第5話 幽霊の正体
詩乃が六薬堂に戻ったのは夕暮れに空が濃い藍に染まった頃だった。
帰り道が途中まで一緒だという小斎と並んで歩きながら、
「思っていた人と違いまして、少々戸惑っておりますよ」
と小斎が言い出したので、詩乃も同じだと答えた。
「人が死んだ絵を描きたがるなんて、どんな偏屈ものかと思えば、医学のため、亡くなった人のため、ひいてはその家族のためという気持ちを感じましたよ」
小斎は照れ臭そうに頭を掻いた。
「私だってね、北町の方たちや、その他の方から、六薬堂の詩乃という女将は、その道の変態で、近寄れば首を斬られすぐにバラされる。と脅されておったのでね。少々緊張しておりましたが、あなたも医術の発展、そのような志を感じました。
そして、岡殿や長谷川殿のような若い同心の、正義を全うしようとする姿勢。世の中捨てたものじゃないと思いましたよ」
二人は笑って頷きあった。
「ぜひ、下手人を捕まえてくださいな。私で役に立つのであれば、夜中だって駆け付けますゆえ」
そういって小斎と別れた。
人体解剖の詳細絵師、小斎。しょうさいとはうまく名付けたものだ。と詩乃はその背中を見送って店のほうへと向かった。
店では風邪ひきが多くやってきていたらしく、
「今年はのどの痛みが多いようですねぇ。咳に行きますかね?」
と番頭と薬師が話していた。
「おや珍しい、薬師がいるよ」
「おかえりなさい、詩乃さん」
「詩乃さんがプイっと出て行ったんで、今までいてくれたんですよ。風邪ひきが増えてくるんで、私一人では心もとなかったもので」
と番頭が言うのを聞きながら小上がりに上がる。
「のどの腫れが多いですね、鼻が詰まっているのも多いので、これから、ますます鼻詰まりが増えますでしょうね。咳はそれからかもしれませんが、そっちの方の薬を多く持ってきますよ」
「よろしく頼むよ。
運び屋が使いで遠出しているから、薬師が運んできたのか。今気づいた」
詩乃の言葉に薬師と番頭は顔を見合わせて首をすくめた。
「ところで、岡様の御用は? 例の土左衛門でしたか?」
「それもある。……北町ではすでに無理心中とかで片が付いている件も関係がないかという話しだった」
「関連がありそうなんですか?」
「あると思うね。普通の人には不必要な殺し方だったからね」
番頭と薬師が顔を見合わせる。
「不必要な殺し方ってのは?」
「……番頭、お前さぁ、薬師のことがほとほと憎い。殺そうと思う。どうする?」
「はい?」
「憎い相手が目の前にいてだね、ここに、匕首、包丁、この火箸もいいねぇ、そのほか、のみ、だのなんでもいいさ、そこら辺にあるもので、薬師を殺そうとしたらどうやって殺すよ?」
「どうやってって、まぁ、匕首で腹をブスリでしょうね」
「なんで?」
「なんでって、腹が一番柔らかいじゃないですか」
「背中を向いていたら?」
「背中をですか? ……、袈裟ですかね?」
「肩からわき腹に、匕首でねぇ」
「え? 匕首、だめですか?」
「だめじゃないさ。でも、さっきはブスリと刺したのに、今度は袈裟切りにするんだね?」
「……、背骨は硬いですからね、まぁ、腹の後ろ? でしょうかね? 腹をやれと言われたら」
「じゃぁ、薬師ならどうする?」
「……難しいことを聞きますね。私なら毒を盛りますが、毒ではないんでしょう? それじゃぁ、向かい合っていたなら、腹でしょうが、腹の場合仕留めるには時間がかかりますからね、心臓か、それこそ、首を斬りますね。
背中だったら、ろっ骨を避けて刺すでしょうが、そんな高等なことをしている暇はないのでしょう? そうすると同じく首を狙いますね。
でも、首を狙うと血しぶきを被りますからね、あまりいいものではないですよね」
「ほら、誰だってそう考える。それだのに、背中に刺していた。男を背後からさして、一撃なんて考えにくいだろう?」
「それは、なかなか強力な力の持ち主ですね」
「だけど、その連れだった女郎は、腹を掻っ捌かれている。切腹。なんてかわいいものじゃない。脇から脇だよ。そんな傷を自分でつけれると思うかい? ましてや、そんな傷を負わされた人が、男の背中を襲えるかい?」
「……だから、不必要な殺し方ですか」
詩乃は頷き、薬師が作った薬研の中の薬に目を落とした。
「ちょいと、
「粘性が強い痰の患者が多かったもので」
「そう……、じゃぁ、三段階で作っといて。下痢や熱のある時には使えないからね。以前のを一、今回のは三。その間の量で作っといて」
「かしこまりました」
薬師は薬棚前に移動して薬を作り始めた。
外がすっかり薄暗くなり、冷たい風が吹きこんで来た。
そろそろ閉めますねと番頭が番頭台から降りたとき、ふらふらになりながらお清が倒れこんで来た。
「こ、こ、これ」
カラカラの声を絞り出して出た声。やっとの思いで、懐に隠し持ってきたものを番頭に押し付ける。番頭はそれを受け取り薬師に手渡す。
薬師は眉をひそめながら詩乃に渡す。
番頭はとにかくとお清を小上がりに横にさせた。
「帰ってから、洗濯物を取り込み、畳んで、配達に行きましたら、そ、それが、囲炉裏端に落ちていて、あ、あたし、慌てて、ねぇ、これ、あたしのじゃないんですよ、やっぱり、何か居るんですよ。それ、魂を吸う道具ですよ」
お清がそういって震えているのを見て、詩乃はお清が持ってきたものを見る。
「……、これが何かであるかは明日説明しますけどね、魂なんぞ、これで吸い取られやしませんよ。ですが、今から帰れと言っても、怖いでしょう。……、でも、その幽霊を逃がさないためにも、家に居てもらわなきゃいけないんですけどね」
「逃げる? 幽霊ってのは、勝手に入ってきて出ていくのじゃないの?」
「この幽霊は特別なんですよ。危害は加えませんよ。飯はなくなるでしょうけど」
「……、でも、もう一晩幽霊といるのなんて」
「今まで居たんだから、もう一晩くらい。って、思えないよね……。でも、今からじゃぁ、闇に紛れてしまってどうしようもないんですよね」
「……今晩、だけですよ?」
「できますか?」
「今晩だけですよ?」
「もちろん。では、これをもとあった場所に置いてください。無くなったとしても、気にしないように。明日の朝、そちらに行きますから」
「今晩、だけですよね?」
詩乃は笑顔で頷いた。
お清は番頭に連れられて帰っていった。
お清の家。早朝。
岡 征十郎は不服そうにやってきた。
「そう、面白い顔をするな」
詩乃の言葉に鼻を鳴らして不服を申し立てる。
昨夜のうちに詩乃から数名の腕っぷしの強いものを集めて六薬堂に早朝来てくれと言われた。
コソ泥が隠れているというので、数名の腕っぷしに覚えのある岡っ引きを連れてきた。
茅野原のはずれの以前宿屋だったらしい大きな家に着くと、お清と言った洗濯屋の女が出てきた。提灯の明かりのもと見ると女はひどく弱っていて、家から出てきてすぐこの女のほうが幽霊かと思った。
お清は昨夜も眠れなかったそうだが、そのおかげか、かすかな物音にも敏感になって居て、確かに誰かがいて、昨日の落としたものを拾っていったといった。
二階に上がってきた。ふすまで仕切れば十部屋が取れそうなそんな広々とした間に、詩乃、岡 征十郎、三人の岡っ引き、お清、傀儡師が静かに並んだ。
小声で岡 征十郎が聞く。
「それで、これから何を始めるんだ?」
「ん? 今から? 幽霊をいぶりだすのさ」
「いぶりだす? 何を? 幽霊って言ったか?」
「うるさいねぇ、起きちまうよ。さぁ、しっかり事の次第を見といておくれ。
幽霊が出てきたら、捕まえるんだよ」
詩乃はそういって持ってきた線香に火をつけた。
線香とは言ったが、大束にした線香の煙は普通のものとは比べ物にもならないほど大量に煙り、もうもうとお清の家を包み始めた。
「さぁ、火事だーと叫んでくださいな。大声でね」
岡っ引きが大声で火事だと叫ぶたびに煙は量を増すようだった。
すると、咳き込みながら天井から男が転げ落ちてきた。
詩乃は火鉢に線香を突っ込んで火を消し。
岡っ引きたちは慌てたが、岡 征十郎の指示に男をふんじばるようにして躍り上がる。
男は突然のことに逃げようと暴れる。その首筋に岡 征十郎の十手が冷たく当たって男はおとなしくなった。
男は若い男だった。ずいぶんと若いので、元服してすぐだろうと思われる。
「名前は?」
岡 征十郎のその格好と十手はなかなか効果があるようで、
「
と素直に答えた。
「どこの
「どこと申しますか、父は体を壊し役所を辞めまして、下総のほうで道場を開いております」
「それで、そなたはなぜコソ泥のような真似をしておった?」
「そ、それは……」
「医術習得学校の学費はべらぼうに高いと聞くからね。そのうえで、宿を借りておれば、金も底をつくだろうしね」
詩乃の言葉に佐々倉はドキリと目を見開いた。
「医術習得学校?」
岡 征十郎が聞き返す。
「はい……、二回生です。と言っても、そちらの方が言うように、金が払えず、困っておりまして。授業には出たいので、宿を引き払いまして、それで、」
「まぁ、人が住んでいなさそうな大きな家を見つけ、住んでいたところ、お清さんが仲介を立てて入ってきた。
そりゃ、正規の持ち主はお清さんなわけだから、屋根裏に隠れる。食事のいい匂いがするし、お清さんは仕事で居ない時間が多いから、少し、味見程度だったが、それはついぞ食べきった。ってところじゃない?」
佐々倉は「はい、そうです」と短く言い項垂れた。
それを制したのは岡 征十郎の手だった。
「医術習得学校の生徒だといったな? お前、」
「その子は無関係だよ」
詩乃の言葉に岡 征十郎が眉を顰める。
「聴診器。お清さんが昨日駆けこんで持ってきたものは聴診器といってね、心臓の音を聞く道具だ。心音を聞くなんてのは、基本内科の医師がほとんどだ。
中絶手術請負のような奴が持っているとは思えない。ましてや、手術を行い外科の医者もね。つまり、彼から得られる知識は、知識のみで、実践には役立たない」
「役に立たないとは、」
佐々倉が声を上げる。
「いや、お前の学問を馬鹿にしているのではない、私たちはある事件のことを話しているんだ」
「事件?」
「女郎が連続で殺されている事件だ。医術の知識のあるものが下手人だと思っている」と岡 征十郎
「あたしはどちらかというと、熟練の医者もどきが関わっていると思っているけどね」
「……医者もどき?」
岡 征十郎は詩乃を少しはずれに呼び、
「どういうことだ? 学生が怪しいと言っていただろうに?」
「学生は……学生は、助けているだけかもしれないと思ってね」
「助けている?」
「ああ……あたしは驚いたよ。医術学校に通っている生徒があれほど幼いとは思ってもみなかった。いや、自分が歳をとったのだろうけども、それにしたって、あんな子供が、大人が誠心誠意、頭を下げたらいい気になって、自分の持てる知識をひけらかしたくなるのじゃないかしら? と思ってね」
「ということは?」
「新しい知識の交換をしたい。とか、私のところで手伝いをしないか? 金は払う。とか言われたら、貧乏学生ならば教えてしまうのじゃないかしら?」
「教えてもらって、どうする?」
「実践をするのよ」
「……それで、あの、胸を開いた、あれか?」
「だと思う。そう考えれば、中絶手術は古臭いが、開胸の施し方は新しかった理由も解る。手術によって年の差が出たことも、手が違い過ぎると感じたのも納得がいくんだよ」
「手が違い過ぎる。か。小早川先生も同じように思うだろうか?」
「さぁ? でも、違和感はあったと思う。進藤先生でさえ、古い手だと言っていたじゃないか。今どきあんな手法を使うやつは相当の闇医者だからね。
だけど、下流も、下流の、それこそ女を穴としか見ていないような場所に潜んでいる奴なら、まだそういう手法を取って居るかもしれないね」
岡 征十郎は、こういう話をしているときの詩乃の顔がとても嫌だった。特にどういうふうな表情だとか説明しにくいが、とにかく、ひどく憎々しい物言いをする顔だ。それほど詩乃がこういう事に―無知の知をさらし医術を行っていたり、女がひどい扱いをされることに―我慢ならないのだ。
佐々倉はお清の前に突き出され、必死に謝っている。
お清も、幽霊かと思っていたら、コソ泥だったのかとぐちぐち言い始めていた。
「そこでね、お清さん」
詩乃がその間に割って入る。
「あんたさぁ、こういう貧乏学生相手の下宿屋をやったらどうだい? 下宿代を安くする代わりに、洗濯家業を手伝わせる。食事の支度だって手伝わせる。そうすれば、あんたも楽だし、金も入る。どうだろう?」
詩乃の言葉に唖然としていたお清が我に返る。
「え? え、でも」
「そりゃ、若い男と一つ屋根の下。なんて、おっかないとは思うけども、」
「おっかないとは思いませんよ。……でも、処分は?」
「お清さん次第ですよ。お清さんがこの金のない、貧乏学生を許せなくて突き出すか、いずれは名のある医者になり、お清さんの治療を格安で引き受けてくれると思うか。
今はね、医術習得学校を出ないと、医者と名乗っちゃいけないことになって居るんですよ。とはいえ、あたしたち以上の年寄りにはそんなこと納得いかないと、頭の固い連中がいる。大した知識も技術もない癖にふんぞり返ってるやつがね。
そんな連中が間違った診断をして、何人が死んでいったか。
それを防ぐためにね、この子たちは必死に勉強しているのだけれど、いかんせんお金がね。それに、食事や、清潔な環境下で暮らすことこそ、患者を診る最低限の条件だというのに。
もし、お清さんが引き受けてくれたなら、どうせ、学校で困っている学生は一人、二人じゃないだろう?」
「は、はい、大勢います」佐々倉は大きく首を振る。
「絶好の金もうけ」
お清は詩乃を見つめていたが、ふっと緊張を解き、
「そうだね、大江戸のおっかさんになるのもいいねぇ。それに、安い下宿代でも、洗濯家業を手伝ってくれたなら大助かりだ」
詩乃は微笑んだ。
「とにかく、こいつは安全ですよ。たぶん、……下宿代を踏み倒して逃げる奴はいるかもしれませんけどね」
「……そう?」
お清が不安そうな顔をする。傀儡師が、詩乃がだいじょうぶだと言えば大丈夫だと諭す。
佐々倉とお清が傀儡師と岡っ引きの末吉立会いのもとで約束事を決めていく。
「ところで、お前の周りで、怪しい男は居ないか?」
岡 征十郎が佐々倉に聞く。
商談がまとまり、お清は佐々倉の部屋を作らなきゃいけないとふすまを動かし始めた。
「怪しい男、ですか?」
「そうだ。お前の学校の学生で、30過ぎている奴は居ないか?」
「……居ないわけではありませんが、学生と言いますか、もともと立派な先生ですが、新しいものが入ったとお聞きになったらやってこられる方なら何人かいます」
「そうではなく、」岡 征十郎がじれったそうな顔をする。
「それでは、教えてほしいと頼む医者は居ないかい?」と詩乃
「教えてほしいと頼む医者、ですか? 私たちのような学生に教えを乞う方など、」
「今のやり方はどうなのだろうとか、新しい手術方法はどのようなとか?」
「さぁ……、あなたもおっしゃってましたが私は内科医です。新しい手術などはよく解りません。それに、私などに聞いてこられる方も、」
「同じ学生にそういう知り合いがいるとか聞いたことは?」
「……さぁ、聞いたことがありませぬが、」
「そうか……、今まで気づかなかっただけかもしれぬから、今後、そういう話を聞いたりしたら教えてくれないか? 明日にでも私は医術学校のほうへ出向く算段が付くと思うんだが、」
「解りました。今日も学校はありますから。外科の方にも知り合いはおりますので聞いてまいります。
お詩乃さん。妙案を思いついていただいてありがとうございます。学生仲間も、宿代を払えず、食えず、医師になることを断念して田舎に帰るものも少なくないのです。先ほど、お清さんとの話し合いで、宿に支払っていた半分もかからず、飯付きで住めそうです。
本当に、お礼のしようもありません」
「礼には及ばないよ。あんたが立派な先生になったなら、うちの薬を取り扱ってくれたらいいだけだから」
「うちの薬?」
「あぁ、自己紹介がまだだったね。あたしは、六薬堂という薬問屋の女将です」
「ろ、六薬堂……」
佐々倉の表情が何とも言えないものを岡 征十郎は見逃さなかった。
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