最後の客
私がバス会社で運転手を務めて早30年。
片田舎の町から山間の村まで運行する路線は年々利用者が減少し、今では1日に3人しか乗り降りしない日すらある。
近くにめぼしい観光地も名産品もなく、時流に取り残された人達が暮らす最後の砦のようだ。長年この地で働いているから思い入れが深い、私にとっても悲しいことである。
私ももう58になる。妻も子供もいない独り身だ。それでも会社で1番の若手なんだから末恐ろしい。10人程度の小規模バス会社はいつ無くなってもおかしくない。
でも、無くす訳にはいかない。
未だに利用者はいるし、故郷へ里帰りするものもたまにいる。高齢者にとって公共の交通手段がなければ、自他を危険に晒して車に乗る羽目になるからだ。
それは理由の半分、私がバス路線を無くしたくないもう半分の理由は別にある。
30年も前、新任の私が先輩から仕事の引き継ぎをされた時だ。
先輩は懇切丁寧に1から10まで仕事内容や注意点を説明してくれた。
3時間の研修予定時間は大幅に過ぎていた。
「おっと、色々話してたら長くなっちゃったな。すまん」
新人の私に対して頭を深く下げた謝罪。
「い、いえいえ。詳しく教えてくれて助かりました。ありがとうございます」
長時間の説明はたしかに疲れたが、それ以上に先輩の仕事に対する熱意と私への配慮が伝わってきてありがたかった。
「今日はここまで……と言いたいところだが」
先輩はこれまでの柔和な顔つきから目力が増した。
「今から話すのが、ある意味今日の説明の中で1番の大事なんだ。よく聞いてほしい」
そんな風に言われたら疲労でいっぱいだろうが頷くしかない。
「はい。それで、その大事なことというのは何ですか?」
私は尋ねた。
後頭部をさすって斜め下を見る先輩は口を開いた。
「ああ…その前にこれから話すことは全て事実だから、信じてくれ。わかったな」
やけに強引な言い草。非現実的なものの話なのかと思ったが、
「わかりました」と私は素直に返事した。
「よし。……このバスの始発と終発運行ダイヤは今日話した通り平日が7時2分と22時36分、土日祝が7時36分と21時58分だが、それが正解じゃない」
その先輩の言葉は明らかに矛盾していた。始発と終発ダイヤを走るのが正しくないじゃないとはどういうことだ?
私が聞き返す前に、先輩は言葉を続けた。
「いいか、もう一本走らせるんだ。始発だったらその1時間前、終発だったらその1時間後にあと一本だけバスを出すんだ」
なるほど、言いたいことはわかった。だが依然として理由は不明だ。バス停の時刻表にはそんなことを書いていないから、つまりは利用者がいないのにバスを運行して何の意味があるんだろか。
「あの、その、それは何ででしょうか? 意味がよくわからなくて……」
私が訝しげに質問すると、先輩はこう言った。
「いるんだよ、利用者が。日中は人が使うがそれ以外の深夜と早朝にしか利用しない客が」
説明されても上手く飲み込めない。結局、先輩は何が言いたいのか。
納得してないのが表情に出ていたんだろう、察した先輩がはぁと息を吐いた。
「まあ、いきなり信じろって方が無理だよな……。わかった。今日の終発のあと、俺が運転するからお前も乗れ」
その目で見れば信じられるという提案。こんな長々と冗談を言うような人ではないと今日の研修で私もわかっていたので、信頼してそれを受け入れた。
車庫でバスの運転操作やマニュアルを読み込んで夜まで時間をつぶした。
今日は金曜日だから終発は、22時36分。それのさらに1時間後だから23時36分。都会の終発バスくらいの時間帯、こんな田舎では人なんて出歩かない。
「それじゃ行くか」
颯爽と先輩がやってきた。慣れた手つきでバスの整備確認をしてから運転席に乗り込んだ。私も後を追って乗った。運転席の横で手すりを掴んで立つ。
「運行ルートの確認ついでとでも思えばいい。」
先輩が言った。謎の運行の理由も知りたいが仕事を覚えるのも大事だ。私は気を引き締めていこうと思った。
車庫から外へ走り出すバス。道からして最初に向かうバス停は「清水岩」のようだ。ルートは通常のものと変わらない。
出発から5分で「清水岩」に着いた。先輩はバス停前に停車させた。辺りは先もわからぬほどの闇に覆われている。民家はなく、正面には田んぼ、裏手に山林が広がっている。
誰も訪れないバス停から動こうとしない先輩。そろそろ3分経つ。
「こんなところで止まってどうす――」
「しっ。静かに、もう少し待て」
言葉を遮られ、指示を受けた。
ただ、そう言った先輩の顔は和やかで何かを心待ちにしているようだった。
従うしかない私は大人しく待つことにした。
さらに5分後。先輩がボタンを押して乗車ドアを開けた。突然の警告音と空気の抜ける音に私はビクついた。
後方を振り返ると開いたドアと無人の車内。
そこにカツン、乾いた音が入ってきた。
ぬるりとドアから現れたのは、浴衣に白狐の面をした人だった。
その人は迷うことなく奥の席に座った。
驚いているとその後から猿、犬、猫、鹿、猪、熊など続々と動物の面をした、同じく浴衣姿の人たちが着席していった。さらには般若、翁、ひょっとこ、おかめの面の人も乗車し、気付けば車内は満席になっていた。
その間、私は呆気にとられて何も言えなかった。
ぎっしり詰まった面姿の人。これだけ人数がいるのに車内は外と変わらず物音一つしない。
「それでは出発いたします」
案内を告げる先輩。顔を少し私に向けて口角を上げた。
先輩の言葉の意味が、ちょっとずつわかってきた。
夜道を照らして走るバスは、通常通りの運行ルートを進む。
私はたまに後を振り返ったが、面の人達は微動だにしないどころかやはり一言は発さない。不思議と怖さは感じないが、何者なんだ、彼らは。
先輩も運転に集中していて何も話さない。私も色々気になるがとりあえず運転とルートの確認をしていた。
1つ目のバス停以外は全て止まらずに走り続けた。他に車もないしそもそも信号が少ない。
日中の半分の時間で終点「菊花山」まで着いてしまった。
ようやく停車したバス。
「菊花山に到着しました。この度はご利用ありがとうございます」
先輩のアナウンスが響き渡ると乗客は一斉に立ち上がり順々に降りていく。
面の人たちは私の横を気にせず通っていく。
料金は――古銭や輝石らしきもの。先輩はそれらを直接手で受け取っていく。
最後に出たのが、最初に乗った白狐の面。料金を渡したかと思うと私の方をじっと見た。
近くで見ると不気味だ。表情が読めない上にしゃべらないから。
すると先輩が、
「今度から運転することになった新人です。どうかよろしくお願いします」
茫然とした私に代わって紹介してくれた。狐面はこくりと頷き、袖口から一個の石を私に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
反射的に礼を述べるとそのまま、他の面が入っていった夜の山に消えた。
もらった石をよく見れば穴が空いた翡翠の勾玉だった。
降車ドアを閉めて来た道を引き返す。
「始発前には、今度は『菊花山』から『清水岩』を通るんだ。あの人らを元の場所に帰すために」
淡々と説明する先輩に聞いた。
「彼らはいったい、何者なんですか?」
でも私にも直感的にわかってはいた。見た目以外、人ではないんだと。
「俺にもよくはわからない。ただ、俺が引き継ぎの時に聞いた話では山の神様らしい」
前を向いたままそう答えた。存在自体は不思議だけれど、神様だとは思わなかった。しかし怖さを感じない理由はそこにあるんだろうと思った。
「先輩はずっと、彼らを乗せてきたんですね」
「まあな。でも俺が若い頃はあの人らも、もっとたくさんいたんだ。村人と一緒でな」
なんと。今日だけでも席が一杯になるほどいたのに、聞けば昔は通路にもギッシリいたそうだ。
「じゃあどうして人数が減ったんですか?」
「それも村人と一緒だよ。この地域の住民が減って、山の手入れも祠の管理もやる人が少なくなってなぁ。信仰されない神様が消えているんだろう……」
そう言った先輩の横顔は泣いているように見えた。
その日以来、私は毎日始発前と終発後に始点から終点まで走らせる。毎日毎日、面を被った乗客を深夜と早朝に往復させる。料金として受け取った古銭や輝石も数え切れない。
しかし、いまやその人数は10人もいない。顔につけた面も黒く汚れヒビが入った物もある。
バス路線が廃止されなかったとして、私の定年までもまだ時間はあるが、それまで彼らはこの土地に残りバスを利用してくれるだろうか。
将来の不安は募るばかりだ。
人も神様もいなくなった土地がどうなってしまうのかは、考えたくもない。
だから私は今日も一生懸命バスを走らせる。
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