残ったのは障害者手帳だけ
秋が深まりつつある入院病棟の診察室に、おまけの倫礼はいた。
「病名は双極性障害です――」
「え……?」
鬱病だと信じ切っていたばかりに、見逃してきてしまった。まったく別の精神病だった。治ると思っていた倫礼は急に不安になる。
「どんな病気ですか?」
「鬱状態、それとは反対に近い、
「躁状態……?」
聞いたこともない言葉で、倫礼はただただ繰り返した。入院時に医師が質問してきた内容がようやくわかった。
「気分が良かったり、非常に怒りやすくなったりします」
ウッキウキで過ごしたり、職場を辞める時に怒り出したことが、倫礼の脳裏をかすめていった。
「病気は治るんですか?」
医師は優しく微笑み、パンフレットみたいなものを差し出した。
「こちらの冊子をお読みください」
「はい、ありがとうございます」
倫礼はそれを受け取り、診察室から出て、病室で一文字も逃さないよう全て読み、脱力したように腕を脇へ落とした。
「治るってどこにも書いてない……」
実家から失踪して七年間、誰にも頼らずに生きてきた。病気になって五年以上も信じて、薬を飲み続けてきた日々を振り返り、彼女の視界は涙でにじんでゆく。
「あんなに一生懸命やってきたのに、配偶者も友達も知人もなくして、私の手元に残ったのは……精神障害者手帳だけ」
鬱病でさえ、まだまだ理解されない時代だ。喜怒哀楽が激しくなる病気など、他人が理解してくれるはずもなく、SNSはことごとくブロックされていた。本当に優しい人など世の中にはいないのだ。
「悲しい……」
今までも誰にも理解されなかった。きっとこの先も理解されないのだろう。そう思うと、倫礼の頬を涙が伝った。
しかし、彼女の過ごしてきた時間は決して無駄ではなかった。一分もたたないうちに涙をさっと拭った。もう失うものがない倫礼は強かった。
「理論だよ」
青の王子――のお陰で学んだ方法で、倫礼は壁を乗り越え始めた。
「最初にすることは! 感情を捨てること! 物事を進めるのに感情はいらない」
コウと一緒にやった理論が今やっとうまく使えるようになったのだ。ケガの巧妙というやつだ。
「だから、嘆き悲しんでも、病気は治らない」
自分自身に言い聞かせるようにしながら、涙を拭ってゆく。
「だってそうでしょ? 前聞いたじゃない。過去と人の気持ちは変えられないって。だから、病気になったのはもう変えられない。泣いても意味がない。そんなことしてるくらいなら、前に進むことを考えた方が合理的だ」
誰も見ていなくても、誰も聞いていなくても、誰かに理解されなくても、彼女はそれでいいと思っていた。今大切なことは自分がどう生きることかだ。手に持っていた冊子をもう一度見つめる。
「ここから可能性を導き出す。患者の気持ちに配慮して、はっきりと治らないとは書いてないのかもしれない。そして、もうひとつ、この可能性もある。この先、完治する薬などが開発されるかもしれない。だから、治るという可能性はゼロじゃない――」
理論を使って、彼女は道を自ら力強く切り開いてゆく。
「でも、この可能性もある。自分が生きている間に開発されないかもしれない」
起こり得る事実は事実だ、目を背けてはいけない。歪めてもいけない。物事をきちんと見極め、さらに可能性を導き出す。
「未来の可能性は二つ。だから、どっちに進んでもいいように準備をすること。よし、具体的な方法を考えよう」
激情という名の獣を冷静という盾で飼い慣らす、青の王子――
感情を切り捨てた向こう側にある、現実は命がけの戦争と一緒だ。手を打ち間違えるわけにはいかなかった。狭い病室を倫礼は行ったり来たりする。
「どっちにも出てくるのは、病気と付き合うことだよね? だから、そうだ! 今回失敗したから、病気のことをきちんと学ぼう!」
戦術を組むために次にすることは、条件の確認だ。感覚で大雑把に生きてきた彼女とは思えないほど、とても冴えていた。
「外出はできない。携帯電話は一時間半しか使えない。この条件でできる方法……。探して、探して! 諦めないで、探して、探して!」
精神的に参っていて、記憶が曖昧なはずなのに、彼女の脳裏に必要な情報が浮かび上がってくる。
「そうだ! 病気について学べるオリエンテーションがあった。よし、それを受けよう! それから始めよう!」
一般病棟に移ったと同時に、彼女は積極的に病気について学んだり、やったことのないものに挑戦したり、他の患者とコミュニケーションを取ったりし始めた。
個室の彼女は、夜眠る時に今日の出来事をひとりで思い返す。
「みんな大変なんだな。でも、病気と一生懸命戦ってる。私もがんばろう!」
薬の副作用で眠れない日々が続いたりしていたが、それでも医師に相談したりして、少しずつ回復していった。
そんなある日、おまけの倫礼に衝撃の事実が襲いかかった。
「さっき聞いた話……」
落ち着きなく両手を触り続ける。
「幻聴や幻覚って、自分を脅してきたりして、怖いものだと思ってた。でも、吹き出して笑うほど面白い幻聴もあるらしい。さっきの人が話してた」
コウから神様たちの聞いた話は面白く、驚くこともあった。今はどうしているかわからないが、蓮の言動や子供たちの話でも笑ってしまうことはあった。
神経を研ぎ澄ましてみるが、霊視する糸口さえ見つからないまま、倫礼は心細そうに表情を歪める。
「もしかして、私が見てたのは霊感じゃなくて、幻聴と幻覚だった? あの綺麗だった神様の世界はどこにもなかった?」
見えなくても、感じられなくても、聞こえなくても、倫礼の人生を大きく変えた出来事だった。彼女の人格を作っているといっても過言ではない。それがなかったことになれば、生きる
違っていてほしいと、倫礼は心の奥底で祈る――。
だがしかし、理論で考えれば、自分の望みは感情と一緒だ。倫礼はしっかりとした瞳で現実を見据えた。
「それは置いておこう。今やることは、放置するのはよくない。病気ならきちんと治療しないと、先生に聞いてみよう」
決心をして、迎えた翌日。病室へやってきた医師に、倫礼は質問を受けていた。
「どのように見えますか?」
「自分を三百六十度囲んでいて、時々そこから一人そばに来る感じです」
「どのように聞こえますか?」
「その人が立っている位置から距離感があって聞こえます」
倫礼は健在意識では忘れてしまっている光命の最大の特徴である、冷静さを持って、どちらに転んでも事実は事実として受け入れようと決めていた。
医師がゆっくりと首を横に振る。
「そちらは違いますよ」
「あぁ、そうですか。ありがとうございました」
倫礼はほっと胸をなで下ろしてお辞儀をすると、医師は部屋から出ていった。いつも同じ風景が見える窓辺に立って、切り取られた青空を見上げる。
「やっぱり霊感だった」
そうして、彼女は気づくのだ。病気で自身の調子はやはり狂っているのだと。
「私は何を聞いてるんだろう? 昔いたじゃない? 自分と同じものを見て、同じタイミングで一緒のことを言った人が。だから霊感なんだよ」
あんなに気配がたくさんあったのに、孤独感が足元を救いそうに渦を巻く。
「でも、もう聞いても意味がなかったね。見えなくなったんだから……」
霊感とはとても不安定なもので、見えなかったり聞こえないことなど、今までもよくあった。
それは数日で回復していたが、占い師をした時からもう半年が過ぎようとしていた。こんなに長いことは今までなかった。
自分に波動を与えてくださっている本体の倫礼。夫の蓮に子供たち。
優しく厳しい父に、柔らかな笑みの母。バカな話をしたり、助けあったりした兄弟たち。
今もそばにいるのかもしれない。しかしそれさえも、感じ取れない。彼らが話かけているかもしれないのに、無視をするような形になっているのかと思うと、倫礼は心が痛んだ。
最後に蓮と交わした言葉も覚えていないほど、毎日懸命に生きてきて、彼は今どう思っているのだろうと、倫礼は思う。
だが、あのひねくれ蓮のことだ。メソメソ泣いていれば、火山噴火させて怒るだろう。一生懸命生きている人物に惹かれる夫だ。彼をがっかりさせない生き方をしようと、おまけの倫礼は思った。
そうして、神とともに歩んだ日々が彼女に一筋の光を与えた。秋空のさらに向こう――神界を見ようとすると、自然と笑みがこぼれるのだった。
「だけど、あの綺麗な世界は今もどこかにあるんだ。みんなは生きてる。そうして、自分のことを見守ってくださってる神様がいるんだ」
クリスチャンが祈るように胸の前で手を組み、倫礼はそっと目を閉じる。
「ありがとうございます。今日という日を無事に過ごさせていただいて、感謝します」
その日から、彼女は入院していることさえも、自分の経験値へと変えるようになっていった。
「そうか。いい話聞かせてもらった。幻覚とか幻聴を自分で克服したって。ということは、自分の病気の症状もある程度は軽減できるかも!」
倫礼は心の中で思い出すのだ。昔教会へ行った時に聞いた、神父の話を。
信じ続けるというのは、疑わないということではない。人間は弱いもので、疑う時があるのだ。それでも最後は信じると決意して、神の元へ戻ればいいのだ。
その時、神様は何の文句も言わず、あなたを喜んで迎え入れてくれる――と。
自身の手違いで、霊感を失い、神の世界から遠ざかったが、守護神の蓮がまだそばにいると、おまけの倫礼でいると、彼女は信じようと何度も何度も挑戦し続け、霊感が戻らないまま三ヶ月の月日が流れていった。
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