第18話 イリニ劇場(2)

 劇場は、壁はあるが屋根はない、開放型のつくりになっている。


 いや、正確には、屋根の代わりにいくつかのクモが、観客席と舞台の上を覆っているといった方が正しいだろう。クモは、風雨から劇場内を守るという機能もあるが、照明や演出などの舞台効果も担当しているようだ。


 今も、音響テストも兼ねているらしい、小気味よい歌がクモから流れ出ている。


「いらっしゃいませ。これから短い間ですが、ボーイを務めさせて頂きます、アベルです。私のことは手足だと思って、何でもお気軽にご用命ください」


 野太い声をした、身長二メートルを超える大男の天使族が、フレドに話しかけてきた。


 その姿は、ボーイというよりは、明らかに警備員側の人間であり、二人並ぶと、どちらかというとフレドの方がおまけに見える。


「では、早速、俺を席まで運んでくれるか」


「かしこまりました。もう一人の方は――」


「俺がラブラを抱いているから、一緒に運んでくれ。運ぶ総重量は同じだろう?」


「はい。ですが、お客様にお手数をおかけしなくとも、お一人ずつお運びいたします」


「いや。俺はラブラを他の男に触れさせたくないんだ!」


 フレドは大きく声を張り上げた。


 近くにいた何人かがぎょっとしてこちらを振り向く。


 一応、任務という名目できているので、少しでも他の観客にアピールしておきたい。


 もっとも、半分くらいは本音も混じっていたが。


「なにいってんのよ。ばか」


 ラブラはそう言いながらも、どこか嬉しそうにフレドの胸に背中を預けてくる。


 フレドは、ラブラの脇下に腕を差し入れた。


「では、失礼致します」


 アベルがフレドの腰の辺りを掴んで、二階席の高さまで飛び上がる。


 フレドたちの席――クモは席の位置としては、左側中ほどの位置にあった。


 テーブルや椅子などの調度品は一切ない。


 置いてあるのはパンフレットと、さらに上空から垂れる一本の紐だけであった。


「中々いいクモね! あー、地上に降りてから大した時間も経ってないのに、なんだかすごく久しぶりな気がするわ――ほら、フレドも早く!」


 ラブラがクモの上を跳ねたり、寝転がったりして、まるで自分の家のごとくくつろぎ始めた。


「ふむ……」


 さすがのフレドでも、クモに乗ったことはない。


 若干の緊張と共に、片足で感触を確かめてからクモの上に立つ。


 見た目に違わぬ、高級絨毯を何枚も重ねたようなふかふかした感触が足を包んだ。


「お客様。よろしければ、飲み物をお持ち致しますが」


「私は大丈夫」


「俺も結構だ」


「では、何かございましたら、そちらの紐を引いてお呼びください」


 そう言うと、あっさりアベルは引き下がった。


 アベルは――というより、劇場側がもう少しフレドたちを近くで監視しようと粘ると思っていたので、意外だ。


 彼が辞した瞬間、左右と後ろのクモがむくむくとせり上がり、個室状態が形成される。


「……魔法の反応はない。変なギミックも仕掛けられてはいない、か」


 フレドはポケットから鈴の形をした探査器具を取り出し、さらには目視と手探りでクモのあちこちを触った。


 アベルの謙虚すぎる対応が、かえって不安だったのだ。


「なにやってるの?」


「盗聴などのスパイ行為を行う仕込みがされてないかチェックしている」


 不思議そうに首を傾げるラブラに、フレドは真顔で答えた。


「大丈夫よ。このクモからはその手の魔法は感じないわ。舞台の上にあるやつには色々仕込んであるみたいだけどね」


「そうか。一応、会話が漏れないようにサイレンサーを張っておく」


 ラブラは呑気に言うが、それでもフレドは対策を怠らず、ポケットからしぼんだ袋を取り出して、息を吹き込む。それは、暗殺蝙蝠の音波器官を、呻きガエルのほお袋で増幅した、消音装置だ。


 用心はするに越したことはない。


「心配性ね」


 うつぶせになり、自身の両手を重ねたまくらに顎をのせた格好のラブラが苦笑する。


「性分でな」


 フレドはその隣で胡坐を掻いた。


(天使族の役者は前に見た名前が多い、冒涜者の名前は、やはり入れ替わりが激しいな)


 フレドは、文字がびっしりと刻まれている冒涜者用のパンフレットを手に取り、ペラペラとめくる。


 前に劇を見た時のことは明確に覚えている。


 師匠に連れてきてもらったのだ。


『劇なんて妄想と脚色で歪曲された真実性の薄い虚構で、観るだけ時間の無駄。題材になった事象の本質を知りたければ、文献を漁った方が効率的じゃないか』


 そんなことを言う、生意気な子どもだったフレドの頭にげんこつを一つくれ、師匠は言った。


 文献からは感情が削ぎ落されている、歴史になった過去の人々にも心があったことを忘れるな、と。


 効率を求めるとかえって大切な何かを失ってしまう。


 フレドは劇からそのことを学んだ。


 自分もあの頃から、少しは成長したはずだが、劇というやつも進化しているだろうか。


「これって、『はじまり』の神話よね」


 ラブラがパンフレットを指さして言う。


 文字文化のない天使族用のパンフレットは薄い。


 その代わり、色使いがカラフルだ。


「ああ、有史前の時代の神話を題材にした劇だな。有史以降の劇は、歴史認識を巡って天使族と冒涜者の間に齟齬があるような題材が多くて、上演できないから、必然的にアルファ時代の演目が多くなる」


 それは、かつて、『世界』の定義が今よりもずっと広かった時代のおとぎ話。


 昔話より古く、伝説が生まれるその前の、はるかはるか創世の御代のこと。


「あっ。なんか暗くなった」


「そろそろ上演開始か」


 観客席の光量が落とされ、クモのベールで隠されていた舞台がその姿を現す。


 妄想か、もしくは神話の再現に、フレドは視線を集中させた。

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