていかない……」


 あの不協和音がずっと鳴り響いているような狂った日常生活を経ての入院。慣れない生活に、これから先の未来の不安が膨らんでゆく予感が漂っていた。


 それでも、入院期間の終了はやってきた。


 東京でひとりで暮らしてきた日々は終わりを告げた。今の倫礼には、ひとりで暮らしていける気力はどこにもなかった。


 家族に連絡をして、七年半続いた失踪生活は終わりを告げた。精神障害者となって戻ってきた彼女を、責める家族はもう誰もいなかった。


 東京の主要駅で地方へと行く電車に乗ろうと、駅で待っているだけで、倫礼は恐怖に駆られる。


(電車に乗るのが怖い。トイレに行けないかもしれないと思うと、とても怖い。今まで平気だったのに、できてたことができなくなってる……)


 久しぶりに戻った実家だったが、彼女は変わっても、向上心のない家族が変わるはずもなかった。


 誰も彼女を理解する人はいなかった。しかし、彼女は大きく成長していた。失踪している間に人から教えてもらったことだ。


 ――人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる。


 彼女は思い返す。三十代の頃、一度目の離婚をして戻ってきた時のことを。どれほど、自身が子供だったのかと気づいた。


 親が子供を理解するとは限らない。親だって人間で、神様ではない。だから、期待をしてはいけないのだ。わかってほしいと。それは裏を返せば、相手の気持ちを変えようという心の現れだ。


 倫礼は人にしがみつかなくなった。自身のことは自分でする。誰にも頼らない。理解されなくても、この世界でたったひとりになってしまっても、自分の信じた道は押し通す。


 それは、誰にも頼ることができない、たったひとりの生活の中で身に付けたきた知恵と技術だった。理論と感覚を合わせた方法だった。


 怒鳴り声が家の中で響く時は、イヤフォンをして音楽を大きくする。そうして、知らないふりをする。


 他の人に関わるだけの余裕は彼女にはない。いや関わりたくないのだ。そんなことをしたら、躁状態に転じて、家族を殺すのだろう。いつかのように、刃物を振り回すだろう。


 双極性障害の薬は、高血圧の薬と同じだと、家族は思っている。飲めば普通の生活ができると。


 理解されないと困ることは、相手が怒鳴ろうとも、罵声を浴びせようとも、ただ静かに、


「違う」


 と言い続けることで、相手は落ち着かざるを得ない。自分だけが怒っているのが、バカバカしく思え、恥ずかしいと思うからだ。


 怒鳴っていうことを聞かせようとする人間は、いつも自分のレベルの低さに怯えているのだ。だから、相手のペースに飲み込まれないことだ。


 言葉を話すことができない他の種族と同じなのだ。こちらが怯えたり、怒りをむき出しにすれば、相手も同じように怖がり、その裏返して、攻撃される前に攻撃するの図が出来上がってしまう。


 それでも収まらない時は、ありがとうと一言嘘でもいいから、感謝を口にすればいいのだ。それくらいの嘘をつけるほど、彼女はしたたかになっていた。倫礼はそれを、あの昼夜逆転している街で働いた時に技術を手に入れたのだ。


 人の心を無視して、動かそうとする人間など、相手を思いやることが当たり前の世界に住む神と話してきた、彼女にとってはどうでもいい人なのだ。道端ですれ違う人と同じ。そう思うと、相手の挑発にも乗らないし、相手が何をしてこようとも、


 人との距離感を取るという、究極のいただきへと昇ると、相手が自身の望む通りに罠にはまろうが、手の内がバレバレの嘘をついてきたとしても、それさえもどうでもいいのだ。それが、関わらないということだ。


 人生は勝ち負けではない。もっと大事なことがある。倫礼は知っていた。死んだあとにも続くような、心の成長をするために生きているのだ。


 年齢を重ねると、人生のレベルは上がるのだ。それは様々な制限がついてくる。若い頃のように、やる気という感情だけでは進めなくなってくる。だからこそ、人生は面白いのだ。


 理論を使う。感情はまず切り捨てる。もともと好きで仕方がない思考回路だ、倫礼はとっては。それが少しできるようになってきたことに、喜びを感じる。


 冷静に病気のことを考える。


 薬を飲んで、病状を抑えられるのなら、精神障害者の認定は受けない。つまりは、薬は気分を安定させる助けにはなるが、自身が努力し続けないと、病状は悪化する。


 鬱になれば、自殺する――自身を殺す。

 躁になれば、誰かを殺す。

 極端だから、病名が双極性障害なのだ。


 大袈裟ではなく、最悪のことも考えて生きてゆくのだ。取り返しがつかなくなる前に、事実から可能性を導き出して、対策を練っておくのだ。


 ガタガタ道を車で走ってゆき、タイヤがぬかるみにはまり、抜け出せないように彼女の体調は狂っていた。


 二階建ての上階にいるだけで、地震でもないのに、怖くて仕方がなくなるのだ。


「こんなことあり得ないのに、建物が崩れて落ちそうで怖い……」


 体が左へ左へと傾いてゆく。好きなことをして回復しようと思っても、そこにも壁があった。


「リズムが取れなくなってる。プロを目指した時もあったのに、強弱がめちゃくちゃになってる。もう昔みたいに、歌えないのかな?」


 一人きりの夜など何年もあった彼女だったが、薬を飲んで布団に入るととても怖くなった。


「眠るのが怖い……。こんなこと今まで一度もなかったのに……」


 眠らなければ、病状に影響が出るのはわかり切っていた。だが、焦れば焦るほど眠れなくなる。携帯電話を取り出し、バックライトが寝室ににじむ。


「調べてみよう。眠ることが怖い人、他にもいるかな?」


 出てきた検索結果を読み、彼女の心は軽くなる。


「死を連想させるから、怖い人がいるみたいだ。みんなはそれでも眠ってるんだ。一生懸命前に進んでるんだ。だから、自分も恐怖心がなくなるようにしよう」


 彼女はそうやって、はいつくばっても前へ進んでゆく。


 東京からいきなり田舎へやって来て、夜景の光の少なさに寂しさを覚え、人の少なさに寂しさを覚え、遠くの山が見渡せる建物の低さにも寂しさを覚え、それでも、彼女は少しずつ回復していった。


 病院では十分できなかった、自身の病気についての本を購入して、一冊ずつ丁寧に読み進めてゆく。


「ん〜、なるほどね。発症は二十五歳以下。自分は二十歳だと思う。あの時からおかしいと思うことが起き始めた。最初は鬱状態」


 言葉が言えなくなったのは、昔もあったのだ。それを自分はおかしいと思うだけで、対処はしなかった。


 発病から二十四年になる日々を思い出してゆく。


「それから三、四年後に躁状態だったのかもしれない。包丁で刺し殺しそうになったのはそうだと思う」


 雨に濡れたり、急に出かけたくなったり、配偶者に食器を投げつけて、修羅場だった。


「本には、イライラして会社に辞表を叩きつけて急に辞めるとか書いてある。それから、記憶に残らないのも症状であるらしい」


 全て自分の性格のせいだと、責めてばかりだったが、誰も理解してくれなかったが、病気だとわかれば、自分を少しだけ許せて、鬱状態にたどり着くことから回避できる可能性は上がるだろう。


 一回目の離婚をした時のことを思い出した。


「その後、また鬱状態になって……」


 何かが引き金で、病状は悪化するのだ。


「この家で、暴力を振るった時に躁に転じた」


 そうして、今まで病気だと見逃してきた自身に課せられた大きなハンディがあった。


「この病気は治療が遅れると、鬱状態と躁状態に変わるサイクルがどんどん早くなってゆく、ラビッドサイクルというものが起きるらしい」


 きちんと病気と向き合ってこなかった分、ずいぶんと病状は進んでしまったのかもしれない。それでも、彼女は本から書き出した内容を、ノートの上で読んでいた。


「自分は今どこまできてるんだろう? それを知るためにも、記録をつけたほうがいいって書いてある」


 持っていたパソコンは酒と水をこぼして、今はただの箱と化していた。小説を書くために、大量に買ったノートを段ボール箱から取り出してきた。


 もうタイトルまで書いて、真面目な彼女は準備万端だった。


 昔の恋を思い出したとしても、心は痛まなかった。もう今年で四十四歳だ。青の王子を愛した時は三十歳。何もかもが若かった。


 あれから十四年が過ぎようとしていたが、今でもあの行動は奇妙だった。


「寝不足で気絶したことがあったでしょ? あれは躁状態だったよね。ここに書いてある。眠らなくても平気で活動できるようになるって」


 変なところで意地を張るくせに、基本的に素直な彼女は、うんうんと何度もうなずき、自身の糧として心に取り入れてゆく。


「ということは、規則正しい生活。夜更かしはしないってことだ。とりあえず、食事の時間をずらさないで、夜もきちんと十時には寝よう。病院で生活してたようにしよう」


 生まれてこの方、病気というものをほとんどせず、痛みというものも感じず、恵まれた体で生きて来たことを、彼女は今反省する。


「自分の体が丈夫だから過信してきたんだ。それが一番弱い脳に出たのかもしれない」


 そうして、障害者としてどんなハンディキャップを追ったのかにたどり着いた。


「薬が開発されない限り、一生、鬱状態と躁状態にならないように、自分をコントロールし続けないといけない。一日だって、徹夜はできない」


 テレビを見て、昼過ぎに散歩に出かける。それが彼女の日課となった。冬から春へと変わってゆく空を見上げ、ひとりベンチで風に吹かれる。


「気持ちがいい。静かだ……」


 目を閉じて、神の恵みを全身で感じる。適切な治療がされなかった二十四年間を振り返る。


 喜怒哀楽という感情に、戦車か何か大きなもので引っ張る回されるようだった。心がざわつかない時はほとんどなかった。


 躁状態に転じれば、スキップしたいほどで、子供みたいにはしゃぐ。

 鬱状態に転じれば、立っていることができないほど悲しみに包まれ、泣くことも止められない。


 そんな日々だった。おまけの倫礼は晴れ渡る空を噛みしめるように見つめていた。


「静かな余生を送りたい……。恋とか結婚とかはもうどうでもいい。できるだけひとりで、この世界から切り離されたところで生きていきたい……」


 毎日の出来事が覚えていられないほど、記憶力は低下していた。それでも、その年の初夏に、彼女は新しいことにチャレンジするのだ。


 ずっと修理に出していなかったパソコンが使えるようになり、療養中の今だからこそできることを始めようとした。


「小説ずっと書けなかったから書こう」


 人生に休む時間はそうそうない。神様が与えてくれた大切な時だと彼女は信じた。USBメモリーに入っているファイルを片っ端から開けてゆく。


「どれを書こうかな?」


 神様と病気のお陰で、アイディアがいくつも浮かんだ設定だけが保存されているファイルを見ていたが、やがてひとつの物語に目を止めた。


「そうだ。これだ。コンクールに出したけどダメだったやつ。キャラクターをもう少し作り込んで、再チャレンジしよう」


 ファイルを開くと、青字で文章は書かれていた。倫礼は主人公のキャラクターカラーを決めて、その色で全編を書いたりする。


 青――


 彼女の中ではこの人しかいなかった。


「主役のモデルは光命ひかりのみことさんだったんだよね。ん〜、やっぱり思考回路が好きなんだよね。もっと前面にそれを出そう」


 登場人物の脇に描かれたモデル名を倫礼は読み上げる。


「あとは……月命るなすのみことさん。考え方は一緒だけど、負けたがりだからね。ふふっ。対立する感じでいいんじゃないかな?」


 段ボール箱にまだ詰められている、神様の名前を書いたクリアファイルを彼女は本当に忘れていて、勝手に名を変更していた。


 あの紙に書かれていたのは、親兄弟配偶者、子供までで、親友などの関係性は書いていない。


 ルナスマジック――。女性にプロポーズさせていた男と、喫茶店でよく話している神の名で、倫礼は立ち止まった。


「あぁ〜、そうっだっけ? 冴えない人物にしてたっけ? でも、今回は冴えていただこう。孔雀大明王くじゃくだいみょうおうさんね」


 さらにスクロールしていって、倫礼は光命とこの人物が主従関係ということに楽しげに微笑んだ。


独健どっけんさん。毒舌を吐くキャラにしよう。言いそうだよね? お父さん、結構怒るからね」


 神を起用して、小説の世界へダイブしている彼女は、さらに登場人物をなぞってゆく。


「あと子供がふたり出てたよね? 誰かモデルがいるんだよな、きっと。本当はどんな性格なんだろう?」


 大人ではないのだろう。名前がすぐに浮かんでこないのだから。倫礼はパチパチ打ち込みながら考える。


「一人は五歳の男の子。正直で素直で明るい、優しい子。もう一人は八歳の女の子。個性的な話し方をする。われとかおぬしとか、そういう感じ……」


 クラウド上にあった、兄弟のデータを眺めると、ピンときた。


「女の子はわかった。妹の桔梗ききょうだ」


 キャラクターの服装や身長、瞳の色や髪型。性格まで作り上げてゆく。倫礼の毎日は充実して、幸せな日々になっていった。


 神はいない。死後の世界は存在しない。そんな考え方の人も多くいる物質界でも、彼女は信じ続けることをやめず、規則正しい生活を送りながら、散歩へ出かけて綺麗な青空を見上げる。


 家へ戻ってきては、パソコンへつたない文章ながらも、あの美しい世界を見たくて、神様をモデルにした物語に浸る毎日を送っていた。


「ん〜? 障害者になってよかったね。自分はしてないと思ってたけど、差別を色々してたんだ。BLも笑わなくなった。いい経験だった、病気になったことは。価値観が色々増えて、これからまた私は大きく変われる」


 青の王子――光命が主役だ。彼女の筆が止まることはなかった。暑い夏が来て、未だに足を引きずる症状は出ていて、外出をしない日々が過ぎてゆく。


 パチパチとパソコンのキーボードを打ち込んでいた手をふと止めて、一人きりの空間で、倫礼は珍しく笑顔になった。


「ん〜、やっぱり光命さんの考え方は面白いね。この人と結婚したい……!」


 光命を知って、十四年の月日が流れた。一度だって思いもしなかった。許されない想い口にして、倫礼は慌てて口をつぐんだ。


 涙があとからあとからこぼれてくるが、顔を急いで拭って、首を横に振る。


「結婚したいじゃない。ううん、結婚したかった!」


 青の王子はもう妻帯者だ。倫礼もそうだ。感じることもできなくなったが、彼女の現実は神様が住む世界だ。


 四十半ばの綺麗でもなく、精神障害者の女を誰が好き好んで愛する人がこの世界にるのだろう。いるとしたら、自身の心を見てくれる、あの世の存在だけだ。


 だからこそ、彼女は自分のダメさ加減に、絶望していましめるのだ。


「何を考えてるんだろう。もう自分は蓮と結婚してるし、光命さんだって結婚してる。きっと病気になったから寂しくなって、自分勝手になったんだ」


 違うと思いたかった。自分がとても惨めだった。時々考える。生きていなければ、もう悩むこともないのだと。自分はいつか消えてゆく運命で、何もかもが無になる。途中でやめてもいいのではと思う。


 ただひとつ、彼女を引き止めたのは子供たちだった。あの小さな人たちの純真な心に応えたい。途中であきらめずに、最後まで生きたと。


 現実はとても厳しく、彼らにも会うことはなくなってしまったが、それでも今もどこかで生きているのだと信じていた。


 倫礼はパチパチとキーボードを打ち始めながら、泣きそうになりながら無理やり微笑む。


「まだまだだな、自分は。自分の欲望で、人の幸せを歪めてしまうんだから。蓮に申し訳ないよね、聞こえてるんだから」


 話しかけなければ、いるのかいないのかわからないほど、口数が少ない、我が夫であり、守護神。そんな蓮が神界で人気絶頂のアーティストとなっていることさえ、倫礼は知らないのだった。


 彼女は神に与えられた今を懸命に生きようとする。物語に没頭して、高望みを消そうとした。


「忘れよう、忘れよう。思考回路だけが好き。自分に言い聞かせて、忘れよう。忘れる!」


 十四年間、憧れだけで、言動を起こさなかったおまけの倫礼。それなのに、結婚を急に望むようになった真意を、病状のよくない彼女は導き出せなかった。


 それからきっかり二週間後――


 じりじりと照らす太陽から逃げるように、今日もエアコンのよく効いた部屋で、倫礼はせっせと小説を書いていた。


 ふと手を止めて、視線を上げると、針のようなサラサラの銀髪と鋭利なスミレ色の瞳を持つ、すらっとした体躯の男が部屋へ入ってきた。


「蓮……。しばらくぶりに見た。もう三年以上も見てなかったかも」


 人の体は全て脳で管理されている。脳の病気である双極性障害によって、霊感に使える脳が疲れ切っていたのだ。しかし、それは療養して、見えるところまで回復したのだ。


 蓮が誰かの手を引いて部屋を横切ってくる。知らない人だ。


「誰か連れてきた。男の人? 誰?」


 顔を見るまでは回復していない。言葉を聞き取れるかもわからない。ふたりの神が部屋に入ってきていることに、倫礼は自分らしさを少し取り戻した。


 物理的法則を無視して、蓮に連れてこられた男は、パソコンのすぐ後ろに座り込んだ。そうして、


明日あす、あなたと結婚します――」


 その声色は、遊線ゆうせんが螺旋を描く優雅で芯のある男のものだった。倫礼は今使える霊感を最大にして、その神をじっと見た。


 顔はよく見えないが、髪は少しゆるいカーブを描いて、肩の後ろへと落ちていた。そうして、彼女のもうひとつの特技を使って探る。


 冷静な気の流れと激しい感情を持つ、男性神がすぐそばに座っていた。


(一度も会ったことないけど、話したこともないけど、この人は――)

「光命さんですか?」


 彼女の霊感が教える。ねじれがどこにもないと。森羅万象として、間違っていないと。


「えぇ」


 光命が短くうなずいた。倫礼の瞳はみるみる涙でにじみ、彼女はボロボロと涙をこぼし始めた。


 絶望の淵など世界のどこにもないのだ。ただの夜明け前だけで、必ず日は昇るのだ。十四年の月日の答えが今ようやく出た。


「私は何も間違ってなかった。結婚する運命だったから、許されなくても好きになって、今まで忘れることができなかったんだ……。ううん、運命だから、忘れちゃいけなかったんだ」


 優雅な笑みを絶やさない光命には、倫礼の心の声は全て届いていた。今目の前で書いている小説の中の人物とは、少し違うと倫礼は思う。


 あの刺すような、突き放すような冷たさはなく、優雅な笑みだけがそこにあった。それは他人の距離感ではなく、親しみの雰囲気をまとっているからだろう。


 しかし、理論派であることは間違いない。事実から可能性を導き出す人物。だからこそ、光命は一目惚れは絶対にしない。ということは、


「いつから私のことを見てたんですか?」

「今からちょうど三年前です」


 外では蝉時雨が意識を遠くへ飛ばすように、激しく降り注いでいた。

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