月にウサギはいない
欠けては満ちてを繰り返す、再生の象徴である月。太陽の光を反射して、銀色の月影を地球へと落とす。しかし、その地表からは月は仰げない。
遠くの惑星が崩れ去ってゆくのを見ている、ヴァイオレットの瞳があった。
「邪神界がなくなってゆく……」
誰もが望んでいながら、誰も手を下すことができなかった悪の消滅。男は一人立ち尽くし、五千年の時を振り返り、未来のことを危惧した。
「これから、僕たちはどのようになるのでしょう?」
男のまわりにぴょんぴょんとウサギが集まって、同じように世界の行く末を眺めていた。
*
一人気ままな暮らしで、邪神界がなくなっても、自身の生活が変わることなく数日が過ぎた。男は腰までの長い髪を、ウサギに綺麗にといてもらっている。
いつものように、細いリボンで髪を気を引き締めるようにきゅっと縛ると、遠くのほうから大声を張り上げているのが聞こえた。
「どなたかいらっしゃいませんか?」
「いらっしゃったらお返事ください」
自然と警戒する。邪神界がいた時には、知っている人に姿を変えてそばにやって来るなど当たり前にあった。惑星はなくなっても、残党がいるかもしれない。
ウサギが一匹そばへやって来て、男へ向かって頭を下げる。
「どなたか来たみたいです」
怖がっていても仕方がない、男のヴァイオレットの瞳はニコニコのまぶたに隠され、どんな時も崩れない笑顔で指示を出した。
「返事をお願いします」
「わかりました」
ウサギが飛び跳ねながら細い野道を進み緩やかなカーブを曲がろうとしたところで、
「こっちです」
訪問者はやって来た。邪神界ならば、いきなり切りかかって来たりするものだ。心の世界だからこそ、思っているままに行動する。
しかし、やって来た男たち三人は甲冑姿で、間にいる男はとても背が高く真紅のマントを羽織っていた。
邪神界にしてはどうも違うようで、縁側に座っていた男は立ち上がって、ニコニコの笑みを見せる。
「これはどうもどうも……」
「以前の統治がずさんなもので、どちらにどなたがいるのか探している最中でございます」
マントをつけた男が礼儀正しく頭を下げた。凛とした澄んだ女性的でありながら男性の声が、髪の長い男から出てくる。
「さようですか」
「月には他に人はいらっしゃいますか?」
「いいえ、私一人が暮らしております」
「そうですか」
まわりの草むらから、男のそばから、ウサギたちが群れとなって、訪問者へ詰め寄った。
「酒くれ、酒くれ!」
「出して差し上げましょう」
手甲で覆われた手を上げると、酒樽がいくつも出て来た。ウサギたちは赤い目を輝かせて、我先にと酒に手をかけ始める。
「おぉっ! 酒だ、酒だ!」
男は一人、鮮やかなピンク――マゼンダ色の長い髪を風に揺らしながら、その様子を眺めていた。
(食べ物を生み出す力は、僕たちにはありません。そうなると……)
いつもまぶたに隠されているヴァイオレットの瞳は姿を現し、背の高い男をまっすぐ見つめた。
「先日、邪神界を滅ぼされた方でしょうか?」
脇に控えていた男は一人歩み出て、中央の男をかばうような仕草をした。
「こちらは、世界を統治する皇帝陛下となられた方である」
「さようでございましたか」
男が最敬礼で
「顔を上げるがよい」
「はい」
命令の通り男のヴァイオレットの瞳が統治者に合わせられると、陛下の声は優しげになった。
「五千年間一人で過ごしていたのか?」
「えぇ。こちらから動くことは許されませんでしたので……」
こんな話ばかりだと、陛下は思った。有能なものほど、遠くの場所へ移され、何の力も及ぼせないように、悪というものは排除してゆく。誰も幸せにならず発展もしないことをする。同じレベルでグルグル回っているのが、悪なのだろうと。
陛下は珍しく微笑み、
「辛い想いをしたであろう。家族はおるのか?」
「はい。すぐ近くに双子の兄がおります」
五千年間一度も姿を見ていない兄。話をすること許されず、どうしているかも聞けない日々だった。そんな男に、新しい統治者は優しい命令を下す。
「これからは、自由にどこへでも行き来してよい。兄上にもすぐに会いに行くと喜ぶであろう」
「ありがとうございます」
男は思う。自分は泣かない。生まれてから一度も泣いたことがない。それでも、泣くという気持ちがわかった気がした。
「では、用がある時は城へ気軽に来るとよい」
陛下はそう言い残して、お
「お待ちください」
「どうしたのだ?」
酒を出せる陛下だ。このお方ならできるはずだ。男はそう思い、まわりにいるウサギたちを見渡した。
「どうか、このウサギたちを元の姿に戻していただけませんか? この者たちは、前の統治者の力によって、ウサギに姿を変えられた人間なのでございます」
陛下は一瞬言葉を失ったが、ポツリとつぶやいた。
「月にウサギはいなかった……」
いると信じていたものが、違っていた。さすがの陛下も、少しがっかりした。しかし、気を取り直し、男の頼みを聞いた。
「そうか、構わぬ」
陛下が手を一振りすると、青白い光を上げ、ウサギたちは人の形へとあっという間に戻り、全員陛下の前に跪いた。
「ありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
「気にするほどのことではない」
陛下はそう言い残して、お共のものと一緒に、こんなふうに土地に縛られている人々がいる別の場所へと向かっていった。ウサギだった男たちは肩に手を当て、腕をグルグルと疲れを取るように回す。
「いや〜、五千年間は長かったですな」
「しかし、みんなで歌って踊って過ごしただけあって、何とか乗り切れましたな」
神様の心は強かった。どんな暗い世の中でも、歌って踊って楽しく過ごしてしまうのだから。
自由を取り戻せた人々は、ガヤガヤと新しい生活を模索する。
「このあとどうしますか?」
「私は家族の元へ戻ります」
「あなたは?」
収穫祭か何かで出会った村民の密かな楽しみのおしゃべりみたいに、月の表面は今やなっていた。
「いや〜、孫が実はいましてな。今頃大きくなってるかもしれません」
「そりゃ、ぜひ会いに行かなくては」
「お世話になりました」
マゼンダ色の長い髪を持つ男に、次々にウサギだった人々は頭を下げて、瞬間移動で去っていこうとする。
「いいえ、こちらこそ、お世話になりました」
おかしな
「それじゃ、お元気で」
さっききた陛下の一言で、人々が幸せへと飛び立ってゆく姿を男は眺めながら、凛とした澄んだ女性的な声が途中で言いよどみ、
「えぇ……」
何かを思いついて、珍しく声を張り上げた。
「みなさん! 待っていただけませんか?」
「はい?」
ウサギ役だった人々は帰るのをやめて、唯一人の姿のままだった男に振り返った。
*
一瞬のブラックアウトのあと、ヴァイオレットの瞳は大きな工場のある場所へと来ていた。遠くには自分が暮らしていた月が金の光を反射している。
人影もない地表。大きな建物で影ができていて、人探しをするには不向きだった。
「風の噂で、離れ離れの間に、兄は結婚したと聞きました。太陽に今は住んでいるとうかがったんですが、どちらに……」
工場のはずれにまで来た時、金色の草原に人が立っているのを見つけた。何千年
「
走り寄ってゆくのではなく、瞬間移動した。いきなりそばに人が立った、兄と呼ばれた人は振り返り、そこで見たマゼンダの長い髪とヴァイオレットの瞳を見つけて、すぐさま懐かしさいっぱいの笑顔に変わった。
「ん? おう! 元気だったか?」
月から来た男は感慨深く言って、抱擁するように両手を兄に伸ばしたが、
「兄上……っ!」
頬をつねるようにつかんで、左右へ思いっきり引っ張った。弟の悪ふざけに兄の表情が歪む。
「くっ!」
兄の変顔に弟は耐えられなくなって、吹き出した。
「ぷ、ぷぷぷぷっ!」
「お前やったな」
弟の手を振り払って、兄も同じようにしようとするが、子供の追いかけっこみたいなものが始まった。
「あははははっ!」
走って追いかけるのではなく、瞬間移動をして、近くの地面に弟が現れては、兄がすぐにその場所へ飛んでを繰り返す。
「いくつになったんだ? こんな子供の頃の遊びをするなんて」
「兄上はいくつになっても僕の兄上です。僕はいくつになっても弟です」
しばらく兄弟は再会を心の底から喜び、遊んでいたが、兄はふと動きと止めた。
「言葉遣いも変わらなくて――そうだ、変わらないといえば、俺は名前を変えたぞ」
「今は何と言うんですか?」
弟のヴァイオレットの瞳がのぞき込んできて、正義感が強く、好青年の雰囲気を漂わせた兄は、男らしく新しい名を告げる。
「
「
離れ離れなのは寂しかったが、兄が幸せなら、弟にはこれ以上にめでたいことはなかった。太陽海神は自分とはまったく違う容姿の弟の長い髪を眺める。
「お前の名前は昔のままか?」
「僕は
兄はさわやかに微笑んで、弟の肩を軽くこずいた。
「お前だって、月が気に入ってるんじゃないのか?」
弟は不気味な含み笑いをする。
「うふふふっ。子供は生まれたんですか?」
太陽海神は急に真剣な面差しに変わって、悪政の世を生きて来た人々の意見を代表して述べた。
「いや、あのご時世じゃ、子供が大変な思いをするだけだ。生まれてすぐに、成長させられて、仕事をさせられるなど、親として見てることは辛いだろう」
「そうですね……」
月主命ははかなげな声でうなずいた。今日生まれたものが、大人としてやっていかなくてはいけない。それは本人にとってどれほどの負担だったのだろう。自分たちは平和な時代に生まれた。だから、本当に理解はできないが、潰れそうな心のまま生きて来た人もいるかもしれないと、月主命は思った。
ぼんやりしていた弟の耳に、兄のはつらつとした声が問いかけた。
「お前はまだ、結婚に興味がないのか?」
弟はゆっくり首を横に振る。
「いいえ、僕は放浪の旅へ出て、様々な家族と出会いました。素敵だと思い、この宇宙へ戻って結婚するつもりでしたが、邪神界ができてしまい、僕は月に五千年間縛られたままでした。ですから、これからお嫁さんを見つけます」
月のように透き通った綺麗な頬は、小さい頃から変わらず、ニコニコしたまぶたにほどんと隠れているヴァイオレットの瞳も相変わらずだった。
ただひとつ違ったのは、結婚に興味を持ったと言う。それを聞くのが、だいぶ遅れてしまった。だが、世界は永遠だ。今からまた始めればいい、兄はそう思って大きくうなずく。
「そうか。見つかったら教えろよ。そうだ。お前仕事はどうするんだ?」
「仕事……?」
思ってもみなかったをこと聞かれ、月主命はただ繰り返した。放浪の旅のあとは、ウサギと月で踊って歌う毎日だった。働くことなどどこか遠い世界の出来事。
まるで自分たちの関係みたいに、太陽の光を浴びて金色に輝く月を、太陽海神は眺める。
「今までと政治が違うんだから、仕事もいろいろ変わっていくだろう?」
「兄上は決めたんですか?」
婿にいった兄は胸を張って、堂々と言い張った。
「俺は小学校の体育教師になる。夫婦で教師だ」
「学校の先生……?」
月主命はぽつりつぶやく。金色の草原が風に吹かれ、大きく波打った。この世界は子供が生まれたら、親が物事を教え大きくなってゆくそれが当たり前だった。それなのに、人間界と同じように学校という教育機関を作るとは、陛下は今までと違った風を吹かせていた。
*
どこかずれているクルミ色の瞳の前で、ステーキが器用に切られていた。小さな肉片をフォークで口に運んでは、
「――月にウサギがいるって信じてるか?」
人間界も少しずつ時は流れていて、奇跡来は買い物へ行って料理をするという生活からおさらばしていた。食事はもっぱら外食。
お洒落なレストランで、ステーキを口にしながら、月のウサギについて返事を返した。
「ん〜、まぁまぁ信じてるかな」
「夢がないなぁ〜」
「いたら面白いと思うけどね」
昼間からビールを飲んで、フライドポテトも一緒に頬張る。コウはウェスタンティックな店内をくるくると浮遊する。
「この間、陛下が月を訪れたら、ウサギと一緒に踊って歌ってた神様が見つかったんだ」
「本当にいたっ!?」
奇跡来のフォークが思わず手から落ちて、皿でがちゃんと音を立てた。死んで帰れば、月でウサギに会えるという現実を前にして、彼女は自分の常識を変えなくてはいけないと思った。
しかし、コウは話の続きを語る。
「でもな、そのウサギは姿を変えられた人間だった」
「何だか、どこでも手厳しいね。神様の世界もさ。姿変えられちゃうなんて、童話みたいだ」
人間なりに奇跡来は心配した。人ではなくウサギだった間の、彼らの心はどんな思いでいたのかと。
コウは特に気にした様子もなく、飲まないとやっていられない人の心情を語った。
「陛下が最初に訪れた時、ウサギは酒を欲しがったんだぞ」
「夢がないな、そこは」
飲んだくれ
「ちなみに、陛下はそのウサギのやつらのことを、酒くれウサギって呼んだ」
「そのままだ」
奇跡来はゲンナリした。陛下がどんな人物かは知らないが、そのまわりに飛び跳ねながら集まってくるウサギたち。それを目の当たりにした陛下としては、そういう名をつけるしかないほど、衝撃的だったのかもしれない。
コウは隣の空席に腰掛け、手にいきなりフォークを出して、奇跡来のステーキをちょっとだけつまみ食いした。
「人間の姿でずっといたやつは、そのまま月に今も住んでる」
「気に入ったのかな? その場所が」
味に変化をつけるため、塩をぱぱっとかけて、奇跡来はまた肉汁を味わい、グラスの水を一気飲みした。
「今はたった一人で住んでるから、名前をこう変えたんだ。
神様の名前はどんなに横文字でも、漢字表記があるのが常識だと、奇跡来は先日教わったばかりだった。しかし、綺麗にまとめられた名前を前にして、食べる手を止める。
「ん? どういう漢字?」
「月はルナだろ?」
「うん。他の言語使うなんてかっこいいね。っていうか知的、いや頭がよさそうだ、その神様は」
「そこの
フォークを握りしめたまま、奇跡来はうんうんとうなずく。
「やっぱり頭がよくて、センスもいい神様だ」
しかし、今まで何人かの神の名を聞いてきた彼女は、ある疑問点にぶつかった。
「思うんだけどさ。
霊的な肉片は減ってゆくが、現実のステーキはなくならない、コウのつまみ食い。
「尊称のひとつだ。昔の人間の子供に『丸』とかついてただろ? あれは、『くん』とか『ちゃん』って意味だ。それと同じ」
「ってことは、
花束を持った女子に囲まれる、男性神を冗談で思い浮かべて、奇跡来は一人でニヤニヤし、グラスに入った水を飲もうとして氷がカランと涼しげな音を立てた。
コウは説教を軽くする。神様ファンクラブを勝手に作っている、分をわきまえない人間の女に。
「そういう軽々しいものじゃないぞ」
「でも、神様だから、さまはつくよね?」
奇跡来の脳裏には、やはり神殿か何かから出てくる、神様をファンクラブの女子が出待ちしている様子が浮かんでいた。しかし、彼女は面白がっているだけで、特に何の感情も抱いていない。単なる傍観者。
ステーキを再び切り始めて、まわりの客の話し声や店のBGMなどを聞きながら、肉汁体験を満喫する。
「ふふ〜ん♪ ふふ〜ん♪」
神様の世界のステーキ肉は全てなくなり、コウは大きく膨れ上がったお腹をさすりながらゲップをして、話の続きを語る。
「それから数日後に、月主が陛下に舞を奉納に来た。ウサギだった人たちとな」
「ウサギと一緒に、男の神様が舞を踊る……?」
神に奉納する
奇跡来はステーキを飲み込み、首を傾げた。
「どこがどうって言うのがわからないけど、何だかその神様おかしい感じがする。ウサギの中央で踊る神様?」
「そうだ。素晴らしい舞だったぞ」
コウは見てきたようで、大いに感心していた。奇跡来はフォークをノロノロと持ち上げるが、
「そうか。でも、何だか要注意な人物――っていうか神様な気がする……」
勘の鋭い彼女には、嫌な予感が漂っていた。
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