第8話 歪みゆく愛

「でね、今度の休みは――」


「なお……ねぇ、なお?」

「えっ、あ、なに?」

「なに? じゃないよ、ちゃんと聞いてた?」

「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

「もう、だから今度の休みは来月の十九日なの。なおの予定は?」

「十九日? ちょっと待ってスケジュール確認するから」


「どこかに出掛けるのも良いけど、家で二人ゆっくり過ごすのも良いなー」

 隣に座る理佐のそんな声もどこか遠くに聞こえる。あの日、夏目さんにキスをされてから自分の中にずっともやもやしたものがあって、それはまるで霧の中を彷徨っているみたいな感覚に近い。急に寂しくなったり、不安になったり理由のない何かに怖くなる。

 霧の中は、誰も居なくて右を向いても左を向いても何も見えない、何も感じない。

 手帳を開いて目当てのページを探し出すようにめくる。予定を知りたいその枠の中は他と比べて不自然なほど真っ白で一目で何も予定が無いことを表している。他の枠はびっしりと黒や青や緑の文字で埋め尽くされているのにこの十九の枠だけ違和感を覚えるほどに真っ白。どうして…


「……」

「なお? スケジュール分かった?」

「……うん。十九日は一日オフだったよ」

「本当? 良かった」

 二人とも完全オフな日っていつぶりだろう、とくしゃっと可愛い笑顔でそう言う彼女を見ているとなんだか急に切なくなって、理佐がどこかに行ってしまいそうな気がした。

「理佐……」

 こっちを見て欲しくて彼女の名前を呼んだ私の声は、情けないほど弱かった。

「なお? どうしたの?」

「……」

 良く分からないこの気持ちを上手く言い表せなくてもどかしい。何かを伝えないといけないのに言葉が出てこない。情けない。そう思うと自然と視線が下がって大好きな瞳から目を背けてしまう。


「大丈夫」

 囁くような優しい声と共に包み込まれて大好きな匂いにくすぐったくも安心する。本当はいつだって私が理佐を包み込んであげたい、守ってあげたい。

 それなのに全然だめだめな自分に悔しくなる。理佐の方が大変な事も多いはずなのにいつも笑顔で愚痴なんて言わないし、弱音だって少しも言わない。守ってあげたい、支えてあげたいのに、ちゃんとできてなくてごめん。

 夏目さんのことを幾ら考えたって答えは出ないし、事実は変えられない。

 それでも、それを理佐に言って不安にさせたくはない、これ以上負担にはなりたくない。言わない方が良いこと、知らない方がいいことってきっとこう言うことなんだと思う。だから、もうあの事は忘れよう。きっと彼女の気の迷いだし、あれに深い意味なんてないはず。女性ばかりのグループに居たんだ、昔からきっとあんな風にふざけ合ったりコミュニケーションを取ったりしていたんだろう。……きっと。


 優しく抱きしめてくれる理佐の背中に腕をまわし隙間が無くなるように抱き寄せる。

「大丈夫。大丈夫だから」

 この愛おしい声をずっと一番近くで聞いていられるように、今のこの幸せが無くならないように、一緒に居る時は理佐のことを一番に考えて、理佐のために過ごそう。

「理佐」

「ん??」

「ありがとう」

「ふふっ、なおが辛い時はいつだって傍に居る。こうやって抱きしめてあげる。一人じゃないよ?なおは一人じゃない、私が居るから」

 耳元から聴こえる愛おしい人の声に言葉に胸の奥がぎゅっと切なく痛くなる。何も言えなかったのに理佐は何も聞かずに微笑みながら傍に居てくれる。

 好き 大好き。涙が溢れてしまうほど、きみが好き。


「……好き」

 言葉だけじゃ上手く伝わらない。そんなもどかしさも感じながら少しでも伝わって欲しくて回している腕に少し力を入れる。

「私も好き、大好き。……ねぇ、なお」

 今までの優しさとは違いどこか弱さを含んだ理佐の声に少しだけ体を離して彼女の表情を確かめる。

「理佐?」

「……いかないよね? なおはどこにもいかないよね?」

「えっ……」

 さっきまで私が理佐に対して不安に思っていたことを今度は理佐が私に対して不安に思っている。似てる。不安さえも共有しているみたいでこんな私を失いたくないと思ってくれていることに不謹慎だけど、ちょっとだけ嬉しかった。

「いかないよ。どこにもいかない。ずっと理佐の傍に居る」

「本当に?」

「うん」

「……もう、なおと離れるなんていや……ずっと一緒に居たい」

 この言葉にふと昔の記憶が蘇る。辛かったあの頃……。あの頃があったから今、理佐と一緒に居られる。きっと必要な時間だったんだと思う。でも、戻りたいとは思わない。

「私も、もう理佐と離れたくない。ずっと一緒に居ようね」

「っ……うんっ……」


 溢れそうだった涙が綺麗な瞳から零れた時、絶対にこの人を守る、一生支えていく。そうまた一人心の中で二度目の覚悟を決めた。

 あの頃よりは強くなれたはず。だから、もう繰り返さない。


+++


 テーブルの上に無造作に置かれた携帯が光り、メールの受信を知らせる。メッセージじゃなくてメールってことはたぶん仕事関連の連絡。

「由香、携帯光ってるよ」

「うん、たぶんマネージャーからだと思う」

「佐野なお」

「そんな冷たい声で言わないでよ……美由紀」


 お疲れ様です。

 明日の詳細をお送り致します。

 下記、ご確認のほど宜しくお願い致します。


 開いたメールには業務的な言葉たちが並び明日の私のスケジュールや詳細がこと細かに書かれていた。……なにこれ。

 あの日、キスをした後も佐野さんは変わらない。何もなかったみたいに。動揺するとか気まずそうにしたりとか、なんだったら照れたり意識したっていいじゃない。それなのに、どうして何も変わらないの……。嫌だとか気持ち悪いとかそんな拒絶するようなこともしない。でも、私に興味が無いと態度ではっきりと言われている気がする。

 ビジネスパートナー、新しい仕事も沢山取ってくるし、私だけじゃなくて周りのスタッフさんへの気配りもちゃんと出来て常に笑顔で傍に居てくれる。

 完璧な人、佐野さんはそんな人間だと思う。そして、理佐も完璧な人。グループに居た頃も一番忙しいはずなのに見えないところで誰よりも努力して常に完璧でいた人。

 私は、完璧じゃない。

「そんな顔するなんて、由香も相当好きなんだね」

「……」

「由香とあの人がくっ付けば全部上手くいくんだから、諦めないでね」

「……分かってるよ」

「そう、じゃまた十九日の件は連絡するから」

「うん、分かった」


+++


「夏目さん、ちょっといいですか?」

「はい」

 控室で収録番組の打ち合わせを終えてすぐに佐野さんに声を掛けられた。

「今度、ここの新商品の発売に伴って新たに広告のオーディションが開催されるんですけど、夏目さん受けてみませんか?」

 そう言って渡された資料は、大手化粧品メーカーの新広告オーディションの案内だった。いつか美容系の広告とかやってみたいってずっと思ってはいたけど――

「夏目さん、美容系の広告やってみたいんですよね?」

「……どうしてそれを知ってるんですか? 私まだその話してないのに」

「アイドル時代の夏目さんも知っておきたいと思って過去の映像とか雑誌を見てたらインタビューに載ってて」

 照れくさそうに笑いながら答える佐野さんにどきっとして、でもすぐにチクっと胸の奥が痛くなる。

「……どうして」

「マネージャーだから」

「えっ……」

「どんな事があっても私は夏目さんのマネージャーなんです。担当の為ならどんな事だってします。それが担当のためになるなら」

「でも――」

「仕事ですから」

 俯きながら私の言葉を遮るように放った姿に胸が苦しくなる。仕事だと言うならそれでいい、もうそれでもいいから私はあなたに――

「……じゃ、仕事の為なら、私のためになるならどんな事でもしてくれるんですか?」

「それが、必要であれば」

「じゃ、私を満たして……」

「何言っ――」

「佐野さんが言ったんですよ。担当の為ならどんなことだってするって」

「でもそれは――」

「佐野さんじゃなきゃ満たされない。このままなら収録に行きません」

「収録に行かないなんてそんな冗談言わないでください!」

「私は本気です。満たす、なんて簡単じゃないですか。どうしてそんなに焦ってるんですか?」

「それは……」


「理佐には、秘密にすればいいだけでしょ?」

「えっ、どうして……」

「ふふっ、秘密」

 綺麗に微笑むこの瞳は、一体なにをどこまで知ってるんだ。優しいはずのその瞳がどこか寂しさを浮かべて辛そうに微笑むから、あの時の君に似ていて、だから、嫌いになれなかった。

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