魔女と世界と血の文字と
和泉茉樹
魔女と世界と血の文字と
◆
誰かが火に炙られている。
火刑だ。
十字架が炎に包まれ、その女の子は、じっと動かない。
私はどうしてか、彼女の顔を覗き込むことができた。
私だった。
目があったその女の子は、私。
◆
ハッとして目覚めると、すぐそばに女の子の顔があって、驚いた。
体を起こすと、狭い部屋で私を含めて、四人の女の子がそこにいる。三人はまだ眠っている。
彼女たちは昼間に寝て、夜に働く。
私だけが昼間に働き、夜に眠る。
三人を起こさないように注意して、服を寝巻きから、いつの間にかぼろぼろになった部屋着に着替える。
廊下に出て、まだひっそりとしている廊下を進み、狭い洗面所で顔を洗って、手櫛で髪を整えた。
少し呼吸を整え、食堂へ。
「おはようございます」
この瞬間は、いつまで経っても慣れない。
二十代と三十代の女性が、それぞれに食事の手を止め、こちらを睨みつける。
「おはよう、シーシャ」
声を返してくれるのは、恰幅のいい禿頭の男性だけ。彼がこの家の主人だった。二人の女性は、彼の娘だ。
私はそっと空いている席に座る。
その席の前に用意されているのは、パンとスープだけ。他の三人が食べているものとは全く違った。
でも文句や意見は言えないし、黙って食べる。
部屋の空気はものすごく険悪で、私だけがシュンとして、隠れるように、音を立てないように、目立たないように食事を済ます。
女性二人がさっさと部屋を出て行き、男性が私をじっと眺め始める。
この瞬間もやっぱり、私には居心地が悪く、頑張ってパンを咀嚼して、スープを口に運ぶ。
「行こうか」
私が食べ終わったところで、男性がそう言って私を手招きする。
これから、一日の中でも一番嫌な時間になる。
連れて行かれた部屋で、私は着替えるのだ。
男性が見ている前で。
彼は毎日、飽きもせず、私に新しい衣装を渡し、それに私は着替える。ファッションショーなどと呼ばれるものがあるらしいけど、この時の状態とは全く違うだろう。
男性が納得したら、やっと解放されるけど、私の仕事はここからだ。もちろん、着替えと比べれば天と地ほど簡単だけど。
朝に屋敷に届けられる切り花を縦長のカゴに入れて、それを持って、私は男性が気に入った服を着たまま、外へ出る。
私は花売りをしている。
「お花はいりませんか? お花はいかがですか?」
通りにはすでに買い物客がちらほらといるけど、私を一瞥しては去っていく。
どうして私だけが花売りをするだけで日々を過ごせるか。
それは、私があの男性に見初められているからだった。
彼の奥さんは、難病で病院に入院している。もう一年はそんな具合だ。そしてその女性が亡くなったら、私は堂々とあの男性に迎え入れられる、という寸法らしい。
年齢は親と子どころか、孫ほど離れているが、あの男性の好色を前にしては、そんな意見は何の意味もない。
二人の娘は、私を呪わんばかりなのは、あの男性が娘たちに残すはずの遺産を、私が横取りすると思っているからか。
あの男性は一見、穏やかそうに見えて、裏稼業で荒稼ぎしている。
あの小さな部屋に寝ていた三人の少女たちも、また彼のための道具なのだ。
私はゆっくりと歩きつつ、お花はいりませんか、お花はいかがですか、と声をかけていく。
実の両親の顔はもう忘れつつある。突如として国を席巻した不況の波をもろにかぶって、一家まとめて、路頭に迷った。住む場所もなく食べるものもない。
どれだけそんな生活をしたか、唐突に私はあの男性の前に連れて行かれ、そして、生活は変わった。
あれ以来、両親とは会っていない。
私の生活が良くなったか悪くなったか、それもわからない。
「もらおうかな」
見知らぬ男性が私の前で立ち止まった。
「ありがとうございます」
私は花を桶から抜き出し、紙で素早く包んで、手渡す。
「おっと、大きいお金しかない」
花を受け取った彼が、紙幣を見せた。私はすぐに小銭を出そうとしたけど、男性が素早く続ける。
「あそこのキオスクで何か買って、小銭を作るよ。待ってて」
制止する間もなく、男性は足早にキオスクへ行ってしまう。私は反射的に追いかけようとした。悪い予感がしたからだ。
それは的中した。
男性はキオスクに向かうと見せかけて、そのまま走り去った。
切り花の値段ですら、この国では高価なのだ。
こんなことは初めてじゃない。もっと露骨に、恫喝され、暴力を振るわれかけて、カゴごと花を持って行かれたこともあった。
この国は、悲惨だ。ただ、その悲惨さは、人間の悲惨さだ。
もっとも、悲惨じゃない世界なんて、私には想像もできないけど。
お花はいりませんか、と繰り返しながら、私は通りを右へ行ったり左へ行ったりした。
お昼ご飯を買う余裕はない。
夕方になり、仕事帰りの人たちが揃って家路につき、通りは少しだけ賑やかになる。飲食店で嬌声が上がるのが、遠く近くで聞こえた。
花は売り切ることができず、しおれていた。
店に帰ると、使用人の男性が私からカゴをひったくるようにして、どこかへ持って行った。
私は衣装部屋に戻り、一人で着替える。ボロボロの服のまま、食堂へ。
今日は二人の女性はすでにいない。どこかに遊びに行ってるのだろう。
男性がお茶を飲みながら、本を読んでいた。彼には飲酒の習慣はない。
「おかえり」
柔らかい笑みには、どこにも悪意がない。
あるいは、私が悪意に接しすぎて、悪意を見抜けないか。
「ただいま戻りました。いただきます」
私は自分の席の前に用意された、質素な夕食をゆっくりと食べた。男性の視線が時々、全身のそこここを這うように舐め、かすかに肌を刺激するけど、無視できた。
「美しくなってきた」
男性が小さな声で、しかし私には聞こえるように、そう言った。
ぎょっとして見返すと、笑みがそこにはある。まっさらな、穏やかな笑み。
しかし、油断できない笑みだ。
私は皿に視線を向け、食事を続けた。
食べ終わり、小部屋に戻る。すでに三人の少女はいない。どこかで体を売っているのだ。
私は一人きりで、部屋の隅の布団に入った。
カーテンの向こうから、街の明かりが差し込んでくる。静かにして欲しいのに、どこかで誰かが騒いでいる。
目を閉じて、じっと息を止めた。
私がこれからどうなるのか、誰にもわからない。
もしわかったとしても、絶望しかないのかもしれないけど。
眠りはひっそりとやってきて、私はかすかな浮遊感と同時に意識を失った。
何かが焼けるような、パチパチという音。
熱い。熱気が、足元を這い上がってくる。
目を覚ますと、朝日がカーテン越しに部屋を薄明るくさせていて、三人の女の子が、横になっている。
また一日が始まる。
でもその一日は、私にとって決定的な一日だと、まだ気づきもしていなかった。
◆
「お花をおくれよ」
夕方、町中が真っ赤に染まる時刻に、その女性はこちらに手を差し出してきた。
真っ白い髪が美しい。年齢は二十代だろうか。
「いくらだい?」
「三マルク」
「高いなぁ」
そう言いながら、私の手元に三枚のコインが手渡された。
小銭をポケットに入れて、花を紙で包んで、手渡す。
「お嬢ちゃん、何歳? 親は何をしている?」
花を眺めながら、女性がぶっきらぼうな口調で尋ねてくる。
「十五歳です。親は、いません」
「不況が厳しい時期だものな。花も萎れている」
そういった女性の手元で、確かに花は元気がない。
「ゆ、夕方ですから……」
今から金を返せ、と言われるのが嫌な一心で、そんな言い訳をしていた。
「ちょっとこっちへ来な。面白いものを見せてやる」
手招きをされるまま、ちょうどすぐそばにあった銀行の建物の、玄関に通じる階段に二人で腰を下ろした。
「この花をだ」包み紙から一本、切り花が取り出される。「握りしめる」
彼女が切り花の切り口の方を手で握った。
「そうすると、すぐ萎れちゃいますよ」
反射的にそういう私に、彼女が笑う。
「見てな」
私はじっと切り花を見た。
萎れていくかと思った。
しかし茎が力を取り戻し、花もどこか瑞々しく見えた。
「ここからだ」
唐突な変化だった。
茎が伸びている。だけどそのまま葉っぱはみるみる枯れて茶色になり、花も萎む。茎さえも茶色く変色し、花が完全に消えた。
パッと弾けるように、枯れた切り花が消え、思わず私は悲鳴をあげていた。
「これをご覧よ」
女性が手のひらを広げていて、その上に細かい粒が落ちている。
「種さ。いくよ」
ぐっと彼女が手のひらを握り拳に変える。
その指の隙間から、細い緑があふれたかと思うと、それが茎に成長し、大量に葉を茂らせ、最後には無数の花が咲き誇った。
幻? もしくは夢?
「そのカゴをお貸し」
切り花の入ったカゴを渡すと、女性は売れ残っていた全ての切り花を引っこ抜き、手のひらの中の植物を、カゴに入れ違いに放り込んだ。
「ま、こんなもんさ。切り花は全部買おう。その花も売ればいい」
「あ、え、あ……その……」
さすがにどう答えていいか、わからなかった。
「私は魔法使いだよ、噂くらい聞いているだろう?」
「魔法使い? 魔女ですか?」
魔女は悪魔と契約した人間のことで、年に一人か二人は処刑されている。残酷な、火刑だ。
「魔女ね。まぁ、おおよそその通りだが、私は処刑されるような悪人ではない」
肩をすくめてそんな返事をする彼女は、確かに悪人には見えなかった。
「私の名前はツタ。お嬢ちゃんは?」
「私は、シーシャ」
「よし、シーシャ、私の弟子になりなさい」
それは、魔女になれってこと?
「あんたには才能があると私は見た。こんなところで、花を売っていていいわけがない」
「いいわけが、あるんです」
「誰かに面倒を見てもらっているからだろ?」
その通りだ、と答えようとした。したけど、できなかった。
私が置かれている状況は、実は地獄なんじゃないか。
仕方ない、受け入れるしかない、そう思って、放っておいただけで、私は毎日、激痛に耐えていたんじゃないか。
そして今、そこから抜け出すべきだ、と言ってくれる人が現れた。
「恩義があるのかい?」
そう言われて、私は首を横に振った。
「話を聞かせてよ、シーシャ。力になるから」
私はもう、耐え抜くことができなかった。
私の面倒を見ている男性について、私は全部、洗いざらい、話した。
話してどうなるかとか、何か変わるのかとか、何もわからなかった。
でも話した。
そしてツタは、全部を聞いてくれた。
いつの間にか日が暮れて、街灯に明かりが灯っている。銀行はすでに店を閉じて、でも私たちは階段に座り続けていた。不思議と、誰も何も言わなかった。
「仕返しをしたいかい?」
話し終わった私に、最初にツタが言った言葉はそれだった。
「その男や娘たちに、何かをしてやり返したいかい? 君と一緒に生活している女の子たちを、助けたいかい? シーシャは何をしたい?」
「私は……」
すぐには答えが出なかった。
「私は?」
「私は、仕返しは、しない。自由になりたい」
うん、とツタが頷いた。
「よかろう。これを渡しておく。明日、そっと宙に投げてみな。私のところへ導いてくれる」
手渡されたのは、小さな紙だった。何枚か束になっている。
「今日はもうおかえり。私はあんたの味方になった。また会おう」
すっと立ち上がり、ツタは花束を雑に手にして、人混みに入っていった。
私は何が起こったかわからないまま、傍らのカゴを見た。
花が、こんもりと大輪の花を無数に咲かせていた。
夢じゃ、ない?
「お嬢ちゃん」
急に眼の前で男性が立ち止まり、私はハッとして立ち上がった。
見知らぬ男性が、カゴを指差す。
「それはいくらで売っている? 売り物じゃないのかな?」
「う、売り物です」
「いくら?」
私はとっさに値段を口にしていた。男性が目を丸くし、すぐに小銭を手渡してくれる。
「これはおまけだ」
そう言って、余計にお金を渡してくれて、またびっくりした。
カゴを手に提げて離れていく男性の背中を見送ってから、私は手元にある紙の束を確認した。確かに手元にそれがある。
ツタのことも、魔法も、嘘じゃない、夢でも幻でもない。
それは希望でもあるけど、逆に不安でもあった。
私の中に希望があるのも、不安があるのも、どこか落ち着かなかった。
私は長い間、全てを放り出していたんだな、とやっと気づいた。
家に駆け足で戻り、出迎えた使用人に、カゴを買った人がいた、と嘘をついた。使用人は苛立った顔で、奥へ去っていった。
衣装部屋で着替えて、紙の束をポケットに押し込んだ。
夕食が終わり、部屋で眠り、翌朝になる。
不快な着替えの時間に、どうにかこうにか、見つからないように紙の束を手元に置き続けた。
切り花の入ったカゴを手に、外へ出る。
少し離れてから、紙の束から一枚を剥がし、すっと投げてみた。
空中で紙がひとりでに折れて、蝶々になり、飛んでいく。
私はそれを追いかけた。大通りを進み、脇道に逸れて、路地へ進む。
井戸がある広場を抜け、路地からさらに細い路地へ。
目の前に、どこかの家の裏口があり、そのドアノブに蝶々が止まる。
そっとドアノブを握り、捻ってみた。鍵はかかっていない。
開けてみる。
「来たね」
ドアの奥に進むと、そこは書店のような場所だった。いや、図書室か。
安楽椅子に座っているツタがにっこりと笑う。
私はそっと、後手にドアを閉めた。
◆
ツタが私に教えてくれたことは、想像を絶するものがあった。
一般常識からかけ離れた、世界の成り立ち。
その世界、多重世界と呼ばれる場における魔法使いの存在。
私が何になろうとしているのか。
ツタはこう教えてくれた。
「魔法使いは、人間であって、人間じゃないんだ。物質を超越した、意識存在さ。老いることはないし、肉体に制限されることもない。シーシャはまだ、魔法使いに片足さえも突っ込んでもいないのさ」
はあ、としか言えなかった。
私は毎日、ツタのところへ通って、ツタは私に講義をすると同時に、切り花を全部、買ってくれた。
ある時、家に帰ると男性が待ち構えていた。
「シーシャ、今日はどこにいた?」
「大通りに」
「おかしいな」
男性が嬉しそうに笑う。
「今日の昼間、通りかかったが、いなかったな。偶然か?」
どう答えていいか、わからなかった。
突然に、抱きすくめられた。
悲鳴をあげることもできず、抱え上げられ、家の奥へ連れて行かれる。
入ったことのない男の寝室に放り込まれた。
「シーシャ、きみの自由が何に保証されているか、はっきりさせようか」
ドアに飛びつこうとしたけど、抱え上げられ、また寝台に押し倒された。
服が引きちぎられる。
悲鳴をあげられなかった。
あげられなかったけど、ツタに教えられた護身のための魔法のことは、意識できた。
世界に働きかける思考法。言語の連なりにより、世界法則を湾曲させる、初歩魔法。
この時、不思議と、体をまさぐる男の手は、全く気にならなかった。
駆け巡る思考が撃鉄を起こすように、魔法を練り上げた。
抵抗するようにその手首を掴んだ時、私の意識の中で、完全に世界が歪んだ。
引き金を、引いていた。
男がくぐもった声を上げ、私の上に倒れこんできた。
やっと悲鳴が上がった。でもすぐに飲み込み、男の体を押しのける。
生きているかな? 大丈夫そうだ。
そっと廊下に出て、衣装部屋に走った。目立たない服を選んで、また廊下へ。
使用人や、二人の娘たちに会いませんように。
願いが通じて、誰にも邪魔されずに外に出ることができた。
私は夜の街を走り、ツタと会っていた場所に向かった。路地に飛び込み、ドアの前に立つ。
開けようとした。
開かない。鍵がかかっている!
私は呆然として、そこに立ち尽くした。
そうだ、紙の束。あれは……。
しまった、破れた衣装と一緒に置いてくきてしまった。
すぐそばで唐突に人の声がした。ハッとして振り向くと、見知らぬ浮浪者の二人組が、路地の先を小走りで通りかかった。去っていく。
安堵した。でもそれはすぐに消える。
浮浪者だけかと思っていたところへ、すぐに警察が四人ほど、そこを走り抜けた。
そっと路地を抜けて、通りに出てみる。やはり警察が走り回っている。
そのうちの一人が、こちらに気づいた。指差し、笛を吹く。夜の空気に、その音がはっきりと響き渡った。
それからは、どうしようもなかった。
逃げようとしても、無理なことだ。複数の警官に取り押さえられ、頭に袋を被せられた。
どこかへ連れて行かれる間、私はただじっとしていた。
建物の中に連れて行かれ、ドアが開く音、閉まる音、椅子に座らされ、袋が取り払われた。
もちろん、初対面の男が目の前にいる。服装は詰め襟に見えるが、どこの制服だろう。
「お嬢さん、誠に残念ながら、もう無事にここを出ることはできない」
私は無意識に両手を動かそうとして、手錠がかけられているのにやっと気づいた。足にも足かせがある。
「わ、私は」
「魔女と関係を持ったな?」
ぞっとするほど、冷酷な口調だった。
どう答えることもできない私の前で、男性が言う。
「被害者は一命を取り留めたが、それは些末なことだ。君には火刑が待っている」
どうにかして、逃げ出さなくちゃ……。
でないと、死んでしまう!
「おっと、魔法を使うなよ」
襟首を掴まれ、机に頭が叩きつけられた。衝撃と音が頭蓋骨の中で反響する。それで、思考の中で練り上げられていた魔法は霧消した。
「手を出せ!」
もう一度、頭が机に衝突し、男が乱暴に私の手錠を引っ張った。肩に激痛が走り、また魔法が消えてしまう。
手のひらに激痛が走った。ぼんやりしていた視界が一気に鮮明になる。
ナイフが、私の右手を貫いていて、そのまま机に縫い止められていた。
悲鳴をあげたけど、誰もこない。
男性がもう一本、ナイフを取り出し、私の腕に当てがった。
「魔法使いは治癒力が高いらしいから良いだろう。それに、魔法を防がなくちゃな」
この人は何を言っているんだ?
何をどこまで知っているんだ?
ナイフの切っ先が私の腕をなぞり始める。悲鳴をあげても、逃れられない。少しでも動かせば、手のひらが灼熱の痛みを訴える。
どれくらいの時間が過ぎたか、やっとナイフが私の腕を離れ、手首から付け根まで、激しく痛んだ。
男は満足したようにうなずき、私の手のひらからナイフを引き抜いた。
彼が出て行くのと入れ替えに、二人の男がやってきた。
どこかで見た服だと思ったら、神父服だ。なら、さっきの詰め襟の男は、悪魔払いだったのかもしれない。
引っ張り上げられ、見知らぬ廊下を歩いた。
どこかの広間にたどり着き、私の手枷と足かせは、外された。
自由になれる、などと思わなかったのは、目の前に巨大な十字架があるからだ。
私は衰弱しきっていて、あっさりと十字架に固定された。
抱え上げられ、天井がなくなった途端に、光が目を焼く。眩しさで外へ出たとわかった。
人の喧騒がする。首をひねると、街の人たちが恐ろしいものを見る目で、私を見ていた。
十字架が高い位置で立てられ、私が見ている前で、火刑の準備が進む。
誰かが石を投げた。私は避けることもできない。誰も止めない。いくつものつぶてが私のそこここを打った。
そのうちに誰かが大声で何か言い始めた。石を投げないように言っているのではない、私の、火刑に処せられる理由を説明しているのだ。
松明も用意された。
すぐに、私の足元に火がつけられた。
足元から熱気が立ち上った。煙で息がつまる。
つま先が、痛い。でも、逃れられない。
もう一度、煙を透かして周囲を見た。
住民たちがこちらを見ている。私は一人一人を見た。
「そろそろ楽になりたいかい?」
急に声がした。
声の主を探す。ツタ。ツタ、どこにいるの?
「魔女になった気分はどうだい?」
私は、魔女じゃない!
叫ぼうとしても、咳き込むしかできなかった。
「腕を見なよ。右腕だ」
私は首をひねって、そちらを見た。
手首から肩にかけて、傷が文字になっている。
「魔女の烙印さ。火刑になる奴には、全員にそれが刻まれる」
私はぎゅっと目を閉じた。
私は魔女じゃない。
私は、ここにいて良いわけがない。
「魔法使いになるってことを、しっかり教えていなかったな」
ツタはどこにいるの?
助けて。助けてよ!
「魔法使いは、世界に逆らう奴なのさ」
「逆らう!」
叫んでいた。
「こんな世界、捨ててやる!」
わめいた途端、何かが私の体から抜け出したのが、はっきりわかった。
世界が一変していた。
ツタが目の前にいる。安楽椅子に座って。
ここは、図書室だ。
「世界を捨てる、なんて軽々しく、口にしちゃいけない」
ツタはいつになく、冷ややかな視線を私に向けていた。
さっきまでのことは、彼女が魔法で見せた夢だった?
右腕に痛みが走った。
そこには、血で文字が綴られていた。
嘘でも、夢でも、ない。
あれは、事実だ。
「魔法使いの世界へようこそ、お嬢さん」
ツタの手元で、パタンと本が閉じられた。
◆
「血の文字を刻まれた同志は多いけど、消さない奴も珍しい」
巨大な海の底で、私とツタはゆっくりと漂っていた。
服装は体にピタッと貼りつくような素材で、軽く、体に馴染んでいる。
ノースリーブで、両腕は露出している。
私の右腕には、火刑の前に刻まれた文字が、はっきり残っていた。
「ツタさんも消したんですか?」
「私はもっと未来から来たんでね、火刑なんて野蛮な風習はなかった」
海の中に無数の世界が浮いていた。
魔法使いという、時間を超越した存在、世界の外側にいる存在だからこそ認識できる、多重世界の一角がこの海の中にあった。
「さて、シーシャ、きみも晴れて意識存在となったわけだが、今ならまだ間に合う。どこかの世界の、どこかの誰かとして、火刑によって命を終える、という選択肢が、まだある」
「私は、魔法使いになります」
「楽な道じゃないんだがねえ」
ニヤニヤと笑うツタに、私は右腕を見せる。
「私は私です。私は、魔女ですから、魔女になります」
「頑固なところがあるね。良いだろう、その決意、確かに認めるとする」
スゥッとツタがさらに深く潜っていくの、私も後を追った。
「魔法使いは多重世界の管理者であり、同時に破壊者だ。その存在に正義と悪は存在しないと言って良い。あるのは利害、もしくは主義主張で、まぁ、人間から派生しただけあって、人間らしいところだな」
目の前に、海の中なのに渦が見える。
「行くよ」
渦に飲み込まれた途端、水の気配は消えた。
私は石畳の上に立っていて、すぐ横にツタがいる。
目の前の光景に、しばし、言葉を失ってしまった。
石造りの巨大な建物がそこにある。本で読んで想像した、大聖堂そのものだ。
「ここが魔法使いの拠点、地下聖堂だ」
頭上を仰ぎ見ると、空の一部が渦を巻いている。あそこからここに来たんだろう。
建物に向かってツタが歩いて行ってしまうので、慌てて後に続いた。
ちらほらと人がいるが、こちらに視線を向けるだけだった。
建物の入り口で、若い男が待っている。
「ツタ、久しぶりだね」
「そうだね、ロウ、久しぶり」
「ツタが初めての弟子を持った、ってもう噂になっているよ」
お前が言いふらしているんだろ、とツタが苦笑いし、私の方を身振りで示した。
「こいつはシーシャ。その噂の、私の弟子だ」
ロウと呼ばれた青年が、穏やかに笑う。
「よろしく、シーシャ。僕はロウ。ツタとは古い知り合いだ。しかし」
彼がしげしげと私の右腕を見る。
「血文字か。頑固者らしいね」
頑固者とはツタにも言われたな。
私はどう答えていいか迷って、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「こちらこそ。ツタ、老師たちに話をつけておきなよ」
あいよ、と雑に返事をして、ツタが私の手を引いて、地下聖堂の奥へ進んでいく。
「あのさ、ツタ」
どうにか質問することができた。
「どうして私を弟子にしたの?」
それは、とツタがやや口ごもりつつ、答えてくれた。
「弟子にしたかったから、だな」
「それだけ?」
「どういう答えがお望みかな、お嬢ちゃん?」
私は結局、問い詰めるのをやめてしまった。
全く違う世界、まさに違う世界に来てしまったのに、私は、どこか落ち着いていた。
もう嫌な思いをしなくていい、とはあまり思えなかった。
何かが、誰かが、復讐してくるのではないか、と思ってしまう。
それでも、私にはツタがいる。
ツタは、私を導いてくれる。
私を、助けてくれる。
なぜか、そう確信できた。
「ありがとう、ツタ」
ツタは返事をせずに、そっぽを向いて鼻を鳴らした。
私は、こうして魔法使いになった。
右腕の血文字は、消していない。
ずっと、消すことはないだろう。
それが、私の罪と決意の証しだから。
◆
今でもたまに夢を見る。
煙の中で、火に炙られる女の子。
彼女の右腕には、血の刻印がある。
あれは私が置き去りにした世界。私の抜け殻でありながら、でも、私の揺籠でもあった場所。
今、私は、私を、遠くから俯瞰できる。
俯瞰して、涙できる。
涙して、ずっと、視線を注いでいる。
(了)
魔女と世界と血の文字と 和泉茉樹 @idumimaki
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