第20話 大丈夫と言って欲しくて

「夏目さん、どうしてここに……」

「美由紀に連れられて……」

「……森橋さんなら出て行きましたよ。理佐と一緒に」

「佐野さん」

「……なんですか」

 そう小さく声を放った佐野さんの瞳は、ずっと廊下の床を見つめ、溢れんばかりに溜まった涙が今にも流れ落ちてしまいそうなのにまるで本人はそれに気づくことも無く、ただこの状況に絶望しているかのようだった。

 違う、こんな風に傷付けたかった訳じゃない…。こんな風に苦しめたかった訳じゃない。佐野さんと理佐が別れた後に美由紀が理佐に気持ちを伝えて、私も佐野さんに気持ちを伝えて…

 そうすれば皆幸せになれるねって美由紀がそう言ってたのに…本当にこれで良いの…

 美由紀……、きっと私たち間違ってるよ。だって――


「佐野さんだけがこんなに傷付かないといけないなんて可笑しいよ……、私はただ佐野さんに優しく笑っていて欲しくて、その笑顔を一番近くで見ていたかった、私だけを見て欲しかった。こんな風に傷付けたかった訳じゃないのに……」

 壁に背中を預けて俯きながら立つその姿は、とても弱々しく今にも倒れてしまうんじゃないかと心配で、それと同時にやっぱり私は理佐には勝てないんだと分かった。こんなに近くに居るのに貴女は少しもこちらを見てくれなくて、此処に居ないあの子だけをずっと見ている。手を伸ばせば触れることもできるのに、きっと私は貴女に触れることはできないんだと、私の声は最初から届いていなかったんだと分かってしまった。

 こんなに好きなのに、どんなに好きでも叶わない、そんな恋があるなんて思わなかった。ずっと相手を想って努力していればどんな恋だって叶うって、実るものだと、そう夢見ていたのに…。

 きっとこれは私の人生で一番愛おしく思う恋になるだろうから、せめて最後くらい綺麗な終止符を私に打たせて欲しい。貴女を嫌いにならないように、貴女に嫌われないような恋だったと思えるように。

「佐野さんはこのままで良いんですか?」

「……」

「このまま理佐とどんどん離れていって良いんですか?」

「……もう分からない」

「……やめて」

「……」

「好き同士なのにそんな簡単に諦めないで! どんなに私が好きでも私は貴女に好きになってもらえなかったのに! 好き同士ならそんな簡単に諦めないでよ! 私が諦めた想いの分もちゃんと幸せになってよ!」


 あぁ、格好悪い。格好良く佐野さんを理佐の所に送り出して「頑張れ」って背中を押して言いたかったのに、涙に邪魔されて可愛くも格好良くもなれなかった。声だって震えて、これじゃ泣いてるって思われちゃう。手の甲で目元を擦るようにして溢れ出し頬を伝っているそれを必死に隠す姿は、本当に格好悪い。これじゃ全然綺麗な終わりじゃない。

 ふわりと大好きな香りがしたかと思えば、目元にあったはずの私の手は優しさと温かさに包まれていて、その先を目で追えば少しだけ困ったように微笑む佐野さんがいた。

「明日、目腫れちゃうから擦っちゃだめですよ」

「……」

「冷やしましょう。来てください」

 佐野さんは、包んでいた私の手を繋ぎ直し、自分の部屋の扉を開けて中に入るよう促してくれたので大人しく入る。初めて、生まれて初めて好きな人の家に入ってしまった。ついさっき諦めた想い人の家に。そこのソファーに座っててくださいとリビングに案内された途端に離れてしまった手に残る寂しさにもう泣いたりはしない。

「ちょっと見せてください」

 その一言と共に前髪を片手で少し抑えてじっと見つめられる。近い距離にドキドキしながらもさっきから変わらないその何処か困ったような寂しそうな表情が気になってしまう。

「あの、佐野さん」

「はい、これで目元冷やしてください」

「…ありがとうございます」

 手渡されたタオルは、ひんやりとしていて目元に当てるととても気持ち良かった。タオルで視界を塞いでしまっているから佐野さんの姿を見ることはできないけど、座っているソファーの隣が微かに沈み佐野さんが隣に座ったのが分かった。


「夏目さんに聞きたいことがあるんです」

 優しいはずの声色にどこか遠慮が含まれていて何を聞かれるんだろうと一瞬不安になる。

「…なんですか?」

「夏目さんが今、何を思って何を目指しているのか知りたいんです。教えてくれませんか…」

「えっ…目標ならこの間も事務所で打ち合わせをしたじゃないですか。まずは、コスメ系の広告を取ってそれからファッションイベントの出演を増やしていくって、……もしかして忘れちゃったんですか?」

 ふふっと明るく笑ってみたけど、それでも佐野さんは「いえ、忘れてませんよ」とそう寂しそうな声色のままだった。きっと、 さっき美由紀が言った「貴女は由香のことも何一つ分かってない」と言う言葉を気にしているんだろうけど、これに関しては美由紀が間違っている。私はいつだって佐野さんに素直に自分の気持ちを伝えてきたから佐野さんはちゃんと私のことを分かってくれているはず。

 今だって理佐のことで一杯いっぱいなはずなのにちゃんと私の事も気にかけてくれて、ちゃんと私の気持ちに向き合おうと頑張ってくれている。

 いつの間にか冷たさを失ってしまったタオルを目元から離し、ゆっくりと瞼を開けば照明の光がやけに眩しかった。新しいタオル持ってきますねと言いながら立ち上がろうとする佐野さんの腕を掴み、もう大丈夫ですよと今の私にできる渾身の笑顔を添えてそう伝える。

 大丈夫、私はもう大丈夫です。私はもう貴女の味方だから。

 私はずっと世間を騙し、密かに交際を続ける理佐と佐野さんを許せないでいる。あの日、強引に理佐を自宅に連れ帰ったけど、私たちの中であの日の話題は一度も出ていない。理佐は私からあの話題を出さないように気を張っているみたいだし、理佐があの話題を出さないならわざわざ私からしたくない話をする理由はない。だからきっとこれからもあの話もあの人の名前も聞かなくて済むはず。

「美由紀、最近体が重くて頭もボーっとする…」

「熱は?」

「んー…熱はないと思う…」

 分かりやすく小さな声で弱っている理佐に心配になる。本当は元気な姿であの眩しいくらいの笑顔を見せて欲しい。でも、今それはできない。元気になったら理佐はあの人のところへ行っちゃうでしょ…。また行ってしまうでしょ…。それなら少しくらい辛そうでも、私が看病するから私の傍に居て欲しい。もう私をおいて行かないでよ……

「念の為、病院行っておく?」

「……大丈夫」

「そう。じゃ収録までまだ少し時間あるし眠ったら?」

「うん…」

 白い肌には似合わない目の下のクマ。色白とは言い難い血色の悪い顔色。周りのマネージャー達も驚くくらいの仕事を詰め込んだ理佐のスケジュールは、本当に酷いもので一日の睡眠時間は三時間あるかないか。担当を大切にするマネージャーであれば絶対にこんなスケジュール管理はしない、してはいけないのに私はあのマンションに帰したくない一心でこんな酷いことを続けている。


 「最近の櫻井さんの露出凄いね、雑誌もテレビも毎日出てるじゃないか」テレビ局や広告、雑誌社のお偉いさん達に会う度に言われる同じようなこの言葉は、「流行りもの」が好きなこの業界特有の反応で、その度に私のせいで理佐が消耗品になっていくような気がして胸が痛む。

 違う、櫻井理佐は今だけの流行りものじゃない。これからもずっと彼女は輝き続けて世界を魅了する存在になるの。


 ずっと櫻井理佐を輝かせたいのに、私は彼女を傷付けているだけかもしれない――




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