第9話 十九の前と始まり
秘密、そう言って微笑んだ夏目さんはそのあといつもの笑顔を浮かべて楽屋から出て行き収録スタジオへと向かって行った。
どうして理佐のことを、誰にも話していないし誰も知らないはず。それなにのどうして……
あとで理佐とのことをどうして知っているのか、そう直接聞いてしまおうかと思ったけど、なんだかそれはしてはいけない気がする。
もし聞くとしても理佐に相談してからの方がいいだろうし。そんな事を考えながらふと収録中の彼女に目を向ければ楽しそうにトークをする彼女。その姿は間違いなく、いつもの夏目由香。綺麗な目で可愛らしく笑う彼女の笑顔は純粋に好きだけど、それはやっぱりマネージャーとしての気持ちで、理佐の笑顔を見た時に感じるモノはココにはない。担当への愛であって、それは恋ではないと自分でも分かっているのに……。
それなのに流されてしまう自分の意思の弱さに情けなく苛立ってしまう。
さっきの彼女は、別人の夏目由香だったんじゃないかと都合良く自分に言い聞かせたい。そう思ってしまえば少しだけ心を軽くすることができるから……。
お願いだからこれからもずっと“いつもの夏目由香であっていて欲しい。
「お疲れ様でした」
「佐野さん、お疲れ様です」
長時間の収録を終えた彼女に一声掛ければ、いつもの優しい微笑みと共に言葉を返してくれる。本当に収録前の彼女は何だったんだと思考が追い付かない。彼女が何を求めているのか分からないし、もしかしたら本当に揶揄っているだけで、こちらの反応を見て遊んでいるのかもしれない。
それならもう振り回されたくない。
でも、仕事に支障をきたす訳にはいかない。行き過ぎたことはちゃんと拒否してそれ以外のことは私が我慢してなんとかなるなら我慢すればいい。会社の為にも夏目さんの為にも理佐の為にも、自分自身の為にも。
「夏目さん、車まわしてきますね」
「あっ、じゃ急いで片付けますね」
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
やっぱり。ちゃんと普通に会話できる。そんなことを思いながら出口に車を停めて夏目さんを待つ。車を停めて五分。まだ来ない彼女に何かあったのではと少しの不安が募り、さっき歩いた楽屋までの廊下を急いで戻る。あと少しで楽屋に着くところで夏目さんの姿を見つけ、重そうに大きな鞄を持つ彼女と視線が交わる。こちらに気付いた彼女は弱く微笑み小さく声を放った。
「ごめんなさい。荷物が重くて遅くなっちゃいました」
眉を下げて申し訳なさそうにする彼女に胸が痛くなる。そっと彼女の右手から大きな鞄をすくい取り、できるだけ優しい声で伝える。
「今度からはこんなに重い物持っちゃダメですよ。私が持ちますから声掛けてください」
「でも、」
「もし近くに居なかったら遠慮しないで呼んでください」
「……」
「夏目さん?」
「どこまでも優しいんですね」
「……」
「でも、まぁ、その優しさが好きなんですけどね」
「荷物持つなんて普通ですよ。さぁ、送りますから帰りましょう」
「ふふっ、照れてる」
爽やか、そう表現するのがきっと正しいと感じるくらい夏目さんは少しの嫌味やねっとりとした部分を見せずに微笑んでいて、そんな姿になんだか少しだけ嬉しくなった。優しいと言われて照れたんじゃなくて、爽やかだと感じるほどの柔らかい空気感の中で夏目さんと話せたことが嬉しかった。
何を考えているか分からない夏目さんと一緒に居る時は、ねっとりとしたどこか萎縮してしまいそうな空気感になる。その空気感は苦手だけど、さっきみたいに優しく微笑む姿や綺麗な瞳を真っ直ぐに向けて話す彼女は寧ろ好き。いつでもこんな空気感なら良いのに。そんな思いを込めてゆっくりとアクセルを踏み車を走らせる。
+++
手帳の中にあるひとつの空欄。十九と書いてあるそこにはきっと何か取材や収録、もしかしたら急遽ロケが入るんじゃないかと思っていたのに、前日の夜になっても一向にそこは空欄のままだった。
「あっ、佐野さん明日オフですよね?」
向かいのデスクに座りパソコンで作業をしていた後輩が急にそんな事を言うもんだから、オフなんてあったっけ?と一瞬頭の中でスケジュール確認をした。
「……うん、オフだよ」
「え、何ですか今の間……」
「本当に明日オフなのか一瞬自分でも分からなくて」
そう苦笑いを浮かべながら返せば後輩は真剣な表情で、
「働き過ぎですよ。佐野さん全然休んでないじゃないですか。体壊さないでくださいね」
「うん、ありがとう」
「皆言ってますよ、佐野さんは頑張り過ぎ、無理し過ぎだって」
「皆優しいね。でも、そんなことないよ。無理はしてない。でも、もし辛くなったらその時は皆に頼るから宜しくね」
力なく微笑みながらそう伝えると「その時は任せてくださいね」と元気な笑顔を向けられて、良い会社に入ったなーと心が救われる。こんな素敵な人たちが周りに沢山いるんだから、ちょっとのことで投げ出すことなんてできない。自分のやるべきことをしっかりとやっていかなきゃ。
「ありがとう。それじゃ今日は先にあがるね」
「はい。明日はゆっくり休んでくださいね」
「うん、お疲れ様」
「お疲れ様です」
事務所から外に出れば外気の冷たさに無性に寂しさが込み上げる。昔から秋の夕暮れや冬の風が冷たい日はセンチメンタルな気持ちになる。空はとっくに真っ黒でどれだけ見上げても星の一つも見えない。東京だなー。
駅に向かう途中で上着のポケットから私物携帯を取り出し着信やメールを確認する。理佐からの連絡を一番最初に探してしまうのはセンチメンタルなせいだと自分に言い訳をする。
これから最後の収録。頑張ってくるね! なおも一日お仕事お疲れ様!
明日朝、なおの部屋に行って起こしてあげるからゆっくり寝てて大丈夫だよ。
おやすみ、なお
メッセージの受信時間を確認すれば届いたのはついさっき、二十一時過ぎ。これから収録ってことはきっと終わるのは日付けが変わった後かな……。理佐も本当にお疲れ様。あと少し最後の収録頑張ってね。理佐への返信を送り足早に帰宅してベッドに倒れ込む。時間を気にしないでゆっくり寝れるなんていつぶりだろう、これも小さな幸せだ。
「起きて、ねぇなお、起きてってば」
理佐の声がする。きっと合鍵で入ってきたんだろう。
「っ……うん……いまなんじ?」
「もうすぐ六時になるよ」
「……えっ……六時?…はやくない?」
「ううん、早く起きて出掛ける準備して?」
「今日はゆっくりじゃないの?」
「そのつもりだったけど、出掛けることにしたの!」
「出掛けるってどこに?」
「ディズニーランド!」
「……ディズニーランド?」
「うん! 一日オフなんて滅多にないし今日しかないよ! ねぇ、行こう?」
朝陽に負けないくらい、もしくはそれ以上に眩しい笑顔で覗き込んでくる理佐にまだ寝てたいなんて気持ちが勝てる訳がない。用意するから待っててと伝えてシャワーを浴びに行く。一日家でゆっくりまったりコースだと勝手に思ってたら真逆の一日ハードにランドコースか。
でも、理佐凄く楽しそうな顔してたし偶には良っか。理佐がバレないようにだけ気を付けよう。
「なお―! 朝ご飯作るから早くシャワー浴びてね!」
「はーい」
キッチンから何かいい匂いがする時は、決まって理佐がご飯を作っている時。理佐のご飯は凄く美味しいんだよね、なんて考えていたら急にお腹が空いてきたから急いでシャワーを終える。
今日は、十九日。
夢の国で夢であって欲しいと思う出来事はこれが最初で最後でした。
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