もっと自由に羽ばたけ

 その頃、神界では、漆黒の長い髪が指でつままれて、弄ぶようにつうっと引っ張られていた。


「食堂はどうしてやめちゃったんだっけ?」


 スピーカーフォンにしている携帯電話から、相手の軽いノリの声が縁側に響く。


「味見してたら、いつの間にか食材を全部食べてるっす。仕入れして、客に出さないうちに破綻っす」


 黄金のススキが豊かな尻尾を振る秋まではまだ少しばかり時間がある。濃い緑色が生い茂った草原が、聡明な瑠璃紺色の瞳に映っていた。


「次は何したんだっけ?」

「金物屋をやったっす」

「で、どうしてやめちゃったんだっけ?」

「困ってる人にただで分けて、商品がなくなったす」


 人がよすぎて、商売に全く向いていない男を前にして、孔明はとうとうイラッときて強く言い放った。


「もう、張飛はいっつもそんな調子なんだから!」


 奥さんにベタ惚れで、他の宇宙へ飛び立ち、滅多に会うこともない親友。その近況をこうやって、携帯電話で聞くのはもう慣れっこだった。


 どんなことでも豪快に笑い飛ばす張飛だったが、さすがに堪えているらしく、珍しく元気がなかった。


「さすがに俺っちも落ち込んだっす。奥さんと子供三人もいるのに、世のため人のために役に立てないと思うと……」

「もっと手堅くいかないと、夢は叶えられないよ」


 私塾の講師という商売をしている孔明は、友人として忠告を何度もしてきた。


「孔明の意見も少しは汲んで、考えてたっすよ。でも、いい出会いがあったす」


 七転び八起き。その言葉がまさにぴったりくるタフガイ――張飛。今日はどうやらいい話を聞けそうな雰囲気が漂っていた。


 文机のそばの板に間に座ったまま、紫の扇子を広げて、孔明はパタパタと仰ぐ。


「何があったの?」

「小学生が俺っちのそばに来て、『張飛さんだ』って言ったす」


 有名人みたいな話をしている親友だったが、地球という限られた場所で生きてきた過去のある孔明は違和感をぶつけた。


「どうして、違う宇宙なのに、張飛のこと知ってるの?」

「恋愛シミュレーションゲームに俺っちモデルで出たから、小学生の女の子が声かけてくれたっす」

「そのゲームは知ってるよ。ボクが主役のモデルだったんだから」


 数年前にモデル起用が出版社から来たテレビテームのことだ。地球で軍師として実行した作戦を学びながら、恋愛するというものだった。


 塾の宣伝になると思い、了承したが、女性ファンが大きく増え、また感覚的でおしゃべりの彼女たちに囲まれ、誘いを断る作戦がより上手くなったのだった。


 電話の向こうから、「そうだったすね」と照れたように言ったあと、


「で、子供に元気づけられたんで、小学校の体育教師になったっすよ」


 あの恋愛シミュレーションゲームのキャラクターでは、張飛は金髪で天色あまいろの澄んだ瞳をして、さわやか好青年で女性に好まれそうな感じだった。


 本物はあの毛むくじゃらの大男だ。彼が小さい子供に囲まれている。そんな姿を想像して、孔明は陽だまりみたいな穏やかな笑みになった。


「そう。合ってるんじゃない?」

「そうっすか。孔明にそう言われると、自信が湧くっすね」

「武術とか体動かすことやってたから、向いてるよ」


 空港で見送った日から、もう数年が経過する。張飛は今となっては三人の子持ちだった。


 仕事仕事の孔明とは違う人生を、すぐに会える距離ではない宇宙で生きている。それでも、彼が幸せなら、孔明も自分の幸せなのだった。


 張飛が孔明の気持ちに気づくことは一度もなかったが、今はこの距離でいいのだ。夏空の青が目にやけに染む。


「孔明の仕事はどうっすか?」


 張飛に聞かれ、孔明は珍しく力なく返事をした。


「うん……」


 扇子をゆっくりと畳んで、ゴロッと縁側に寝転がる。太陽がないのに明るい世界。人間として生きてきた自分が通用しないのは百も承知だった。


 あれこれ勉強を続けて、今ではキャンセル待ちが出るほどの盛況ぶりだった。しかし、先を見通せる孔明の頭では、手詰まりになりかけていた。


「やっぱり、神様の世界の価値観を理解するのには時間がかかるかな?」

「そうっすか?」


 電話の向こうの男は無事に乗り切って、先を進もうとしている。失敗もするが、何でも前向きに取って、人のすることは全て善意に解釈する。


 それに比べて、自分は相手の隙をとあらばを狙っているような考え方で、孔明は腕枕をして、立て膝で足を組んだ。


「張飛は明るいから、いいけど。ボクはちょっと違うところがあるから……」


 千八百年近くの付き合いだ。相手の考えていることなどわかる。張飛の声色は優しさだけになった。


「できるようになれるから、この世界にいるんじゃないっすか?」

「そうだね。理論で考えれば、そうだ……」


 孔明の視界は少しだけ涙でにじんで、青空の美しさが世界の広さを実感させる。途切れてしまった会話。


 少しだけ立ち止まって、この男に甘えてもいいだろうか――。


 孔明のこめかみを一筋の涙がこぼれ落ちてゆく。板の前におはじきみたいな水溜りができた。


 遠くで女と子供の声がかすかに聞こえたあと、張飛が沈黙を破った。


「それじゃ、そろそろ切るっす。今日は家族で外食する約束っすから」

「うん。それじゃ」


 孔明が返事を返すと、電話は切れた。いつになれば、結婚へとたどり着く作戦を実行できるのだろうか。まだまだ遠い話だと、恋する軍師は夏の風に一人吹かれた。


    *


 時は過ぎて、秋がやってきた――。


 黄金色に輝くススキが秋風に揺れるのをふたりで――別の男と見ている。文机のそばに横座りして、膝の上に黄緑色の目をした男が頭を乗せていた。


 孔明に膝枕されている焉貴は、あらゆる矛盾を含んだマダラ模様の声で言った。


「お前、立ち上がって」

「何?」


 焉貴は起き上がって、山吹色のボブ髪を器用さが目立つ手でかき上げる。


「いいから」

「ん〜」


 白いモード系ファッションに身を包んだ孔明は言われるがまま、二百三十センチの背丈で立ち上がった。


 焉貴は横になって、立てた肘で手のひらに頭を乗せる。裸足に床の冷たさが広がり、青空とススキをバッグに孔明を仰ぎ見た。


 あの日、友達と飲みに出かけて、高級ホテルの入り口で見かけた、この男に一目惚れをして、今こうして、自宅に招待されて膝枕をするまでの仲になっていた。


 愛している気持ちは冷めることはなく、今も続いているからこそ、この男が何を悩んでいるのか言わなくてもよくわかった。


 教師という職業柄、焉貴は孔明に教えを説こうとする。


「俺のほうに真正面向けて、縁側の端に立って」

「うん、立ったよ」


 孔明は家に中を見渡す位置で、横に寝そべっている男を見下ろす。自身を綺麗だと言って声をかけてきた男と、いつもここで膝枕をするのに、今日は違っていた。


 板の間ギリギリで立つ孔明のすぐ後ろは地面より数十センチ離れて、大きな段差があった。


 宝石のように異様に輝く黄緑色の瞳は、聡明な瑠璃婚色のそれを見返す。その雰囲気は戦車で強引に引っ張っていくようなものだった。


「そのまま体曲げないで後ろに倒れて」


 地面の上に背中から落ちろ――。


 驚きはしなかったが、さすがの孔明も一瞬言葉をなくした。


「…………」

「やって」


 焉貴はどこまでも無機質な心と目で、一目惚れした男が後ろ向きで落ちてゆくのを待った。


 ミラクル風雲児は奇抜なことを言うが、冗談は一言も口にしない性格だ。真剣に指示を出してきたのだ。


 理論ではわかっている。縁側から落ちて、地面につぶかる。痛みはほとんどなく、怪我もしない。死ぬこともない。


 平気なのだ。ただ怖いのだ。後ろからまっすぐ落ちることが。だが、孔明はわかっている。恐怖心は自分でしか取り除けないのだ。


 ここで立ち止まっていては、前に進めないのだろう。目の前で寝転がっている男と同じところへ行ける可能性は低いままだろう。


 心地よい秋風が吹いたのを合図に、絶壁から谷底へ向かって落ちてゆくように、体重を後ろへかけた。


「えいっ!」


 焉貴が下へ消え去り、天井が見えたかと思うとすぐに青空が真正面に見えて、カサカサと草が擦れる音がした。


 そうして、地面へぶつかったが、痛みも衝撃もほとんどなかった。重力十五分の一で生きている。この世界の人間はみんなこうやって生きている。


 孔明は取り越し苦労だった恐怖が霧のように消え去って、珍しく春風みたいな柔らかい笑い声を漏らした。


「ふふっ。ふふふっ」

「どう?」


 縁側にいたはずなのに、焉貴の声が真正面から降ってきた。瞬間移動ですぐそばへ来たのだと思い、孔明はさっと目を開ける。


「楽しい!」

「でしょ?」


 そう言う焉貴は素足のままで、草の上に平気で立っている。汚れることも起きない神界でずっと育ってきた焉貴は、ナルシスト的に微笑みかけた。


「死なないんだよ。怪我しないの。だから、なんでもオッケーじゃん?」

「うん」


 焉貴は地面に立ったままの格好で、後ろへ倒れたが、紙がふんわり舞い落ちるような軽やかさだった。ふたりで庭に寝転んで、秋空を見上げる。


「お前の視野を狭くしてんのは、地球で生きてた時の記憶でしょ? 塗り替えちゃえばいいじゃん?」

「そうだね」


 白いモード服だって、土汚れもつかない。汗をかいたとしても、それは乾いて、元どおりになる。


 その中で、私塾をやってゆくためには、地球で生きていた時の記憶は変換をしないと、この世界では通用しない。


 孔明と焉貴はススキの黄金色が風できらめくのをしばらく黙って眺めていた。


 恋する軍師は感情を相手に悟られないようにしているだけで、波間に揺れる小さな舟のように、足元が救われそうになったり、ひっくり返りそうに本当はなっているのだ。


 田舎育ちで、外を平気で素足で歩く焉貴が、草の合間から彫りの深い顔立ちで、陛下に似ている面影で空を見上げている。それはとても自然体で、飾り気がないからこそ絶美。


 この男は確かに、自分を愛している。

 こうやって、自分の求めている答えを与えてくれるのだから。

 そうして、自分もこの男を確かに愛している。

 そう認めるところまで、時は過ぎたのだ。


 全てを記憶する男同士。いつ誰が何と言って、自身が何と返してどうなったのかまで、何ひとつ順番を違えずに覚えている。何ひとつかけていけない思い出だった。


 さわやかな秋風に、焉貴のマダラ模様の声がふと乗った。


「俺さ、来月から高校の教師になんの」


 距離が縮まった気がした。焉貴が仕事の話など今までしたことがなかった。孔明は手のひらに頭を乗せて、横向きになった。


「何かあったの?」

「前々から、高等部に移動願い出してたの。やっとアキができてさ」

「どうして、初等部のままじゃないの?」

「俺さ。平気でこう言っちゃうじゃん?」


 焉貴が何を言おうとしているのか気づいたが、孔明はこの目の前にいる男の綺麗な唇から聞いてみたかった。


「言ってみて?」

「俺のペニ○手コ○でボッ○させて? って」


 せっかくのシリアスシーンが崩壊するほど、十七禁ワードの連発だった。生まれたての赤ん坊のようなけがれのない心で純真無垢で言ってのけるのだ。


 男同士の会話で、孔明は珍しくふんわり微笑んだ。


「焉貴、本当に下心なしで言うよね?」

「俺、少年の心持ちながら大人やっちゃってんの」


 焉貴は至って真面目に話しているだけで、自画自賛しているわけでも、過小評価しているわけでもなかった。この男はいつもこうなのだ。堂々と生きている。


 漆黒の長い髪をつうっと空へ向かって、孔明は伸ばしてゆく。


「それが転任とどう関係するの?」

「小さいガキよりも、大きいほうが俺に近いと思ってさ」


 多少なりとも話が通じやすい高校生にしたと言うことだ。孔明の指先から髪がサラサラと頬へ落ちてきて、神界の絶対ルールが告げられた。


「今の言葉って、高校生にはどうやっても聞こえないでしょ?」

「そう。卒業する十七歳にならないと、目の前でマスター○ーションしても見えないの」


 まるでこれからすると言わんばかりの、ずいぶんな高校教師だった。男女の営みの絵を実家で見せた時の、弟や妹と同じように別のものに見えるか、いないことになるという十七禁のルール。


 大人の話が通用する生徒を教える先生の需要はある。孔明はそこをあえて突っ込んでみた。


「大学の教授はやらないの?」

「大学あんまり生徒が通わないじゃん?」

「そうだね」


 大抵の人は高校で卒業し、あとは社会へと出て実戦で技術を磨く。学歴を重視する人は誰もいない。実力が問われる世界。


 学者や音楽家などのエキスパートを目指す人間でないと、大学へは行かないのだ。十七歳以上の生徒を教える教師の需要はないに等しかった。


「で、専門的に必要な講義を受けるのが大学だからさ。数ヶ月で卒業するやつがほとんどでしょ? 募集かかってないんだよね。だから、高校生ってこと」


 専攻科目を受講すれば、卒業というシステム。もしくは、一分野だけ秀でている小学生などが、飛び級で大学の授業に出るということぐらいだった。


「高等部でもよくアキが出たね?」

「そうね? 六千二百年生きてるガキの人口って少ないからね」


 前の統治者の元では、子供を産むことを躊躇する人が多かった。仲むずまじしく過ごしていれば、左遷されて会えないようにされてしまうのだ。


 子供は生まれれば、親の霊層によって、一気に十八歳まで大きくなることもしばしばだった。十代の子供の数が圧倒的に数ないのだ。


「ただ、教師もそれ以上生きてないとなれないからね」


 小学校の教師は需要もあれば供給もある。六年生でも、生きている時間は四千年を超える。高校三年生ともなれば、七千五百年も生きてきているのだ。大抵のことは学んでいる。


 二千年弱しか生きていない孔明ではなることは難しい。人生経験がやはり足りないのだから。五千年以上の時を埋めるのはかなりの技術がものを言うのだ。


 だからこそ、目の前にいる猥褻な高校教師が適任なのだ。孔明は年の差を感じない男に春風みたいに微笑む。


「三百億年生きてる焉貴はぴったりだったんだね」

「そういうことね」


 田舎を出て、十年近く経つ。都会へ行きたいという気持ちは、今こうして身を結び、子供三人と妻、そうして、愛する男がふたりいる。


 大きく運命は変わり――いやまだ序曲で、これからいろいろ続いてゆくのだ。長い間生きてきた焉貴はそう直感した。


 孔明が焉貴に瞬間移動をかける。よほどの仲にならないと、タブーとされている行為だったが、縁側にまだ戻り、孔明は焉貴を膝枕した。


 ふたりで話す時はいつもこの格好だった。焉貴は凛々しい眉をしている孔明を見上げるのが好きだった。


「お前、好きな男と結婚しないの――?」


 張飛の名前どころか、素振りさえ見せていなかった。孔明は焉貴を見下ろすと、綺麗な頬に山吹色のボブ髪を淫らにかかっている。


「いつから知ってたの?」

「初めに会った時から」


 孔明は指先で焉貴の髪を耳にかけ、あの高級ホテルでタクシーに乗ろうとした時のことを、何ひとつもれずに脳裏に並べた。


「その時のいつから?」

「俺の誘いにお前が承諾した時から」


 鳥が羽を休めるように、焉貴は横に向きになって背を丸め目をそっと閉じる。


「どうして、そう思ったの?」


 この男の頭の重さを膝でいつまでも感じていたい。自分と出会った時から今までの記憶がつまっているこの重さが、やけに愛おしくのだ。


 まぶたは開かれ、いつもよりも真摯な黄緑色の瞳がまっすぐ見上げてきた。


「だってそうでしょ? お前最初行かないって言ってたのに、急に行くって言い出した。何かそこに考えがある。だから、他に男がいるになるでしょ?」


 理論派なのに、無意識の直感で途中の説明をすっ飛ばす、自分と違った頭のよさを見せる男の言葉を聞いて、孔明は春風みたいに穏やかに微笑んだ。


「ふふっ。焉貴らしい。しかも、途中で理論端折ってる」


 孔明は思う。あのあと、自分が焉貴に同性愛について質問をあれこれしていたのだ。頭のいい人間なら、同性愛について悩んでいるのだろうと気づく。


 質問をするのは、相手から情報を得るための基本だが、自身の思惑が相手にバレてしまうものでもあるのだ。


 薄い服の上から、焉貴が孔明の足をそっとなでる。


「いいでしょ? お前に話してるんだから」


 今は教師ではなく、ひとりの男として話をしているのだ。ついれこれないなら、置いてゆく。いやこの男はついてこれるのだ。


 さっきから自分の膝をなでていた、結婚指輪をしている手をふざけたように、孔明は軽くつかんだ。


「ボクに好きな人がいるって知っても、ボクを好きでいてくれたの?」

「それって関係すんの? 自分が好きなのは変わんないよね?」


 この男は誰かの心を傷つけない世界でずっと生きてきた。そんな澄んだ世界で、本当に大切なものを見失わない術を知っている。


「そうだね」

「じゃあ、いいじゃん」


 そうして、焉貴本人も知らないうちに、いつの間にか罠になっていて、孔明はチェックメイトされた。


「ただ、無理にとは言わないけど?」


 男の香りが思いっきりする顔をしたまま、結婚指輪をした手で捕まえられてしまった。張飛よりも先に、焉貴が孔明の心の中へ入り込んだ。


「うん、いいよ……」


 孔明は視線をそらして、小さな声でうなずく。


 紅朱凛あしゅりゃんのことは今でも愛している。その気持ちは変わらない。罪悪感がないと言えば嘘になるが、そもそも罪悪感などという概念も言葉も存在しない世界だ。

 

 自分の人を愛する気持ちはゲイなのか、バイセクシャルなのか。そんな区別もないのかもしれない。差別もないのだから、普通のことなのかもしれない。今は誰もしていない、未来では普通のこと。


 この男のように、素直に好きは好きだと言えたら、そこにどんな素敵な世界が広がっていて、新しい価値観を手に入れられる機会がめぐってくるのだ――


 考えている途中で、焉貴のわざと低くした声が割って入ってきた。


「お前、恥ずかしがり屋だよね?」

「もう〜!」


 孔明は頬が火照り、思わず焉貴の手をポイっと遠くへ投げた。大先生だの、帝国一の頭脳を持っているなどと言われているが、それは外ゆきの顔で、三百億年も生きている男からすれば、プレイベートは子供と一緒だった。


「そんなお前に聞きたいことあんの」

「何〜?」

「前さ学校で、担当生徒の父親じゃないんだけど、俺とそっくりの男に声をかけたわけ」


 今いい雰囲気で、両想いになったばかりだというのに、このミラクル風雲児はもう別の男の話をし始めた。


「焉貴の恋愛話〜?」


 孔明は間延びして聞き返したが、その男が誰だかわかって、そっちに気を取られた。


「っていうか、その人って、ディーバ ラスティン サンダルガイアのこと?」

「よく当てたね」

「本名は明智 蓮。彼と焉貴よく似てるって、テレビで初めて見た時思った」

「そう。全然関係ないのに、他人の空似ってやつね」


 焉貴の結婚指輪をした手が、孔明の頬へ伸びてゆく。孔明はその手をつかまず、携帯電話を瞬間移動で呼び寄せた。


「今、人気急上昇中のR&Bのアーティストだよ。フィーチャリングして、あっという間に売れた。ボクじゃなくても大抵の人は知ってる」


 音楽再生メディアをプレイにすると、グルーブ感のある曲に、奥行きがあり少し低めの声が人を惹きつけるように流れ出した。


「そう、じゃあ、話早いね」


 まだ十年も生きていないあの、銀髪で鋭利なスミレ色の瞳を持つ男が、成功への階段を登っている姿を、焉貴は嬉しいとかではないが、心地よかった。


「そいつと最初にフルーツパーラーに行った時、こう言われちゃったんだよね」

「どう?」


 今流れている低い声が、もっと無邪気に弾んでいた。吹き出して笑い、ツボにはまって止まらなくなった男だった。


「他の誰といるよりも、お前といると楽しい。こんなことは初めてだ――って」

「それって、告白〜?」


 携帯電話の中で、鋭利なスミレ色の瞳で人々を釘付けにすることを、売りにしているディーバを、孔明は違った角度から眺めた。


「そう思うでしょ? 俺のこと愛しちゃってるよね?」

「ん〜、でも彼、結婚してたよね? 光秀さんの娘さんと」


 愛する男も自分も結婚していて子供がいようが、ミラクル風雲児は悩まないのだ。聖水のようなピュアな心で大切に愛を育むのだ。しかし、思いも寄らない人物が関係していて、あぐねいているのだ。


「そう。パパのこと知ってんの?」

「うん。昔何度か会って話したことがあるからね」


 初めて行ったパーティー会場で出会った黒髪の男。陛下の分身の一人。孔明や焉貴とは違って、保守的な人物。光秀の元で複数婚が成立する――。


 感情は抜きにして、ないとは言えなかった。光秀は厳しいところはあるが、人の心を誰よりも尊重する思慮深く慈愛のある人物だ。


 今も流れてくるR&Bに耳を傾け、焉貴は孔明の膝の上で秋空を見上げる。


「そう。あいつ、そんなに有名になったんだ」

「知らなかったんだ?」


 おまけの倫礼に会った日を最後に、焉貴と蓮はすれ違って、連絡だけをするような間柄となっていた。


「仕事が忙しいっていうのは聞いてたけど、会ってないからね。でもさ、結婚は難しいかもね」


 恋する軍師は進軍できると踏んでいたが、意外なところで行手を阻まれた。音楽再生メディアを一時停止にした。急に静かになったあたりで、ススキがサラサラと風に揺れる。


「どうして? 出会ったら失恋もしないし、永遠に続いていくんだから、蓮の奥さんも子供も焉貴を好きになる――この可能性が大きいよね?」

「それは、神界だけの話ね」

「どういうこと?」


 孔明がまだ知らない、別動隊が潜んでいたのだ。焉貴はおまけの倫礼を久しぶりに思い出した。


「そいつ、配偶者がもうひとりいんの」

「そんな結婚してる人したんだ」


 ハーレムをしている男は世の中にひとりだけで、誰か他の人がすればニュースになってもおかしくないほど、神界には起こらないことだった。


「正確には、もうひとりはこの世界の人間じゃないの」

「霊界か地球ってことだよね? ボクとキミには霊感がないんだから」

「そう、地球にいんの。そいつには、永遠の法則は通じないよね?」

「そう……かもしれないね」


 人によっては、肉体の欲望を満たすためならば、心の底から愛していると自身に言い聞かせて、不倫や不貞を働く地上だ。


 そこで生きている女が、永遠の愛に出会える可能性は限りなくゼロに近い。しかも、神の領域へ上がるのは、生きている間はどうやってもない。肉体を持った神は存在しないからだ。


 恋する軍師は別の作戦を練ろうとすると、焉貴がマダラ模様の声で先陣を切った。


「しかもさ、魂が入ってないの」


 ひとりとして数えていいのか違うのか、今まででありえない存在が、おまけの倫礼だった。


「どういうこと?」


 心を愛するのに、それがない。

 何を愛せばいいのだ。

 いや自分たちから見れば、そこに誰もいないのではないか。


 おまけの倫礼が空っぽになった日から今も続いているルールを、焉貴は孔明に聞かせた。


「地球を守護してるやつしか知らない情報なのね。ある一定以上の霊層がない肉体には魂は宿らせてないんだってさ。悪意のあるやつに選択権与えたって、悪意しか起こさないじゃん。だから、魂は引き上げたんだって」

「そうだね。罪を重ねるだけなら、陛下だってみんなのために、戻したほうがいいと判断されるよね……」


 孔明にとって驚きだった。私塾の仕事に追われ、地上のことなど忘れていて、まわりに守護をしている人間もいなかった。いや話す人もいなかった。ずいぶんと様変わりしてしまった地球。焉貴に身を乗り出した。


「それはいつからだったの?」

「そこまでは俺も聞いてないけど? 守護神やってないからさ」


 焉貴は思う。邪神界の爪痕は地球には今も残っているのだと。だがしかしそれは、広い宇宙から見てみれば、点よりも小さなことなのだ。地上に重きが置かれていない何よりの証拠だ。


 お互いが逆立ちするように、黄緑色の瞳と瑠璃紺色のそれは一直線に交わる。


「ただ、その人間、かなり強い霊感持ってて俺たち見えてさ、それを考慮されて、奥さんの魂の波動受けてんの。いつか消滅するって、自分で知ってても生きてんの」

「そうなんだ……」


 孔明は静かにそう言って、黄金色のススキの原を眺めた。


 地球で生きてきた自分なら、いつか消える運命をどう思うのだろう。自身が築き上げたことがになる。


 それを知ってもなお、自ら命を絶たずに生きている、人間の女は何を頼りに生きているのだろう。


 ぼうっと遠くを見つめている孔明の顔を、焉貴は下から見上げた。本当はこの会話は罠だったのだ。


「お前、知らないんだね? その女のこと」

「どういうこと?」


 今生きている人間の女に知り合いなど、孔明はいなかった。そうして、焉貴は蓮から聞いた、おまけの倫礼の過去をひとつ紐解く。


「昔、陛下のところに行ってたんでしょ?」


 様々な人々は入れ替わり立ち替わり、皇帝陛下のもとを訪れて跪き、報告や挨拶に来る。あの慌ただしさの中で、孔明の記憶はきちんと記録されていた。


「陛下……彼女のこと?」

「そう」


 人間の女はひとりしかいなかった。しかも、今は魂が入っていないという。孔明は人間関係の図をたどって、奇妙な運命だと思った。


「彼女、明智になったんだ……」

「そう」


 大きく取られた袖口に秋風が入り込み、少し汗ばんだ体を涼しくする。


「彼女は……。ボクの名前は知ってるかもしれないけど、話したことも会ったこともないよ」


 どこかずれているクルミ色の瞳と、ブラウンの長い髪を持つ女。ある意味ベールに包まれていて、遠目に見たことがあっても、孔明は近くに寄ることもできなかった。


 孔明は知っている。あの女の本当の正体を。

 焉貴は知った。あの女の過去が誰だったのかを。


 しかしそれは、もう過ぎたことだ。焉貴は結婚指輪をしている手で、山吹色のボブ髪をかき上げた。


「お前、その女のことどう思ってんの?」


 おまけの倫礼が感じていた通り、中に入る魂の影響で好みも思考回路も変わる。神界での彼女の見た目も変わる。その点を省いての回答が要求されている。


「ん〜? ボクは頭のいい女性が好みだから、何とも思ってないけど……」


 孔明にとっては、その他大勢の一人だった。焉貴が告げる。おまけの倫礼と孔明の間には運命の出会いはないのだというように。


「そう。相手もお前のこと忘れてるらしいって」


 孔明が焉貴の手に指を絡ませ、つかみ取る。恋する軍師は戦場に立つこともできなかった。恋の戦術は、まずは自身に気持ちがあることが絶対の条件だ。それがないのだ。


「もう十年以上も前の話だから、彼女なら覚えてなくてもおかしくないね。感覚の人だったから」


 孔明が一番苦手とする女。勝手気ままに話してきて、平気で嘘をつく。その時の気分次第で、できないことでも約束をして、そんな約束さえ忘れるような、不誠実な女は、はっきり言ってどうってもよかった。


 焉貴は遠くの空を飛んでゆく、宇宙船が引いてゆく銀の線を目で追う。


「お前がそいつのこと好きだったら、さっきの理論成立に近くなんだけど、違うってことね?」

「焉貴も好きじゃないって――」


 孔明の言葉の途中で、何かが空から降ってきたようだった。それは金色の流れ星。しかし、霊感を持っているか、何か特殊なことをしていない限り見ることのできないもの。


 焉貴は無意識の直感で、いきなり考えが変わった。


「おかしいね?」

「何が?」


 大きな運命の歯車の中で、神界に住む彼らは導かれるまま進んでゆく。


「その仮の魂持ってる女のこと、何とも想ってなかったのに、今頃好きだ――と思うなんてさ。普通こうじゃん?」


 孔明や蓮、妻に気軽に声をかけているが、焉貴は決して惚れやすいタイプの男ではなかった。どちらかというと、恋に興味のない人物だ。その証拠に、三百億年も結婚しなかったのだから。


「どう?」


 焉貴がいきなり考えを変えることなど、孔明にとってはよくあることだ。というか、自分も素早く変えることは多々ある。


「好きだって気づかないまま過ごしてたのに、今気づいた」


 そうして、膝枕をしている男はこんな不思議なことを言う。


「――なのに、新しく好きになるなんて、しばらく会ってもいないのに……。距離感も何も変わってないのに……。好きになったりすんの?」


 本体の倫礼のことは多少気があっても、性格が微妙に違う、おまけの倫礼は何とも思っていなかった。ネガティブで自己主張が弱い。神界で好まれる女のタイプとはまるっきり逆だった。


「でも、好きになってるなら、事実としてもう確定だね」


 孔明は風で乱れてしまった漆黒の髪を手で背中へ払いのける。焉貴の裸足が床の冷たさに心地よさを感じて、黄緑色の瞳はまぶたに隠された。


「そうね。何の意味があんのかわかんないけどさ」


 もうひとつの恋が本人に会えないまま、焉貴のうちと孔明の前で静かに始まった。公園に散歩に行っていた、何もかもずばりと当ててくる女。彼女が変化でも遂げる何かでも起きたのか。


 孔明はおまけの倫礼ではなく、そばによることもできなかった別の女性を思い浮かべる。だが、今はその人ではないのだ。


「人間の女性か……」


 自分たちとは生きている世界が違う。合理主義だけで考えれば、その女の肉体が滅んでから動き出すことも考えられる。


 恋する軍師は考える。焉貴と結婚をするならば、蓮とその妻と子供との仲が要求される。焉貴の妻と子供ともだ。つまりは、恋をすればするほど、戦いは難しくなってゆくのだ。


 全員が全員を好きになる作戦。孔明はひとまず、銀の長い前髪を持ち、鋭利なスミレ色の瞳を見せるR&Bアーティストを、性的な対象として見られるのか想像してみた。答えは簡単だった。


 聡明な瑠璃婚色の瞳は晴れ渡る空を見上げる。張飛が住む宇宙へと飛んでゆく宇宙船に乗って、親友――片思いの男に恋を仕掛けにゆく日はそう遠くはないだろう。

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