第3話 タダヤス

元の病室。


 どうやら自分が今いる場所はダマスカス(シリアの首都)では無いとディミトリは理解したようだ。

 ビルが立ち並んでいるのが見えていたので、勝手にそう思い込んでいただけだった。

 そして中国でもない。もっと東にある日本という国なのだと知った。


(違いが分からん…… で、どこだ?)


 ディミトリには中国も日本も新聞の記事でしか見たことが無い。なので、地理的なイメージが湧かないらしい。


 だが、場所などはまだまだ些細な事だ。

 彼はもっと深刻な問題を抱えている最中だった。


(なんで、見知らぬ小僧の身体になっているのか……)


 にわかに信じがたい状態にあるのだ。

 目が覚めたら自分が他人になっている。こんな話は聞いたことが無い。

 しかも、困った事に自分は違う人間だと証明しようが無い事だった。


 すっかり取り乱したディミトリは警察署のトイレで大声で騒ぎ出したようだ。

 それを警察官たちはなだめるのに大変だったらしい。

 やがて、興奮のあまり気を失ってしまったディミトリは病院に戻されてしまっていた。


「じゃあ、君が覚えていることを教えてくれるかな?」


 鏑木医師がディミトリに尋ねた。彼は入院した時からの担当医だ。

 警察署での様子を付添の警察官から聞いた医師は心配事が増えたようだった。

 しかし、具体性の無い質問を言われても分からない。


「ナルト……」

「?」


 ディミトリは日本で知っている唯一の単語を口にしていた。

 日本のアニメ好きの同僚が口にしていたものだ。

 彼は忍者に憧れていたので武器の一種なのだろうと推測していた。


「ナルト? ラーメンに入ってるヤツ?」

「え?」


 今度はディミトリが混乱してしまった。


(ラーメンってなんだ?)


 意味不明な単語に戸惑ってしまった。だが、ディミトリの腹が『ぐぅ~』と鳴るので食い物関連かも知れないと考えた。


「ああ、アニメの方のナルトね……」

「!」


 ディミトリの戸惑った表情で、違う方の『ナルト』だと気がついた医師はアニメだと思ったらしい。

 医師もアニメは知っているらしかった。きっと有名なのだろう。

 その様子にディミトリは頷き返した。


「アニメは好きなのかな?」

「どうでしょう…… あまり覚えていません……」

「ふむ……」


 医師はカルテに何かを書き込んで質問を続けた。


「自分の名前は?」

「……」


 まさか『ディミトリー・ゴヴァノフ』と正直に答える程間抜けでは無い。ディミトリは首を振っただけだ。


「じゃあ、お父さんとお母さんの名前は覚えているかな?」

「……」


 いつの間にか日本に居て、しかも身体は見知らぬ男の子の身体である。

 クラスノヤルスク市に居ると思われる、自分の両親の名前を答えてもしょうがないと考えたのだ。


 もっとも両親とは十年以上会ってなどいない。

 飲んだくれの父親とヒステリックに泣き叫ぶ母親を彼は嫌っていた。

 何しろ記憶にあるのは理不尽に叩かれた事と罵られた事。

 最後に聞いた母親の言葉は『生むんじゃなかった』だ。


(いや、頼んでないし……)


 振り向きもせずに家を出て、それ以来帰っていない。きっと両親は自分とすれ違っても気が付かないだろう。

 愛されてなどいないことは分かっている。彼らはディミトリに対して無関心なのだ。


「自分の住んでいた住所は言えるかな?」

「……」

「学校は楽しいかい?」

「……」


 ディミトリは首を振り何も答えなかった。もっとも、質問が分からなかったせいもある。

 自分が入っている男の子の事など、何も知らないので答えようが無いのだ。


「うーーん……」


何を聞かれても分からないというディミトリに、医師はお手上げだと言いたげだった。

 暫くカルテを睨みつけたまま無言になってしまった。


「……」


 もっとも、ディミトリにしても自分が置かれている状況が掴めていない。

 そんな状況で下手な受け答えをして言質を取られてしまうと、後々拙い事になるのは良くある話だ。

 沈黙が状況の改善をしてくれるのを彼は願った。


 これが軍関係の尋問であるのなら簡単だ。自分の所属する軍と名前だけを答えていれば良い。

 もっとも、尋問官は拳で語りかけることが多いので、無事で済んだ事の方が皆無だった。


「記憶障害かもしれないな……」


 医師は何も答えようとしないディミトリに匙を投げた。

 取り敢えず、様子見と称して薬を与えて経過を見るに留めるしかないと判断したようだった。

 医師は傍らにいる看護師に手で合図した。すると看護師は。


「今、君の保護者がいらっしゃるからちょっと待っててね……」


 そう言って看護師はニッコリと笑った。怪我をしてなければバーで一杯奢りたくなる笑顔だ。

 しかし、ここは病院で自分は未成年の立場だ。見た目が小僧では相手にもして貰えないだろう。

 彼女を口説くことが出来ないのを残念に思っていた。


 ディミトリが警察署のトイレで、大声を上げながら騒いだので保護者が呼ばれたらしい。


 看護師に案内されて一人の老婆が診察室に入って来た。


 その老婆はディミトリも知っていた。よく病室に来ていたからだ。

 来るたびに部屋の片付けや掃除をしてゆくので、病室の掃除の担当だと思いこんでいたぐらいだ。

 医者の話では自分の祖母にあたるらしい。道理で愛想が良かったはずだ。


「家族をいっぺんに失われて記憶障害が出ているようです……」


 人間は辛いことが大きすぎると心を護るために、記憶を封印してしまう事があるのだそうだ。

 ディミトリに出ている症状はそうなのだろうと医師は判断したらしかった。

 医師は入ってきてディミトリの隣に腰掛けた老婆にそう告げていた。

 老婆はウンウンと頷いている。彼女からすれば可愛い孫が無事だったら何でも良かったのかも知れない。


 そして、事故の経緯や術後の経過観察などが説明されていく。

 どうやらディミトリが入り込んでる少年の家族は、交通事故で全員が死んでしまっているらしい。

 少年だけが重症だが助かったようなのだ。

 どうりで目覚めた時に管だらけだったはずだ。


(しかし…… 何故、こうなった……)


 少年が病院にいた原因は分かったが、ディミトリが少年の中に入り込んでいる理由が分からない。

 オカルト的考えならば憑依現象と思うかも知れないが、ディミトリは霊的なものは信じていない。


(霊魂など無いし、それをどうこうする神も居ないのは知っている……)


 神が存在しない事は戦場で良く知っているからだ。


(だが、現実的に俺は少年の身体の中に入り込んでる……)


 現実主義者の彼は、この現象が人為的なものであると思っていた。


(何らかの原因が有るはずだ……)


 彼は脳を取り替えられたのではと疑っていた。

 かつて同僚の持っていたタブロイド紙に『ロシアで脳移植が成功!』という胡散臭い記事を見たことがある。

 これも、その類いではないかと考えたのだ。


 ディミトリの記憶では、日本は科学とアニメが発展してる国だと記憶している。

 きっと、その辺に正解があるのであろう。


(しかし、びっくりするぐらいにツイてない奴なんだな……)


 家族を失うは身体も乗っ取られるはで、過酷な運命の少年なのだなと彼は思った。

 しかし、子供が生きるのに厳しい国ばかりを、渡り歩いてきたディミトリは少年に同情はしなかった。

 同情には一文の価値も無いのを知っているからだ。


「薬を出しますので暫く様子を見ることにしましょう……」


 医師は最後にそう言った。


 どうやら退院になるらしい。

 病院を無断で抜け出して、喧嘩するは警察で騒ぐわでは当然であろう。

 元気な患者にベッドを専有されては、次の患者を入れられ無いのだ。


「タダヤス……」


 そして、ディミトリは老婆に知らない名前で呼ばれた。これが自分が入り込んでる少年の名前らしい。


(いいや、俺は貴女を知らない……)


 戦いで人を殺めることを職業とするディミトリだ。普通の人の感情などとっくに無くなっている。

 しかし、生まれた時から可愛がってくれていた自分の祖母は大好きだった。

 その祖母と年齢が変わらないように見える、人の良さそうな老婆に自分は他人なのだと言えないでいた。


 彼の苦悩は始まったばかりだ。

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