第十話
「疲れた⋯⋯」
予定が狂いっぱなしだ。本来なら、学園の長期休暇を利用して、軍の訓練を指揮したり、自国に滞在している他国の人間との面通しが行われる筈だったのだ。
「どうして、こうなった⋯⋯」
いや、間違い無く軍の指揮も経験したし、他国の人間との面会もした。
但し、全てが王太子、次期国王として、だ。
自室の椅子に深く座り、文字通り頭を抱える。若干真っ白に燃え尽きている感すら有る。
「兄上め⋯⋯」
思わず口から出た言葉を自覚すると、軽く頭を振った。言っても仕方が無い事だからだ。
こうなる可能性も視野には入れていた。ただ、急過ぎたのだ。
あの人のサプライズは昔から迷惑極まり無いのだ。
やれ、役人の不正を見抜いたり。
やれ、農地改革を実施してみたり。
やれ、他国の貴族を唆して有能な人間を放逐させたり。ついでに引き抜いてた。
止めは『裏』部隊の設立だ。
だから、今回の事だって、あの兄の実績からすれば、大した事では無いのかもしれない。
ただ、これ程の功績を知る者は少ない。
亡き兄や、俺のした事になっているからだ。
その所為で、軍も、他国の人間も、俺の立太子を心から喜び、かつ自らを売り込んで来た。
いや、本当に。
いつから俺は朝市の客になったのか、と考えでしまったくらいだ。
呼び込みと叩き売りが酷過ぎた。そこまでして自分を買って欲しいのか。
「⋯⋯いや、最高権力者に取り入る機会だから当然か」
だからと言って、婚約が決まったばかりの男に側室や妾を勧めるのは、どうなのか。
マリーナ姉が中古だから、正室に相応しく無いと匂わせた連中は、絶対に重用しないからな。異論は認めない。
見た目どころか、纏う空気が澱んだ連中のなんと多い事か。むしろ腐っている。
外見も、豚、狸、狐の三種類で過半数を占めそうな勢いだった。あ、他国の人間の方だが。
自国の臣下がそんな奴等ばかりだったら、問答無用で粛正の嵐が吹き荒れるぞ。
まあ、陸地で接している他国なんて隣国だけだから、別の国とは河か海を挟んだ貿易が主な関係。どうしても利に聡い者が選ばれて送られて来るのだから仕方が無い。
「軍の方は犬が多いよなあ⋯⋯」
忠犬、番犬、猟犬。愛玩犬は居なかったな。
狗、と言うべき者も少なく無かった。
こちらは、見るべき者を見た気分である。
彼等の中から、自分に近付ける存在を選ばなければならない。
そちらの方は、自分に合っている気がした。
「だが、忙しいな」
より深く椅子にもたれ掛かり、やるべき事を整理する。
軍の掌握は元々進めている。
他国の人間は利をチラつかせておけば良い。
自国の貴族が厄介ではあるが、そこは『裏』の力も頼む。他者を使うのも上に立つ者の責務。
ならば⋯⋯。
「やっぱり、マリーナ姉と仲良くしないと」
他に誰かが、この場に居たら確実にツッコミが入る言葉だろう。
自分でも理解はしているが⋯⋯。
「嬉しいものは仕方が無いよな」
口元に手をやり、抑える。気持ちの問題だけでは無く、物理的にも行動しないと、ニヤけるのを止められない。
昔から想いを寄せていたのだ。
初めて目にしたのは、宮殿の庭園。
兄上と遊ぶ姿は、美の化身かと思わせるのに充分だった。妖精の様に、いや、最早女神。
あれ程までに美しい女性を目にした事は無かったし、その後も無い。
天すら霞む金糸を蓄えた御髪、深く澄んだ湖面を思わせる天鵞絨の瞳、緩やかな曲線を描く輪郭、品良く持ち上げられた鼻、小ぶりだが蕩けそうな唇。大きさに見合わぬ張りのある胸、細く絞られた腰、触り心地の良さそうな尻。
全てがギリギリなのだ。
これ以上の美しさは、畏れを感じてしまうだろう。
人の世に顕現し、人の身で理解し得る限界の絶佳。
それが、マリーナ・コンキリエという令嬢。
「愚かだな兄上は。自ら女神を手放すか」
本気でそう思ってしまう。
非常に優秀な兄なのは間違い無い。国を案じ、対策を打てる能力も実行力も兼ね備えている。
だが、欲が無さ過ぎる。
だから、自分に王位もマリーナも譲ってしまう。
最適解しか選べないのだ。
「自らの欲すら放棄して、他者の欲望に振り回されなければ良いのだが」
それでも、兄としては好ましいのは間違い無いし、個人的にも嫌いとは言い難い。
ただ、理解に苦しむだけなのだ。
崇高なる存在とでも言ってしまおうか。ひたすらに純粋。それが愚かしく見えてしまう。
愚直である。
『裏』の部隊を設立し、自らの手を汚す事も厭わない強さ。
人心を理解し、上手く操る事で内政をこなす器用さ。
どう考えても、人の汚さを理解しているのに。
きっと、実感を伴ってはいない。
「ある意味、始めから後継者争いに参加していないのだからな」
そのおかげで、本当の意味での魑魅魍魎に接していないのだろう。
真に化物なのは人間だと言うのに。
自らが直面している問題を、何処か別の世界の物語、とでも捉えているのか。
兎角、現実を見ていない。自らの身の周りの事実だと認識していない。
「⋯⋯したく、ないのか。世の中に絶望したく無いから」
なんと滑稽で、哀れな事か。
本質を隠しているとか、見え難くしているという話では無い。
今在る世界と接しているつもりが無い。
一人だけ違う場所に住んでいるのだから、誰からも理解される事も無い。
達観している、などという言葉を当てれば聞こえは良いが⋯⋯。
「本当には生きてはいないのだな、兄上は。昔は違った筈なのだが、な。だからこその能力の高さとも言えようが、理解に苦しむな」
こうやって口にしてしまった言葉は届かないだろう。兄と自分の世界は繋がっていないのだから。
誰かが、この世界と兄を繋げてやる必要がある。
「ティーナ・リガトーニがその役を負ってくれれば助かるのだがな。取り巻き二人では足りぬだろうからな」
本来ならば。
マリーナ・コンキリエがそう成る筈だったのに。
変わってしまった現状に、喜びと憤りを覚える。
そんな自分に嫌気を覚えるが、仕方が無い。
俺は、自らの欲求を理解しているし、それが満たされた今、この上無い幸福感に包まれているのだから。
己の不甲斐無さや矮小さが嫌になる。
先程まで、口元に浮かんでいた笑みに自嘲が混じる。その事実にすら、更に不快な気分が募ってしまう。
「兄上には、もう俺の言葉は届かない」
表面上は、例えば国の運営などならば、有意義な対話が出来るだろう。
だが、兄本人に関する事は、のらりくらりと躱されるか、真っ向から拒絶されてしまう筈だ。
「余計な所が頑固だからな、ルゥ兄は」
思わず昔の呼び方をしてしまう。マリーナ姉が「ルゥ君」と呼んでいたので、真似してしまった時期があったからだ。
兄を支え、助ける予定だった女性は学園で歪められてしまい、二人の関係も歪なものになってしまった。
だが、俺はその絆を修復してやる気は無いのだ。
二人共好きだ。
だが、ならば二人で幸せになるのを座して見ているか、と言われたら⋯⋯多分、無理だ。
俺はどんな方法を使っても、マリーナ姉を奪おうとする。
そして、敗れる。
兄が本気を出したら、俺は勝てないのだ。俺が手段を選ばなくなれば、兄も応じるだろう。
何でも有り、という条件では圧倒的に不利なのは明白。まず、勝てない。
最悪、兄が俺に譲ってくれる可能性も有るのだが⋯⋯。
「思考が飛び過ぎだな。兄上と敵対するなど、馬鹿げた考えだ」
そのような事が現実に成ってはならない。
だから。
「頼んだぞ。ティーナ・リガトーニ」
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