私はそうして思い出す

 ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー




 ーーーあの頃の私は、どうしようもないくらい無知で、どうしようもないくらいお転婆で、どうしようもないくらい野生児でした。



 濃い緑色をした一冊の本を手に取ると、私はその古くなった表紙を優しく撫でた。

 掠れた文字で表紙に記されるのは『野生幼女観察日記』という、一回りも二回りも変わったタイトルだ。

 その中はいったいどんな内容が記されているのか。

 開いてみればなんてことはない。

 ある者たちの【日々の記録】である。

 人気の無い深い森の奥で独りで暮らすゴブリンが、偶然出会った幼い人間の女の子と一緒に生活を共にする。

 そんな内容だ。

 ちなみに人間の女の子には頼もしいお供の大きな熊がいるのだが、この日記には熊のことがあまり登場しない。ちょっと残念だ。

 表紙をゆっくりと捲る。

 初めの項目には、この日記を記した亜人ゴブリン族のモンタによる【あいさつ】が書かれている。

 そのあいさつは、自己紹介の様な手紙の様な取り留めのない文章で、私はそれを読むのが好きだった。

 それから、ページを捲った。

 はらり、はらり。

 捲る音だけが、部屋の中に溶けていく。

 日記の内容は量こそあれど然程長くは綴られていない。だから、読み終わるのも早い。

 私は初めにしたように、表紙を撫でた。

 ここに書かれていたことに、あの頃の記憶を重ねていく。

 私を、私にしてくれた掛け替えのない大切な思い出ーーー。




 例えばそう。

 私が火の燃ゆる釜戸の前で昼前から眠っていた時のこと。




 〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜




 遠くからの伝わる足音の響きで私は目を覚ました。

 親しみのあるそのリズム。

 これはモンタだ。

 走っているみたい。

 大きな足音も一緒に聞こえる。

 これはお母さんだ。

 二人は一緒に出掛けていたようだ。

 家の近くまで来ると、足音はゆっくりとしたものになった。

 私を外に連れ出さないで二人だけ遊んでいるなんて、ずるい。そうだ。今から私も遊びに加えてもらおう。モンタはまた何か言ってくるかもだけれど、一歩外に出てしまえばこっちのものだ。

 しかし、頭も体も寝起きのせいかふわふわしていて、上手く力が入らない。ふああ、と欠伸を一つして、玄関前にゆっくりと歩いていった。

 扉はすぐに開かれた。

 ギィと音を立て寒気と共に緑の肌をした人影ーーーモンタが入ってきた。その後ろから大きな熊ーーーお母さんが覗き込んでいる。


「ニーナ。起きてたのか。待たせてごめんな」


 モンタは玄関前にお座りしていた私を見つけるとひょいと持ち上げると、食卓の椅子に座らせた。お昼ご飯の時間らしい。通りでお腹が空いているはずである。

 改めてモンタを見ると、彼は手元に持つ何かに視線を落とし、私のことに気がついてそれをさっとズボンのポケットにしまった。

 首を傾げる私を前にモンタはさて、と手を叩いてしゃがんだ。


「何がいいかなぁ。食べたいのあるか?」


 モンタは床下の食料庫に足を踏み入れながら私にそう声を掛けてきた。何を言っているのか、あまり分からない。けれど、何となくの意味は分かった。


「おむらいす〜」


 そう言うと、モンタは「あいよ〜」と返事をして潜っていった。その合図を聞いて、私は椅子の上で落ち着きなくモンタが出てくるのを待った。

 あの黄色いのが食べれる!もうわくわくである。

 しかし、油断はならない。彼は私がオムライスと言うと、黄色いものではない別の物を作ることがあるのだ。それもしょっちゅう。その際、何事かを捲し立てるように言ってくる。私は一度、抗議も兼ねて脚に噛み付いたこともある。それぐらいに私はオムライスが好きなのだった。

 モンタが手に持ってくる物の中に卵があるかないかを見張らなければ。


「よっこいしょ」


 籠に食材を入れて戻ってきたモンタは台所にそれらを並べるとご飯を作り始めた。

 台所の上には卵があった。

 今日は本当に作ってくれる!

 私は椅子を掴んで台所の横に引きずってくると、そこに登って作る様子を眺めていった。

 すると、途中、モンタが思い出したように手を止めた。


「米を炊かなきゃいけないから、ちょっと時間が掛かるよ」


 そう言ってモンタは先に温めていたスープを器に乗せて私に渡してきた。


「熱いからゆっくり飲むんだぞ。あと、溢さないように」


 スープを口にすると身体の内側から次第に温まってきた。

 きっとお母さんみたいに毛があれば寒くないかもしれないけれど、私には無いのですぐに手足が冷たくなってしまう。いつになったら毛が生えてくるのだろう。かと言って、体に何かを巻き付けるのは嫌いだった。あの、きゅっと縛られる感覚が私の知らない恐怖を掻き立てるのだ。

 身体が冷たくなる方がまだいい。

 感覚的にそんなことを思っていると、ご飯を炊く間、モンタは寝室に一人入っていってしまった。


「勘違い、じゃなかった。…………様、おいらは」


 後を追って覗くとモンタは机の引き出しを開けて、何かを呟いていた。その声はあまりにも小さく、自分の歩く音でよく聞こえなかった。しかし、様子がおかしいことだけは伝わってきた。


「モンタ?」

「……。ああ、ごめんごめん。今、戻るよ」


 帰ってきてからというもの、少し暗かった表情が更に翳りを増していて私は少し不安になったのを覚えている。

 この時の私に言葉を話せる知識があればと記憶を思い出しては後悔するばかり。

 机の引き出しを戻したモンタは、私を抱えてコトコト音を立てる土鍋の様子を見に戻った。


「なあ、ニーナ。お前さんは、自分の母親のことをどこまで覚えてる?」

「じぶん、はあおやのここ?」


 戻ってきたモンタは食卓を挟んで私を前に座らせると話しかけてきた。しかし、彼の言っている言葉を私は全く理解できない。精々、音を真似するのが精一杯だった。

 そういう時、彼は私の頭をくしゃくしゃ撫でて笑うのだ。

 それがなんだか、今日は寂しそうに微笑むので、私はどうにかしようと何度も音を口にするのだが、いつも上手くいかない。

 彼はその表情を残したままとつとつと話し始めた。


「ニーナと熊がどこでどうやって出会ったのか、おいらやっと知ったよ。熊が無理矢理教えてくれたんだ。そのせいで朝、寝坊しちまったんだべ。それで、さっき熊の住処に行ってきた。ニーナが覚えてるか分からないけんど、お前さんの母ちゃんの鞄を見せてもらった。そこに、少なかったけんど、ちゃんと形見を見つけてきた。後で、それを着せてあげるからな。ちょっと丈を直さなきゃいけないから待っててな。……それでなあ。ニーナ。ここの暮らしはどうだ?楽しいか?このままずっと、ここに居たいと思うかい?」

「う〜??」

「ええっとな、だから……。おいらの言ってること分からないだろうけど、ちゃんと聞いて欲しい」


 歯切れ悪さだけは私に伝わってきており、どうしていいか分からず、口を継ぐんでそれを聞いた。


「お前さんの、家族を探そうと思う。ニーナの母ちゃんは、もういなくなってるかもしれない。でも、母ちゃん以外の誰かが必ずどこかにいるはずなんだ。ここを出て、探しに行こう。手掛かりも見つけた。それになあ。どの道、冬が来たら今の備えじゃ厳しくって越えられやしない。町の方がここよりよっぽどましだべ。町に行ってお前さんの家族を探しながら、冬の季節を乗り切るんだ。そしたら、な。そしたら。……ニーナ。どうしたいか、おいらに教えてくれ」


 そう言ったモンタは、どうしてか震えていた。

 身体が冷たいのだろうか?

 私は椅子から、とんと降りるとモンタの元へ行き抱きついた。最近、私がぷるぷる震えているとお母さんがそうして包んでくれるのである。モンタも変な物を身に付けているというのに震えるなんて。

 すると、モンタの顔から雫が降ってきた。

 私を抱きしめながら彼は小声で言うのだった。


「ユウナ様、申し訳ございません。わたくしは、貴方に何もしてあげられませんでした。申し訳ございません……申し訳ございません……」




 それから数日後、モンタが手作りした荷車に乗って深林を出るのであった。




 〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜◆〜〜〜〜〜




 幼い頃に過ごしたあの時を一時たりとも忘れたことはない。

 こうして思い出せば、あの時分からなかった言葉も今なら理解することが出来る。

 けれども。

 私は未だに分からないことがあった。



 ーーーユウナ様。



 モンタは当時、私が聞き慣れない口調でそう謝っていた。

 その名前は誰のもの?

 いったいそれはモンタにとってどんな人物だったのだろうか。

 この日記にはユウナ様という自分について何も書かれていない。

 不思議と気になるその人物に私は会いたいと思いつつ、記憶に残るモンタに思いを馳せるのであった。




 ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー◆ーーー

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